ハンセン病の闘いの歴史に学びともに考えるBBS
[トップに戻る] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]
おなまえ
Eメール
タイトル
コメント
参照先
認証文字列
不正投稿対策として「fZW30j」を入力しないと投稿出来ないようになっています。
暗証キー (記事メンテ用)

[1805] Re:[1804] [1802] 「特別病室」と著しく人権を侵害されたことには変わりはありませんが、アウシュビッツで虐殺された人と同一視するのは疑問です! 投稿者:リベル 投稿日:2008/10/06(Mon) 18:27  

> > 北風さんのフォローは結構です。
>
> 人の口を簡単に封じるものではない。
> いいたいことがあれば、書く。
>
> ただし、この件に関しては以前申し上げたし、今もそう思っているから再論はしない。小生の考えは変わらないが、異論があるということで承っておきます。


そういう風にフォローをしないでくださいと言っているのです。北風さんの口を封じているのではありません。案の定議論をソッポへ逸らそうとなさる。それをなさらないで下さいと言っているのです。


滝尾さんに問いかけているのです。http://takio-kokoro-2.hp.infoseek.co.jp/pg08/pg08.htmlへどうぞというのが本道でしょうし、異常に長いコピペが他の人に不自由をもたらしていることについて、滝尾さんご自身からの返事を聞かせて頂きたいだけです。

以上で、私の投稿は終わります。北風さん一流の、押し問答の議論に参加することだけは、キッパリお断りしたいからです。

以上、以後当分、こちらへお伺いしません。ではでは、敵に後ろを見せて、退散、退散・・・(^_^)/~


[1804] Re:[1802] 「特別病室」と著しく人権を侵害されたことには変わりはありませんが、アウシュビッツで虐殺された人と同一視するのは疑問です! 投稿者:北風 投稿日:2008/10/06(Mon) 18:09  

>
> 北風さんのフォローは結構です。

人の口を簡単に封じるものではない。
いいたいことがあれば、書く。

ただし、この件に関しては以前申し上げたし、今もそう思っているから再論はしない。小生の考えは変わらないが、異論があるということで承っておきます。



[1803] 私も同じように思います 投稿者:リベル 投稿日:2008/10/06(Mon) 17:54  

>滝尾さんへ。
すみませぬ。これを書いているのは「あずき」です。
できれば、↑このような形で書いていただけませんか?

>これからしばらくは、北風さんからの「2008年度セミナー予告」が何度かアップされることと思います。それがスクロールしなくては、すぐにみつからない状態になるのは困ります。出すぎたこととは思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。

>北風さんのフォローは結構です。
滝尾さんご自身のお考えをお聞きしたいと思います。


私も「[1782] 藤本事件 投稿者:リベル 投稿日:2008/09/16(Tue) 18:47 」にこう書きました。

「ここは本来「ハンセン病の闘いの歴史に学びともに考える」場所であったはずです。今は90%が滝尾さんの「第二サイト」と化しています。滝尾さんも「闘いの歴史」をお書きになっています。しかし、滝尾さんはそのURLをお教えくだされば十分だと思うのです。私などは先ずここhttp://takio-kokoro-2.hp.infoseek.co.jp/pg08/pg0803.htmlを読んでから、こちらへ来ますから、何か新しいことが追加されていないかと、結局同じ文章を二度読むことになってしまいます。

これは滝尾さん、異常な状態だと思います。ご自分のサイトがありながら、(これは私はこちらhttp://www.eonet.ne.jp/~libell/13keijiban.htmでキチントご紹介申し上げているれっきとした独立した堂々たるBBSではないですか)もう一度同文を他のBBSへコピペなさる、これは他の人が真似をし始めると、まさに奇妙な事態を招きかねません。

先輩に対して生意気なことを申し上げました。またこれは運営者である北風さんに対するお願いとも取れます。いろいろな反論もお有りになろうかと存じますが、しかし、疑問を感じながら沈黙を保っているのも、潔くないと思って、この機会に思い切って書きました。」


それに対して、滝尾さんからは直接、どんなご返答も頂いておりません。私は沈黙を守ってはいますが、先輩を尊重しての所為であることは、お分り頂けていると思います。

明らかに、あずきさんの「尻馬に乗った」投稿だとは思いますが、しかし機を失すると、思いが通じなくなると、そう考えて投稿しました。心ある対応をお待ちしております。

北風さんからの「2008年度セミナー予告」がスクロールしなくては、すぐにみつからない状態になるのは困るのは実感なのですが、それ以前に、同一内容のコピペが「ハンセン病」関係のBBSにダブッテ投稿されることの異常を黙視しているのは、自らの怠慢とも思えますので、失礼を顧みず、申し上げました。現状では「滝尾の掲示板」を訪問することが、殆ど「無駄」になっているのですから・・・(^^)


私も申し上げますが、北風さんのフォローは、結構です。「ここに滝尾さんが書いているのは、一人で行くのではなくこの掲示板の仲間とその旅を計画しているからです。」なのであれば、単純な長いコピペではなく方法は別にもあると思います。善処を、滝尾さん、北風さんにお願いしたいと思います。

失礼の段は重々お詫び申し上げます・・・m(_ _)m


[1802] 「特別病室」と著しく人権を侵害されたことには変わりはありませんが、アウシュビッツで虐殺された人と同一視するのは疑問です! 投稿者:滝尾英二 投稿日:2008/10/06(Mon) 14:04  

http://takio-kokoro-2.hp.infoseek.co.jp/pg08/pg08.html

滝尾さんへ。
すみませぬ。これを書いているのは「あずき」です。
できれば、↑このような形で書いていただけませんか?

これからしばらくは、北風さんからの「2008年度セミナー予告」が何度かアップされることと思います。それがスクロールしなくては、すぐにみつからない状態になるのは困ります。出すぎたこととは思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。

北風さんのフォローは結構です。
滝尾さんご自身のお考えをお聞きしたいと思います。


[1801]   「特別病室」と著しく人権を侵害されたことには変わりはありませんが、アウシュビッツで虐殺された人と同一視するのは疑問です!                                                                                                                                                        投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/05(Sun) 23:47  


 2008年 9月18日(木)に「エリカ」さんは、「アウシュビッツ」と題して、病者からのメッセージのホームページに、下記のような文を投稿されている。さらに、9月22日にも「‥‥‥一方は戦争犯罪であり、国によるハンセン病患者の隔離・撲滅政策とナチスによるユダヤ人虐殺ホロコーストは全く性格も形態も目的も異なるもので、比較することもできないし、また同一視することもはできないというのが、わたしの見解です。」という一文も投稿されている。

「エリカ」さんは、一面識もない方であるが、私も同じく「病者」であり、また『滝尾英二的こころ』というホームページをつくっていることもあり、「病者からのメッセージ」は、たびたび「訪問」している。


「‥‥‥谺雄二さんはハンセン病療養所を日本のアウシュビッツだとおっしゃっています。が、これにはちょっと疑問を覚えるのです。

 ハンセン病療養所は当時は療養所というより、医療刑務所で、患者は過酷な生活を強いられました。
 大正5年には「癩予防ニ関スル件」を改正して強化し、療養所長に「懲戒検束権」が与えられ、療養所内に「監房」特別病室が設置されました。多くの患者が命をおとしました。
 アウシュビッツに収容されたユダヤ人は貨車で連行された。ハンセン病に罹った人も貨車(お召し列車)で連れてこられた。
そして、強制労働させられた。

 確かに、類似点はあります。
 しかし、アウシュビッツ収容所は殺人工場で、虐殺を目的として建設されたものです。アウシュビッツに収容された人は、選別され労働できない人(幼い子供、妊娠している女性、老人、障害者)は即ガス室に送られたのです。

 どちらも著しく人権を侵害されたことには変わりはありませんが、アウシュビッツで虐殺された人と同一視するのはちょっと疑問を覚えるのです。」


 今日、私のホームページに掲載する投稿文を書こうと、資料をあれこれと探していたら、高田 孝著『日本のアウシュヴィッツ』ハンセン病国賠訴訟原告団<草津>、同支援する会<草津>発行(発行者・谺雄二)という冊子があった。A5判で32ページ、1999年6月20日発行である。その巻頭でらい予防法人権侵害謝罪・国家賠償請求訴訟・草津原告団長・谺雄二として「『日本のアウシュヴィッツ』刊行にあたって」という巻頭文が、4〜12ページにわたって書かれていた。


 その谺雄二さんの書かれた一節には、つぎのように書かれていた。

「‥‥‥その重大な国家犯罪の一つが『特別病室』です。すでに書証とそては文中で紹介済みの沢田五郎著『とがなくてしす ―私が見た特別病室』がありますが、このたび同じく栗生楽泉園の療友高田孝より「特別病室」に関するきわめて貴重な証言が得られましたので、ここに『日本のアウシュヴィッツ』と題し、法廷と国民のみなさまにお届けしたいと存じます。アウシュヴィッツは、ご存知のとおりポーランド南部の一都市のドイツ語なで、第二次大戦中ナチス・ドイツの強制収容所が置かれ、ユダヤ人など多数が虐殺されたことで有名です。証言者は、「特別病室」がそのアウシュヴィッツの強制収容所と同じだというのです。」(11〜12ページ)と書かれてあった。

私は、9月18日(木)に「エリカ」さんの投稿文に同感する。「確かに、類似点はあります。しかし、アウシュビッツ収容所は殺人工場で、虐殺を目的として建設されたものです。アウシュビッツに収容された人は、選別され労働できない人(幼い子供、妊娠している女性、老人、障害者)は即ガス室に送られたのです。どちらも著しく人権を侵害されたことには変わりはありませんが、アウシュビッツで虐殺された人と同一視するのはちょっと疑問を覚える」のである。

 「エリカ」さんの貴重なご意見を引用させていただいたことに感謝したい。


              人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                ‘08年10月5日(日曜日) 23:45

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥



[1800]  故・島田 等さんから今日的課題を学ぶ   (滝尾英二)                                                                                投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/05(Sun) 05:57  

 <故・島田 等さんから今日的課題を学ぶ>

              人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                ‘08年10月5日(日曜日)5:26


 今回、島田 等さんの書かれたものをホームページに書き写してみて、これが13年以前に書かれたものだと、思い、びっくりするほど今日性であり、新鮮な内容の文です。(滝尾のメールから)

三十六年前に書かれた、この「“知識人のらい参加”―永丘智郎」を書き写して、今更のように、今日においてハンセン病問題で論じられている諸問題=たとえば「社会復帰」「〜将来構想」「近現代の医療制度」などが、すでに「“知識人のらい参加”―永丘智郎さん、神谷美恵子さん、杉村春三さん」などによって、適切に指摘され助言されていることです。実に新鮮で読むことができました。その提起は、ハンセン病問題のみならず、今日の「医療制度」「医療行政」「医療教育」「高齢者や心身障害者の医療問題」などにも、実に適切な指摘、助言がなされていることです。(‘08年10月1日の滝尾のホームページより)

 こうした私の意見について、親しくしている「メル友」から、下記のようなメールが送られてきました。ご本人の了承をいただいて、紹介します。


「島田等さんの評論は、らいの特殊性を掘り下げることによって客観化し普遍化しうるような“人間体験の根源”に、今日の読者をして触れさせるものがあると思います。
 これは、島田さんの作品に最初に触れたときに受けた印象で、今も変わらぬ思いです。

 人間体験の根っこに触れさせるような作物は、古びることがない。それは島田等さんが、「らい」の特殊性に凭れないところで深くものを思い、書かれているからでしょう。

 療養所文芸をやられた多くの人たちの作物、特に伝統的形式の〈短歌〉や〈俳句〉などの定型短詩をやられた人たちの多くの作物が、そして詩作品を見ても、一部の人たちを除いて、「らい」に依って書く、らいの特殊性に寄りかかっているところから書くというところからさほど遠くには出ていないことを考えれば、このことは稀有なことであることがわかります。」



[1799] 2008年度セミナー予告 投稿者:北風 投稿日:2008/10/04(Sat) 19:42  


    ハンセン病市民学会 図書資料部会
2008年度セミナー予告

島田等「知識人の〈らい〉参加」をめぐって

図書資料部会はこれまで2回、多磨全生園でセミナーを開催しましたが、第3回目は会場を京都に移して下記の要領で行います。

テーマ 島田等「知識人の〈らい〉参加」をめぐって
日 時 2009年3月21日12時〜22日12時まで
場 所 京都・京大会館(075‐751‐8311)
基調講演 鶴見俊輔
講 師 森幹郎(交渉中)その他。

今回は、島田さんの連続エッセイ「知識人の〈らい〉参加」にテーマを借りて、森幹郎、永丘智郎、神谷美恵子、杉村春三らとのハンセン病との関わり、「らいはアジアを結ぶ」といった大江満雄、「らいと朝鮮という二つの中心を持つ楕円が、ようやく自分の中でひとつになった」といった村松武司。あるいは良心的兵役拒否を貫いたのち星塚の職員になったイシガオサム、東大総長矢内原忠雄と井藤道子といった人々の実践からなにを学ぶか、一緒に考えてみようではありませんか。
テーマと基調講演が決まっただけで準備はこれから。企画段階からの参加を呼びかけます。
…………………………………………………………………………
ちかく、第1回目の準備会を開きたいと思います。
準備会にご参加いただける方、セミナーにご関心をお持ちの方、今後ご案内を差し上げますので下記に連絡先をご記入の上、メールでご連絡ください。

【お名前】

【ご住所】

【お電話・Eメール】

【ご意見】



[1798] 森幹郎さん。 投稿者:北風 投稿日:2008/10/04(Sat) 17:24  


昨日、編集上の打ち合わせのため、榛名に森さんをお訪ねしました。
話はすぐに終わったのですが、訪問のもうひとつの目的は、セミナーの講師を依頼するため。

かれこれ4時間あまりもお話して、私事ながら父の「師」の夫人も近くにいらっしゃることを知ってビックリ。その養子にあたる人は、「おばあちゃん」の母教会のU先生の弟であった。
U先生は蚤の夫婦であるが、養子になられた弟さんは長身である。

さらに、森さんは学生時代、無教会の政池仁先生に従って、甲府の結核療養所にも伝道に見えられたということで、療養所のSさんというおばさんの話が出たとき、にわかに明眸皓歯なおいらをかわいがってくれた、きれいなおかっぱ頭のおばさんと重なったのであった。



[1797]  「らい療養所の文学運動について」、しまだ ひとし論の、『らい』誌・21号(’79年9月発行)より                                                                                                                                                                 投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/03(Fri) 12:28  

 <「らい療養所の文学運動について」、谺雄二の詩について、さかいとしろう論、しまだ ひとし論の『らい』創刊二〇号記念読者の集いから> 『らい』誌・21号(1973年9月発行)、「詩でなければならないか」4〜9ページより (承継)

               人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

‘                08年10月3日(金曜日) 11:47


 「らい療養所の文学運動について」(『らい』誌・21号(1973年9月発行)4〜6ページ(於 奈良・交流の家)から (承継)

 <しまだひとし論>

 徳永 ぼくがらい詩人集団になんかあるという感じをもったのは「宣言」を読んだときです。

 ぼくがらい療養所をはじめて訪ねて多くの人々にあい、何を感じたかというと、「もう私たちはいいんです。家の者に迷惑をかけたくないし‥‥‥というのがほとんどだった。そのとき社会復帰運動とか、らいでないぼくらが、らいの人が外に出ることが大事だとかいうことをかなりノボセ調子にいいえたときに、患者さんじしんの多くは「放っていてくれ」といっていた。

 そういうとき「宣言」を読んでドキッとした。らいであることを名のりながらこれだけのことをいいうるのは印象にのこるし、ある感動はいまもあります。

 その中で「存続する運動体にとっていつも出発点だけがたしかなのである。私たちも詩を書くなかでそのたしかさには閉口する」― つまりなぜ詩を書くかといえば、詩を書くことでらいを強いたものにむかいたい。このままらいを強いたものの中で生きたくないという気持がつよくあるという感じがします。


 しまださんは評論も書かれていて、ぼくにとってはしまださんの詩というよりも評論の多くの中で、しまださんの姿勢というものに感動するわけです。それでしまださんがらいでないほど醒めていて、自分をみつめておられるという感じをうけます。

 ほかの集団のメンバーが、らいであることの怒りとか、ふるさとを郷愁的に書く部分があるとすれば、あるいは自分の過去を想い出として書くとすれば、しまださんはそういう点ほとんど書かない。軸はらいを強いたものとの競争として自分は生きているという姿勢が印象づよい。

 ぼくがらい詩人集団の詩を読んで感じるのは、らいであることはぼくらにとってものすごいある印象だし、詩のある部分というのはつきださんの詩にあるように「らいは比喩のいらない生きもの」として、かなしさであるとか、絶望であるとか、わかれであるとかが非常に印象的なものとしてある。

 そういうものを書いた作品は沢山あって、それがらいの詩だという感じがあります。たとえば小島さんのなかには情念的でどろどろとしたいらだちだとか、かなしさのまじったものを感じます。北河内さんは自分の母とかふるさととかを望郷という感じでしか書かれていないけど、そういうふうにしかうたえなくなっている自分というものを逆にそこに読むことができると思いました。

 で、らいの人というのはいろんなところでわかれ、離別を強いられてきたわけで、ぼくはセンチメンタルなところがあるからか、やはりそういうものがある感動をどうしても強いる。

       (42行を中略します)

 しまださんの書かれた中にもあるんですけれど、らいの人間というのは、近代は一人々々の人間に自己を主張し個性とか自己をひろげる方向にあるとするなら、らいというのは全く反対に自己をかかくす、偽名を使うとか偽りの葬式をするとか「無名化」の方向であったのがらいではないかといっていられるのですけど、ぼくもまさにそうだと思うんです。

 無名化の中に黙々と生きていくというそのことじしんがXに対するものすごいアンチとしてありうると思うわけです。だのに詩を書かれる多くの人は、無名化を強いたものにうちかとうということで簡単に普遍的になってしまうんじゃないか。

       ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥



[1796]  「らい療養所の文学運動について」、谺雄二の詩について、さかいとしろう論、しまだ ひとし論の、『らい』誌・21号(’79年9月)より                                                                                                                                投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/02(Thu) 21:57  


<「らい療養所の文学運動について」、谺雄二の詩について、さかいとしろう論、しまだ ひとし論の『らい』創刊二〇号記念読者の集いから> 『らい』誌・21号(1973年9月発行)、「詩でなければならないか」4〜9ページより

               人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

‘                08年10月2日(水曜日)


 「らい療養所の文学運動について」(『らい』誌・21号(1973年9月発行)4〜6ページ(於 奈良・交流の家)から


 <谺雄二の詩について>

木下 谺さんの詩、ぼくは率直にいってあんまりいいなあと感じない。その中で「ふるさと」というのは比較的気にいっています。

 谺さんとは一度楽泉園で会ったことがありますが、なんかすべての詩がこぶしをふりあげているようなところがあるので、「宣言」にあるらいを根拠にしてという感じをうけずして、らいをスローガンにしてというような感じがする。谺さんじしんに会ったときもらい者という感じがあまりしなくて、らい園にいるたたかう人という感じだった。

    ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 <さかいとしろう論>

松村 にことわっておくと、この詩の中でええこと書いてあるなあというところは全部省いて、それからことばの使い方、技巧の問題も、素材についてのさかいさん特有のあつかい方――そういう関心も全部のぞいて、おもにぼくの考えていることと、さかいさんのいわれることとちがうんじゃないかというところをのべさせてもらいます。

 さかいさんにとって重たい、痛みみたいなものが詩の中にものすごくあって、貧乏とか、非人間的な、いわれなき差別、抑圧があつかわれていて、ああすごく大変なんだなあという感じがあるわけです。安定した生活を送っている人間にはみえないものが、かれにはすごくみえてるだろうなあという感じがする。

 ところがそういう貧困や差別をうけたのが、どうしう形でそのエネルギーに転化できるかと考えた場合に、いろんなパターンがあると思う。普通の人間は黙々と耐えて、その日ぐらしを送っていくと思うし、もう一つは放従というか、それもそれなりに意味があるんでしょうけれど、外からみたかぎりではそういう生活を営む人間のように思う。

 第三目は差別する者をみつめることにによって対決に生きる人間で、さかいさんの詩から読みとれる生き方です。

 さかいさんがうけているものすごい差別はぼくなんかにはわからない痛みがあると思うんですけれど、その痛みをバネにして自分にとっての敵を糾弾していくときに、さかいさんにとって敵とは地主であり、アメリカ帝国主義であり、絶対的天皇制ですが、さかいさんの痛みみたいなものと敵の認識とのあいだには、おそらくいろんなステップ、段階があり、いろんな屈曲があると思うんですけれど、さかいさんの詩からなかなかそれが読みとれない。おれはこんなに苦しかったとか、こんなに差別をうけたとか書いてあって、最後にだから地主はけしからん‥‥‥とパッと出てくる。さかいさんが人生を歩まれる中でその認識にいたった過程というのがほとんどわかりにくくて、詩の中でそれが描かれていたらぼくらにもよくわかるんやけど。

 次に敵の認識についてですが、ぼくはらい者ではありませんし、ぼくが生きていく上で敵の認識は少し異なるのですけど、ぼくにとってはさかいさんのいう差別がなくて人間の活動が全面的に自由であるような社会はそう簡単に考えにくい。

 ぼくの感じる差別の構造というのは、いまの社会の権力の構造というのと、その社会に住んでいる個人々々の心理構造というようなものの接点に成立する問題で、さかいさんの詩を読んでいるかぎり、後者の意識構造というか、心理構造がみえてこない。

 ですからなんぼ痛みがあったとしても、その痛みがどういった種類、どういった質の痛みであるのか、個人々々をおさえるのでなければ未解放部落にしろ、在日朝鮮人にしろ、ともにいためられているのだから手をつないで‥‥‥というのは、理念的にもそうだし、また政治的な実践行為としてもそううまくいかないだろうと感じる。

 それがなぜかれらの苦しみはわれわれの苦しみというように、すうーっと同一化出来るのか。さかいさんじしんが実際にそれができたのかどうか。いくら苦しんでも、苦しんだ人間の連帯はそうなかなかいかない感じがする。

 三番目には、らい差別の特殊性というものがこの詩の中から読みとりにくい。小泉雅二だと、この人はやはり未解放部落の人でも、在日朝鮮人でも、底辺の人でもなく、らいの人なんだなあということがわかるんだけど。さかいさんの場合はらいという言葉は出てくるが重みは出てこない。

 それはさかいさんの中にらい差別の特殊性がないのか、たまたま詩の中にあらわれていないのかよくわからないが、もっとらい者の現実というのは、らい者にとっての差別というのは特殊というのか、もっと個別性があるんじゃないかというふうに感じるんです。


  註:(未完;徳永 進氏の「しまだひとし論」は、明日書く予定です。=滝尾)




[1795]  「労働の回復― 知識人のらい参加 その一 永丘智郎」 しまだ ひとし らい詩人集団発行『らい』20号(’72年9月)より                                                                                                                                       投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/01(Wed) 13:30  

「らい詩人集団発行『らい』20号(1972年9月発刊)の「あとがき」(S=編集者・島田等さん書く;部分)と、らい詩人集団発行『らい』の「“知識人のらい参加”―永丘智郎」文末の記述(前文=はしがきにかえて=滝尾)

 「‥‥▽患者数の減少というなりゆきのままに、らいの問題をゆだねることは、問題の解決にならないし、患者のそれこそ長く苦しいたたかいを、ムヤムヤのうちに葬むることになることをおそれる。“知識人のらい参加”は、そうした懸念が、あらためて私たちの助言者に私たちの目をむけさせるものとしてとりあげた。杉村春三、神谷美恵子氏など、ぜひつづけたいと考えている。」

 「『らいの障害をもったまま、身障者として世の中にとけこむ』ことに、私たちの余命をもってして成功できるかどうか。みずからの概念を曖昧にしたまま、らい療養所は消滅することができるが、“長く病み傷つく”人間は私たちの他にも後をたつとは思えない。療養についてしんに人間的な理念と施策の確立は、いまを病む者であるかどうかにかかわりない人間の課題であるはずのものである。
 私たちが永丘智郎の学問と生からうることができる励しも、らいという具体を介して人間の課題にとりくむときである。」(28p−ジ)


 私ごとになりますが、10月1日(水曜日)正午前に、広島市立安佐市民病院を退院しました。9月18日(木曜日)に入院したのですから、ちょうど2週間の入院生活を送った訳です。検査、検査という毎日の生活でしたが、その間で自由時間を利用しまして、島田 等さんが『らい』(らい詩人集団発行)の20号=1972年9月発刊に掲載された、しまだ ひとし著「“知識人のらい参加”―永丘智郎」を病院に持参したノートパソコンを使って、書き写しをしました。

 三十六年前に書かれた、この「“知識人のらい参加”―永丘智郎」を書き写して、今更のように、今日においてハンセン病問題で論じられている諸問題=たとえば「社会復帰」「〜将来構想」「近現代の医療制度」などが、すでに「“知識人のらい参加”―永丘智郎さん、神谷美恵子さん、杉村春三さん」などによって、適切に指摘され助言されていることです。実に新鮮で読むことができました。その提起は、ハンセン病問題のみならず、今日の「医療制度」「医療行政」「医療教育」「高齢者や心身障害者の医療問題」などにも、実に適切な指摘、助言がなされていることです。


 この「“知識人のらい参加”― 永丘智郎」は、『滝尾英二的こころ』、および『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。お蔭さまで私の症状もよい方向で推移しています。皆さまには、たいへんご心配をおかけしました。申し訳なく思うとともに、再度、活動を再開します。よろしくお願いいたします。ありがとうございました。


 【追伸】10月1日(水曜日)正午、安佐市民病院を退院し、帰宅早々、「北風さんのホームページ」を拝見しました。

<‥‥‥3月21日、22日京都の京大会館を会場に行う見込みとなりました。

 テーマは、島田等さんの「知識人のらい参加」をめぐってですが、基調講演は鶴見俊輔さんです。現在、鶴見さんは来年の予定は一切入れていないということで、特別に入れてもらいました。

 細部はまだ決まっていませんが、この時期、鶴見さんにお話をしていただく意義は大きいと思っています。>
という嬉しい投稿記事がありました。

 下記の入院中に検査に合間・合間に、持参したノート・パソコンで書いた投稿原稿が、お役にたちそうで、“よかった!”と思いました。また、皆さまとの戦列復帰です。がんばりますので、よろしくお願いいたします。(滝尾英二より)

         2008年10月1日(水曜日)12:35     滝尾英二

      ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥


<「労働の回復― 知識人のらい参加 その一 永丘智郎」 しまだ ひとし> (らい詩人集団発行『らい』20号1972年9月、21〜30ペー収録>


                     人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                       ‘08年10 月1 日 11:30

 長い歴史をもつらいの救済運動、らいの社会事業には、多くの宗教家や社会事業家、医療関係者やその他の人々が参加してきた。

 とりわけ参加の機軸に、人格と人権をもつ患者の人間性をもとめた知識人を見出すことができるのは、戦後の特色であろう。杉村春三、永丘智郎、神谷美恵子、大江満雄、鶴見俊輔、中野菊夫、宮城謙一といった人々が私には思い浮べられる。(註一)

 これらの人々の活動のらいにかかわる部分は、それほど目立たないかもしれないが、それは戦後民主々義をのぞいては考えられないひとつの社会的結実であり、らい問題解決の過程において忘れてはならない寄与である。

 ただ、それらの寄与もあずかって、日本のらいの問題が解決にむかって着実に歩んできたかというと、必ずしもそうはいえない。

 私の入所している長島愛生園では、昨年来死亡者が多く、入所者の心情を動揺させているが、年令構成が六十才以上三六パーセントというように、異常に高令化している(註二)。らい療養所にあっては、それは避けられないなりゆきでもあり、患者の絶対数が半減し、さらに半減するという事態は、そう遠くないと思われる。

 そしてそのことは、患者数を事業対象としてきた日本のらい政策に、“終り”をむかえさせることになるかも知れないが、しかし、その対象を人格として生きてきた私たち患者の生にとって、それは、そのままでは消滅であっても解決とはいえない。

 私たちののぞみは、消滅ではなくて解決である。

 固体としての余命はあといくらもないにしても、それによって消す余命はあといくらもないにしてもそれによって消すことはできない私たちのねがいは、また知識人のらい参加がテーマとしたものでもあるはざうである。

 註一 これらの人々は長島愛生園入所患者としての私の見聞に限られたものであり、じっさいにはにはさらに多いはずである。
 註 長島愛生園入所者自治会「昭和四七年三月一日現在、入園者年代別人員数及び平均年令」


 <“病める労働者”>

 参加は選択である。
 ある人が他をおいてそうしたことの意味を、私たちは軽重さまざまに受けとめることができるが、ここではそれが私たち自身の生への誠実さをしめすように思う。

 永丘智郎の名を私たちが耳にしたのは、生活記録集『深い淵から』(註三)の編集にはじまるが、それ以前に氏は労働科学研究所の所員として、看護婦の労働調査のため多摩全生園を訪れている。

 しかし、『深い淵から』の出版以後、らい園の刊行物でしばしば発言されるようになった氏と、産業心理学者としての氏とのつながりは、なかなか私たちの中でなじめなかった。根堀り葉堀りなぜらいに関心をもつようになったかと、患者に穿鑿され辟易したということを書いていられたことがある(註四)が、私なども同類で、氏は最初から自分のらいへの関心は、自分の学問の一部なんだということを淡々と語っていられたのだが、私たちの方でそれを淡々と聞く耳をもたなかったのである。

 自己の学問――産業心理学の役割と方法にたいする、人間的な反省と検討のなかに、氏のらい参加はあった。方法論的な確認に裏うちされて、患者はあくまでも労働者の一員であるという視点を面ぬかれている。その学問的立場が、抽象的、一般的な労働者でなく、貧困とか疾病とか災害とかで苦しんでいる具体的な存在を選ばせるのである。

 経営者的な視点からでなく、ヒューマニズムに立つとき、産業心理学的事実は経営の中にとどまらず、職場の外の労働者の生活と心理をひろく追及させた。その中に病める労働者としての、らい患者もあったのである。

 しかしこの“病める労働者”は、労働者としての自意識を持たなかった。そればかりか患者意識まで遠ざけようとする存在であった。そしてそのことは、そのまま日本の医療行政=らい政策の意図に沿った事実でもあったのである。「誤ってわが国医療行政の伝統となってしまった労働者意識の廃絶政策」(註五)を指摘する氏は、日本の近代化に根を下ろした歪みである。“療養”概念のありようを問おうとする。

 註三 堀田善衛と共編、新評論社、昭和三一年
 註四 『深い淵から』の社会的反響について、『愛生』昭和三五年六月
 註五 「医療サービスに関する考察」、朝倉書店『消費心理学』所収


 <“療養”と産業心理学>

 「医療サービスに関する考察」(註六)によると、もともと日本の医療体系(医療教育を含む)は、“医療”という概念そのものを脱落させやすい素地をもつものであった。

 医師はもっぱら病院勤務者ないしは開業医としての適性を付与されてきたし、なによりも富国強兵という歴史的偏向が、国家が国民生活に責任を完全に負わないという基本的な生格をうえつけた。

 結核患者は、国民病としてながいあいだ個人の家庭にその療養生活を委ねられたし、(精神病患者も同じような状態におかれてきた)、らい療養所は設立された後も、実質は収容所という期間をながくつづけた。

 “療養”という概念が、医療の一分野としていかに成立をみがたい基盤にのせられていたが、今日それについてはさまざまに振りかえることができるが、大事なことは、それらを過去のものとして――なによりも国家が完全に国民生活に責任を負うという体制の転換に、私たちがなお成功していないことである。戦後の四分の一世紀をこえる患者運動の努力をかたむけて、解消できないでいる曖昧で不合理な私たちの状態からも、そのことは痛感される。

 医療施設としての療養所とはなにか。そこで行われるべき医療はどういう理念と機能をもつべきなのかが、しんに問われたことがあったであろうか。不幸なことは、それを誰よりも問わねばならないところの当事者――らいの医療関係者や患者が、渦中のゆがみを全身に浴びて、それを問うにふさわしいものを喪失し、あるいは獲得できなかったらしいということである。永丘氏の問題提議(の適切さ)をたどりながら、そのことを感じないわけにはゆかない。

 教育における医師の適応についてはすでにのでたが、その他に、医療における技術主義(疾病をみて人間をみず)、いわゆる“病院化”論への懸念(むしろしんの意味の“療養所化”こそもとめられねばならない)、管理機構の封鎖性、看護労働の位置づけの不明確さ、患者集団の質の無視とスチグマの不当な強調、家族や職業との“離し方”の無理と誤り(からだの病気がなおっても、こころの病気と労働技能を失なわせれて退所できない)、労働意欲の保持と社会復帰という目的を見失なわない患者作業のとらえなおし(所運営業務との厳密な分離)、所内結婚制度への批判、(人間性の回復は、セックスよりも労働によって計られるべきものである)などにみられる、「わが国の療養所行政、療養所管理をなかなか前進させない原因」っとしての「療養所の概念をきわめて曖昧なものとしてとらえている(註七)らい療養所の現実は、いまも数多く持続されている。


 らい療養所がしんに生まれかわるために、永丘氏が産業心理学の有用性を信じられるのは、「療養社会がしばしば社会心理学の対象として考えられたが、労働の問題をぬきにしてそのような考察をすることは無意味に近い。多くの患者が結局は身体障害労働者であるとき、身障者更生、同職業訓練を、療養所と切離したところで考えることも、あまりにも発展性がない。」(註八)からである。

 註 朝倉書店 『消費心理学』所収
 註 右同
 註 右同



[1794] 「労働の回復 知識人のらい参加 その一 永丘智郎   つづき                                                                                                                                                  投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/01(Wed) 13:21  


<生活記録―― 労働の回復、その一>

 それをぬきにして考察することは無意味に近いという。“労働の問題”を、らいの療養社会において永丘氏はどのように考察されたか。

 らい園の出版物に発表された氏の論考は少なくないが(文末目録参照)、それらを大別すると、『深い淵から』にはじまるらい園の生活記録に関するもの(評論や書評をふくめる)、らい政策と療養所論(訪問記、リハビリティション論をふくむ)、患者運動、藤本裁判などであるが、なかでも生活記録に関係のものの多いのが目につく。

 らい園とのかかわりに、生活記録の介在があることについては、氏の学問上の方法とともに、療養生活は直接的な生産労働にないという背景があり、また専攻領域からすれば研究素材である生活記録を、社会教育、患者教育の一つの手がかりとも氏はされているが、それについては、「心理学をしんの意味で労働者教育に参加させたい」(註九)という抱負と、「広い意味での人間変革現象」にたいする「最大の関心」(註」一〇)にあった。

 生活記録集の編集を企画させた直接の動機は『らい白書』(註一一)の中の被害事例であったが(註一二)、「わが国医療行政の伝統となってしまった労働者意識の廃絶政策」(前出)の一つの典型であったらい療養所において、“労働の問題”は患者の労働者、勤労者としての意識のありようと、その問題性が手がかりであり、重要であったことは肯ずける。そして氏の抱負と関心が、記録集編さんを介して、氏のらい参加に社会教育的実践の色彩をも色濃くさせた。

 “労働お疾病と人間形成”の副題をもって発刊させた『社会教育の心理学』(註一三)は、その実践の学問的な報告でもある。その書の“あとがき”において、「本書はあたかもハンセン氏病問題に重点をおいた書のおいた書の如き観を呈しているが」「おそらく“社会教育”というような人間存在の根本命題にすらかかわりのある学問分野では、このような特異な発想形式も問題の具体化のためには必要であったのかと思われる」と振りかえられているのである。

 社会教育的実践としての生活記録(運動)の核に氏が置いたのは、“人間的価値”の課題である。「生活を通じての、その人のもつ人間としての価値を伝達するもの」(註一四)としての生活記録は、患者の生(「患者はどんなに入院期間が永びいても入園前の労働者意識<乃至は職業意識>を凍結状態において保持しているものである。」註一五)に自覚をうながすことをつうじて、人間同志としての関心を回復させようというものであった。『深い淵から』の社会的反響の中に、その「生活記録によって人々を励まし、また大勢の価値ある人間を創り出すことに役立つ」(註一六)ものがあったといわれるとき、たしかにそれは、そのままでも“労働の復活”をいいえたであろう。

 だが『深い淵から』をこえて、らい園の生活記録運動は進展しなかった(註一七)。そしてその底には、変ることに神経質な、らいの療養社会の根づよい体質があった。療養ということを長いけれど通じるパイプとたとえるとき、らいの療養社会ではそのパイプの出口は、ずっとつまらせたままであった。

 註九 「労働者教育の方向」『社会教育の心理学』所収
 註一〇 「静かに考えをめぐらし ――西部五園印象記――」
 註一一 全日本国立医療労働組合編集発行 昭和二八年七月
 註一二 座談会「療養所の生活記録運動」『多磨』 昭和三一年
 註一三 明玄書房 昭和三四年
 註一四 「『深い淵から』の社会的反響について」 前出
 註一五 「意識について」 『全患協ニュース』 一〇九号 昭和三三年五月
 註一六 「『深い淵から』の社会的反響について」 前出
 註一七 現在らい園の定期的刊行物において生活記録をずっととりあげているのは『点字愛生』(季刊、愛生園盲人会編集発行)くらいである。ただ単行本として最近「復権文庫」(奈良市、交流の家)から、藤本とし、高杉美智子集が発行され、つづいて盛岡律子集が出される予定である。


 <リハビリテイションの集団的把握 ――労働の回復、その二―― >

 らいにおいては社会復帰(治ることの社会的承認)がはかばかしくないことについて、多くの人は偏見の問題をあげるが、永丘氏は身体障害者としての問題もたえず言及されてきた(むろん偏見の問題を軽視されているわけでない)。

 抹消神経を全身的におかされることが多いことによるらいの身体障害は、障害の重層、多様性により、一度障害をひき起すと病源菌との関係なしにも、障害が障害を起させてそれを加重させていたために、早期治療による回復を逸した者は、ほとんど二重三重の障害をもっており、それらの者が現在の療養所で圧倒的多数を占めている。

 らいにおけるリハビリティションの困難性を偏見の問題に解消することは、一見説得力にみえるが、たとえ偏見からの解放が仮定されても、ただちにスムーズな社会復帰の実現を予定できる者は数少ないであろう。患者(および回復者)のリハビリティションを考えるとき、身体障害者としての対応は欠くことのできないものであるが、これだけ回復者(少なくとも菌陰性=非伝染性者)が増えていながら、身障者更生、その対策が、療養所行政としても、患者運動においても、正面からとりあげることを避けさせているところに、偏見論傾斜の問題性がある。

 永丘氏がらい園を訪れる以前に、国立身体障害者職業補導所などの施設に関係されていたことは、私たちの対応の問題性にたいする助言者としてねがわしかったといわなければならない。とりわけ重度の身障者を集団としてかかえているらいのリハビリティションへの考察として、「リハビリティションと療養生活」(註一八)は、氏の年来の考察の一つの集約として受けとることができると思う。そこでは従来のリハビリティションの一般的な考え方をしりぞけ(それでは重度障害者はとりのこされ、また復帰できた者も社会的に分の悪い状態におかれることが多い)、集団的な概念を導入されている。


 “何にもできない人間はいないし、人間のもっている能力はあくまでも活用することができなければならない”という考え方に基づいて、回復者が個々に“ぬけがけ的”にうまくやるのではなく、障害者一人ごとの要求を集めて組織していくという集団的要求化である。そして障害者の能力については、過去をとり戻すという発想をやめ、現在の生活の中で獲得したものに目をむけ、さらに新しいその芽生えをうながすことをつうじて、その発揮の場所(働らき場所)獲得運動(仕事よこせ運動)へと発展させよというのである。

 たしかに「リハビリティションを個人の問題として考える時代は過ぎ去りつつある」(註一九)という氏の指摘は、私たちの現実からも肯ずける。らい回復者の退所は、昭和三五年の二一六名をピークにいて下降をつづけ、昭和四五には七五名(註二〇)という状態であるが、それは患者の老令化のこともあるが、身体障害者としての課題が困難性の前に追及されてこなかったことも大きいはずである。そうしたことからも、らいのリハビリティションへの考え方の質的転換は、現実的な要請といえよう。

 そしてそれはまた、政治的社会的責任への認識を欠いては前進をみないものであり、「国だとか企業体だとかの個人以外のポリシーが、身障者をつくっているという意識をもたないと、災害問題の解決というものは前進しない」(註二一)という、産業心理学のここ三、四十年来の解明による到着点をふまえて、氏の強調があるゆえんである。

 災害を起しているものへの責任の認識を介して、たんに国費で療養所に入れているだけで責任をまぬからせるのではなく、「らいの障害をもったまま身障者として世の中にとけこむことについて、偏見の解消ということについて、国に完全に責任を持たせ(註二二)ることが要請されなければならないのである。そしてそれはまた私たちののぞむらい問題の“解決”でもある。

註 一八 『高原』 昭和四二年一一〜一二月
註 一九 同右
註 二〇 厚生省結核予防課調べ、『全患協ニュース』三九八号 昭和四七年三月
註 二一 『楓』 昭和四十年八〜九月
註 二二 同右


 <幸 福 論>

 ところでらいの療養社会は、永丘氏の実践的な意図にとって、必ずしも理解と受容の場でなかったことについて書き落すわけにはいかない。

 「きわめて不遇なる文化的沿落者(の集団)」(杉村春三)を対象にし、関心の相互性が成立しにくいなかで、氏のらいとのかかわりをささえてきたのは、学問的情熱とヒューマニズムであろう。これらの基礎であり、またあらわれとしての人間観は、氏の記述の随所にうかがうことができるが、それについてもふれておかなくてはならない。

 “現代生活と日本人の形成”が、氏の生涯をかけた学問的テーマであるという(註二三)。
 「人間はどうなるんだ」(註二四)という気がかりのすべてが、しかしその視線を“困苦に耐える人々”へまっすぐにそそがせるわけではない。そこには「たえず人間の屑をつくり出している現代社会」(註二五)への認識が一方にあり、一方に「人間に屑はない」(同上)という知見のささえがある。そしてそれをかりそめのものとしない生き方であった。

「人間の幸福を「運」「不運」できめ」させてはならない。(註二六)
「精薄児と呼ばれている子供たちでも、どこか見どころがある。人間というものはあまり屑はないんだ、そういう人間についての考え方は今後もぜひ必要だと思う」(註二七)

「私には不幸な人々の悲しみがよくわかる。かえっていつも幸福である人々の喜びは」よくわからない。だから私はメーデーに行って皆の顔を見るだけで涙が出てしかたがなかったことがある。たった一年に一回だけ、あのように労働者が無条件に喜び合っているのだという感慨は、私の心をゆすぶる。いまの世の中で幸福になれている人々を私はうらやましく思わない。もちろん病苦とか貧困とかの不幸がそのまま存在を許しされてはならない。しかし私たちはみんなが幸福になれるような社会を築くため、いろいろな不幸を正面からみつめることが更に必要のように思う」(註二八)。

「病気と貧困ほど、この世の中でいやなものはないと思った。遺された私たちは、この二つのものをなくさなければならない。」(註二九)
「人間の特性」は「自らの環境を作り出す能力をもっていること」であり「それは楽天的な人生観」の基盤である。」(註三〇)

「労働は、その原始形態において考えるときには、絶えることのない研究心と創造の喜びを含んでいたものであると考えることができる。」「労働はその結果としての収穫に対して、素直な喜びが表現されなければならない。労働についての楽天主義こそは、人間のもっとも基本的労働観である。」(註三一)
「むしろ人間はとくに、歓喜への希望と欲求をもっているように考えるほうが正しいと思う。今日まで人間の文化が進歩してきたのも、喜びの感情がその基本をなしていたようだ。」(同上)

「文化を裏打ちするものは「文化」である。生活の中から私たちの感覚を通して生れてきたものこそ、本来の文化と呼ばれるものがある。文化はすでに築かれているもののみではなく、私たちの悲しみと喜びによって築かれるものも、また文化である。」(註三二)

 貧困や疾病や災害などの不幸へさかれた永丘氏の視線が多いのとうらはらに、人間への信頼と展望はたしかで明るい。それは困苦に圧しひしがれがちな私たちへこの上ない励ましである。そこに氏の学問と生をささえる真実をみるのである。


 いまの世は(あるいは世も)不幸を語ることによってしか幸福(真実)を語れないのが事実のようであり、また語らなければならない不幸は多いが、真実にそれを問うことは多くないことも事実のようである。それはまた“不幸な人たち”にかぞえられる私たちのあいだにおいても例外ではないようなだ。

「らいの障害をもったまま、身障者として世の中にとけこむ」ことに、私たちの余命をもってして成功できるかどうか。みずからの概念を曖昧にしたまま、らい療養所は消滅することができるが、“長く病み傷つく”人間は私たちの他にも後をたつとは思えない。療養についてしんに人間的な理念と施策の確立は、いまを病む者であるかどうかにかかわりない人間の課題であるはずのものである。
 私たちが永丘智郎の学問と生からうることができる励しも、らいという具体を介して人間の課題にとりくむときである。

註二三 「あとがき」 『消費心理学』 朝倉書店
註二四 「『深き淵から』の社会的反響について」前出
註二五 「精神障害と人間形成」『人間の社会的形成』(新訂版) 邦光書店
註二六 「身体障害と人間形成」 同右
註二七 「精神障害と人間形成」 同右
註二八 「生活記録の編纂にあたって」 『全患協ニュース』五九号 昭和三一年三月
註二九 「身体障害と人間形成」 同右
註三〇 「人間の形成について」 同右
註三一 「労働者教育の方向」 『社会教育の心理学』所収
註三二 「あとがき」 同右

    ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

   訂 正(『らい』21号、1973年9月発行より)

 「らい」二〇号掲載の「知識人のらい参加・永丘智郎」のなかに、事実の誤認として、永丘智郎氏よりご指摘をうけましたので訂正いたします。

  (訂正箇所)

『らい』二〇号二二頁
「それ以後」を「それ以前」(本文は訂正しました。=滝尾)

同上二二頁
 「氏は労働科学研究所の所員として、看護婦の労働調査のため多磨全生園を訪れている。」は、氏が看護労働の視察のため全生園を訪れたのは、「全医労本部の研究嘱託」としてあって、「労働科学研究所の所員」としてではなかったこと。なお当時、永丘氏による調査と、労研所員による調査はほとんど時期的に平行しておこなわれ、また永丘氏はのちに、「労研客員所員」となられて現在にいたっているということですのでご紹介し、ご教示を謝します。



[1793]  <永丘智郎 らい療養所刊行物執筆一覧> )(『らい』20号、島田 等編集28〜30ページから 所収。)                                                                                                                             投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/01(Wed) 13:12  


<永丘智郎 らい療養所刊行物執筆一覧> )(『らい』20号、島田 等編集28〜30ページから 所収。)

『全患協ニュース』(全国ハンセン氏病患者協議会)
*「生活記録の編纂にあたって」 五九号 三一・三・一
 「深い淵からについて」 六一号 三一・四・一
 「死んでいる裁判」 六二号 三一・五・一
 「書評 秩父明水 雲遊ぶ山」 六九号 三一・八・一五
*「静かに考えをめぐらして――西部五園印象記――」 七二号 三一・一〇・一
 「新しい年への期待」(アンケートへの回答) 七七号 三二・一・一
 「近況」 八一号 三二・三・一
*「ハンセン病裁判傍聴記」 八一号 三二・五・一
 「復帰すべき社会はどこに」 九三号 三二・九・一
 「判決をきいて――藤本事件の教えるもの――」 九六号 三二・一〇・一五

「ニュース百号を祝って」 一〇二号 三三・二・一
*「啓蒙について」 一〇五号 三三・三・一
*「同情について」 一〇七号 三三・四・一
*「意識について」 一〇九号 三三・五・一
 「文芸について」 一一一号 三三・六・一
*「共感について」 一一三号 三三・七・一
 「やまびこ」(短信) 一一四号 三三・七・一五
*「伝達について」 一一六号 三三・八・一五
*「偏見について」 一一八号 三三・九・一五
 「人生案内 社会復帰の足がかり」 一二四号 三四・一・一五
 「美しい人生の記録―― 『愛情の壁』について――」一三二号 三四・六・一

 「私的体験は共通テーマである――『黒い災の影』評―」 一五九号 三五・一〇・一
  五 (『高原』三五・一二月に転載)
 「在日朝鮮人の援護問題」 一六二号 三五・一二・一
 「偏見なき精神を」 百六十四号 三六・一・一五
 「死と生と人間性」 一九四(藤本事件特集)号 三七・六・一五
 「会員に夢をもたせよ」(全患協事務局取材記事) 一九九号 三七・六・一五
 「二百号記念に」 二〇〇号 三七・一〇・一
 「は氏病障害者の職業訓練と療養所の再編成」― 第三回療研全国集会での講演趣旨 二五四号 四〇・五・一

『甲田の裾』(松丘保養園)
*「ハンセン氏病療養所の今後と患者のあり方」 三五・九〜一〇月
 「医療関係育英事業の意義と役割について」 三五・九月
 「評論の主役」(選評) 三五・一二月
 「最近のハンセン氏病療養所について――啓蒙は職員から――」 三九・六月
 「<今後のらい対策について>批判」 四〇・五月

『高原』(栗生楽泉園)
 「療養体系の変革問題について」 三五・九〜一〇月
 「リハビリティションと療養生活」 四二・一一〜一二

『多磨』(多摩全生園)
 座談会「療養所の生活記録運動――『深い淵からの編纂を終って――』 三一・七月
 「大衆の中の保守主義について ――ハ氏病患者運動の前進のために――」 三四・八月

『芙蓉』(駿河療養所)
 「選評」 (随筆) 三五・一月

『愛生』(長島愛生園)
 「私の人生観」 三四・三月(邑久高校新良田教室第一期生卒業記念集)
 「認識を改めよ」 三五・三月
 「『深い淵から』の社会的反響について」 三五・六月
 「永丘学寮の近況について」 三六・八月

『点字愛生』(長島愛生園盲人会)
 「選評」(生活記録) 二六号 三七・九月
 「選評」(生活記録) 三〇号 三八・九月
 「選評」(生活記録) 三五号 三九・一二月
 「選評」(生活記録) 三八号 四〇・九月
 「選評」(生活記録) 四三号 四一・九月
 「選評」(生活記録) 四七号 四二・九月
 「選評」(生活記録) 五一号 四三・九月
 「選評」(生活記録) 五五号 四四・九月
 「選評」(生活記録) 六〇号 四五・一二月
 「選評」(生活記録) 六三号 四六・一〇月

『楓』(邑久光明園)
*「心理学からみた部落問題とハンセン氏病問題」 三四・三月(『部落』三三・八月より
  転載)
 「選評」(評論) 三八・一〇月
 「世相と療養所について」 三九・九〜一〇月
 「選評」(評論) 三九・一一月
 「ハ氏病障害者の職員訓練と療養所再編成について」 四〇・八〜九月
 「選評」(評論) 四〇・一二月
 「選評」(評論) 四一・一一月
 「選評」(評論) 四二・一一月
 「選評」(評論) 四三・一一月
 「選評」(評論) 四五・一月
 「選評」(評論) 四五・一一月
 「選評」(評論) 四六・一一月

『菊池野』(菊池恵楓園)
*「ます・コミ小論 ――惰眠論をめぐって――」 三二・四月
*「『深い淵から』以後 ――患者のための患者教育について――」 三三・六月
 「第三の歌への出発 ――歌集『白き檜の山』評――」 三五・一二月
 「選者とはなにか」 三七・二月

『姶良野』(星塚敬愛園)
「『生きてあらば』短評」 三三・五月
「偏見と社会復帰について ――療養社会の向上のために――」 三四・三月

『星光』(星塚敬愛園)
「鈴蘭協会について」 一九八号 三二・一一月

 執筆目録について
※ *印は『社会教育の心理学』に所収。
※ 昭和四六年(1971年=滝尾)十二月末現在による。
※ 文献探索は主に『愛生』編集部所蔵によるが、少数であるがバックナンバーを欠くものもあり、全てを網らしていないかも知れない。



[1792]  「らい療養所の文学運動について」しまだ ひとしさんの『らい』創刊二〇号記念読者の集いから 『らい』・ne21号('73年9月発行)より                                                                                                                                           投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/01(Wed) 13:06  


<「らい療養所の文学運動について」しまだ ひとしさんの『らい』創刊二〇号記念読者の集いから> 『らい』誌・21号(1973年9月発行)、「詩でなければならないか」4〜9ページより

                      人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                           ‘08年10月1日(水曜日)


 「らい療養所の文学運動について」しまだ ひとし (『らい』誌・21号(1973年9月発行)7〜9ページより

 らい療養所の文学運動を考えるとき読み手が育たなかったということがあると思います。私は文学活動を書くことから読むことまでをふくめたひろがりとして考えたいわけですが、らい療養所の中ではよい読み手が育たなかった。自分のまわりにいる仲間たちの作品をあまり読まないし、そうかといって一般の活字になったものをよく読んでいるということでもない。

 それにもかかわらず書くということは、最近はずっと減ってきているものの、ずっとつづいている。私たちを書くことにかりたてるものがあるというわけです。
 読まずに書くということは、人間の知的活動の生育過程からいえば正常ではないと思うのですが、それが私たちの文学活動の特徴の一つとしてあると思います。

 それから書かれたものの側からみると書きっぱなしということがあります。表出衝動のままに即自的なものとしてであって、主題意識とか方法意識とかはない。非常に自足的、閉鎖的なサイクルとしてあるわけです。蓄積とか深化とかいう観点をもともと欠いたところで行なわれてきたので、このような態度からは本来文学活動はうまれてこないと思うのです。

 私たちの書くものがたまたま詩だとか、文学のある型式をとっているからといって、それをただ文学としてだけで受けとめるべきかということがあると思います。

 私がらい療養所の文学活動といわれるものについていちばん実感としてあるのは、書かれたものの貧しさと、書こうとした衝動、意欲の膨大さとのあいだにあるギャップ、アンバランスの強烈さです。詩の場合とくに私はそういえると思うのですが、私たちの文学活動の動機を考えるとき、やはりらいの発病ということは切り離せない。

 それは書き手たちの多くが入院以前にはそうしたことはやっていなかったし、また作品の内容としてもそういえると思います。
 発病にともなうどの部分が、文学的活動にかかわるのかというと、体の苦痛もさることながら、人間としての社会的な存在にかかわる部分です。

 人間の生存は生理的な面と社会的な面にわけられると思いますが、らいの診断を“宣告”というような表現がされてきたように、患者にとってそれは人間の生存の反面である社会的な部分の死として負わされてきました。家族とか、村とか、職場とかでの人間関係は破壊されました。しかも病気が慢性的な経過をとるために、この社会的な死と肉体の死とのあいだには、長い時間のズレがあります。

 このズレはらいのばあい人によっては数年から数十年までさまざまですが、このズレがあるばかりに絶望感とか断末感とかにくりかえしおそわれてきたわけで、人間としての自己の存在へ価値判断が停止できないばかりに――それが人間としての存在でもあるわけですが――そこからくるこころの葛藤が、私たちを書くことにかりたてたと私は思います。

 芸術を、「人類がその生存のストレスにたいしてしめした精神病理的な反応である」というようにとらえた人がいて、その人はまた芸術が「人間経験において治癒的な機能をもつ」ことを指摘しているそうですが(ホワイトヘッド、神谷美恵子『生きがいについて』所収)、らい療養所の文学活動をみるばあい肯定できる部分が多いと思うのです。


 この生存のストレスへの反応と、美の治癒的機能として私たちの文学的活動もとらえることができると思うし、そしてそれがすでに獲得された文化的水準においてなされたというのが、いままでの状況ではないかと思うのです。本来一つのものであることがのぞましい死の二つの側面が、強制力で切り離されたことへの補てんとして、それはより多く治癒的な機能として私たちの文学的活動はとらえられるように思うのです。読むということの必要のなかった、つまり獲得された文化的水準を拡大させる必要そして余裕もなかった書くことの多量性というものを、私はそのように解するのです。

 らい患者のおかれた文化的水準は豊かでも自由でもなかった。その水準にあまんじている限り私たちの文化運動の成立ということはないという気持は、らい詩人集団の出発点でもあるわけですが、その思いはしかしなかなか作品として結晶できないでいるというのが私たちの現実であり、課題でもあるわけです。



[1791] 滝尾さんから。 投稿者:北風 投稿日:2008/09/29(Mon) 15:54  


明後日退院というお知らせがありました。
足のむくみも引いて調子いいそうです。

声に張りがあったので、だいぶいいように感じました。




[1790] 小さな 「こだわり」 か !? 投稿者:夕焼け 投稿日:2008/09/28(Sun) 13:58  

  「風化させないように懸命にがんばっている方々」
yoonglee さんの投稿の一文です。

[1735] ゆかりの人 投稿者:yoonglee 投稿日:2008/08/17(Sun) 17:10
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200808171058230

続いて、
エミさんの投稿…、「叫びたし寒満月の割れるほど」

[1738] 無題 投稿者:エミ 投稿日:2008/08/18(Mon) 03:38
http://blog.goo.ne.jp/fukuoka_jiken/e/0e0079ec6eeb58ead345e423a56bd00c


このお二方の投稿(「福岡事件」)は、私に自然と「F事件」を投影させてくださいました。

特に、
   「叫びたし寒満月の割れるほど」
この作品を眼にした時、M夫さんの、

「小さな望み」
押し鮨のように
狭っ苦しい箱の中に
閉じ込められて
消えかけた命を
今日もまた引き摺ってゆく・・・・
ああ・・・
わずかな空地でいい
腹の底から
(馬鹿野郎)と
大きな声が出せるところが欲しい

こちらの「叫び」も思い出され、エミさん貼り付けの「八尋光秀弁護士、2008年6・14講演原稿講演」を、瞬く間にに読ませていただきました。

読後の感想と、気になった点を、皆さんにも聞いていただきたくてこのBBSに書き込みはしたのですが…投稿できずに 没 にしてしまいました………。
大きな理由は、関原弁護士も関わっていた昨年の埼玉地裁川越支部での「上映差し止め申立訴訟」が暗黙の中で起こされ、そして、却下されていたという事実を昨年の8月「全療協ニュース」で初めて知らされたからです。
その後、遺族の強い意向もあり控訴・上告はしないという判断をされたことをお聞ききしました・・・。
苦渋の中での判断であったことを・・・、私は感じていますし、映画上映運動に対して、裁判まで起こしていたという事実の 重さ を、考え及ばなくてはならない事を知らされました!


公開(たとえBBS内でも)の中で、「F事件」を語ることは慎重さが要求されるようになったのはいうまでもありませんが、語り公になることで「害」が及んでしまうという現実にあまりにも無神経し過ぎた「正義」が私の中にもあったことは否めません。


しかし、書き込みはしたものの、投稿できずにいたその想いは、今になって「ハンセン病市民学会の一員」としてはどうしても提起しておきたくなったのです。

多くの皆様の善意ある協力がなければ「新・あつい壁」という映画は出来上がってはいなかったでしょう!!
その映画製作の目的・意図が、未だ私には理解されていないどころか、「なぜ?市民学会が後押しできたのか!?」がついて回っていますし・・・、一会員としての 責 もよぎっているのです。


市民学会、本年度も共同代表でもある九州大学刑法学教授の内田博文さん・・・。「検証会議」の副座長として、また最終報告書の起草委員長として、再発防止策の提言もまとめられた方です。

私は、彼がシンポを呼び掛け2005年3月19日に行われた西南学院大学での「『F事件』を検証するシンポジウム」に参加する事ができました。
彼がパネリストの一人として貴重な発言をされています。

「ハンセン病の隔離政策では法曹界も大きな過ちを犯したが、F事件はその象徴。真相を究明し、最高裁にも非を認めさせることが、少しでも法学者の責任を果たしたことになる」と、その意義を語ってくださっていることです。

その市民学会の共同代表もされている彼が、どうして映画製作の後押しに対して「沈黙の域」を貫いてきたのか・・・。

八尋講演録の中に、

「…<中略>…。この福岡事件再審請求を支援してくれています。死刑廃止とともに福岡事件の真相究明を求め、署名とキャンペーンに参加し行動をともにしてきました。
 また、九州大学刑法学教授の内田博文さんは、この再審請求手続きにおいて、刑事訴訟法学の立場から専門的な意見書を作成してくださいました。さらに、奈良女子大学心理学教授の浜田寿美男さんは供述心理学の立場から専門的な意見書を作成してくださいました。いずれも、私たちの国で望みうる最高度の専門性と責任性に裏打ちされた意見書となりました」。

yoongleeさんの投稿より、このこと(ゆかりの人)を知らされ、内田教授が考える「F事件」の将来像と、『ハンセン病市民学会』の執行部(共同代表・運営委員・事務局) 間 の意思の疎通や、執行部と我々学会員とのキャッチボールの積み上げ・・・、これからの「市民学会」の行く末を危惧しています。
未来への礎として目指す、市民学会としての組織強化は、互いに語り合える場の提供を、ネット上で行えるのか!?ということしか思いつきませんが、「組織強化は如何に!」は、常に念頭に置いておきたい思いです。

一学会員にも、そして、Fさんの遺族の方々にも納得・理解・・・信用される組織を時間を掛けて創り上げていく尊さが、それぞれの課題のように感じています!





[1789] 企画から。 投稿者:北風 投稿日:2008/09/23(Tue) 20:07  

夕焼けさん、ありがとう。
鶴見さんを核とするというだけで、細部はいまっていません。いろいろご意見ください。
実は、「新しき時代の新しき療養所」を書いた森幹郎さんにも参加していただきたかったのですが、京都では少し無理かもしれません。

九州では、星塚のイシガオサムや井藤道子さんにも触れたいと思うのですが、誰かイシガオサムさんや井藤さんを語ってくれる人はいないでしょうかね。





[1788] 鬼が笑うのかもしれませんが・・・ 投稿者:夕焼け 投稿日:2008/09/22(Mon) 20:19  

北風さん!

「第三回 セミナー」

いち早く参加希望であることお伝えしておきます・・・し、三月二一日、二二日は予定を確保しておきます。
京都行きの旅費は家族に迷惑掛けないよう小遣いを辛抱し今から貯めておきたいと思っています。

「島田 等」さん!「小田 実」さん!「鶴見 俊輔」さん!・・・、あわよくば「関原 勇」さんの思想に少しでも触れられればと、大きな欲を持ってセミナーに参加(参画)したく思っています・・・。参加費・・・諸々は決まり次第このHP上でお知らせを・・・よろしく!!


[1787] 第三回 セミナー 投稿者:北風 投稿日:2008/09/22(Mon) 17:36  


2006年、2007年と続いた夏季セミナーですが、今夏はとうとう出来ませんでした。

しかし、2008年度として開催できる見込みとなりました。
3月21日、22日京都の京大会館を会場に行う見込みとなりました。
テーマは、島田等さんの「知識人のらい参加」をめぐってですが、基調講演は鶴見俊輔さんです。現在、鶴見さんは来年の予定は一切入れていないということで、特別に入れてもらいました。
細部はまだ決まっていませんが、この時期、鶴見さんにお話をしていただく意義は大きいと思っています。



[1786] 『石器』創刊号 より  投稿者:エミ 投稿日:2008/09/21(Sun) 18:25  

POEM AND CRITIC石器 創刊号
国立療養所詩人連盟刊、1953年9月25日印刷、1953年10月1日発行 より

 創刊の言葉 〈厚木 叡〉
 全国の国立ハンゼン氏病療養所の詩人六十名が、こんど相集つて詩誌《石器》を創刊することになつた。誠に貧しい、ささやかな形ではあつても、ながい間僕たちが抱きつづけて来た希いの実現であり、何よりもうれしい。僕たちは日本列島を北から南に遠く散らばつた療園に病いを養つており、一堂に顔を合せて話し合う事など望むべくもない情況に置かれているが、深い生の親和感が僕たちを結びつけていることを知つており、その親和感の結晶としてここに詩誌《石器》の誕生を見た。
《石器》は、芸術上あるいは思想上の一つの立場、一つの主張によつて結合した同志的ギルドではなく、あくまで自由な、さまざまの傾向の詩人を包含した、すがすがと風の吹きとおる《場所》でありたい。《石器》はその名の通り、《はじめ》であり、混沌未分の《形象》であり、すべてのものが其処から出発してゆく《始源の器》でありたい。
 詩誌《石器》は、さしあたり僕たちハンゼン氏病療養所の詩人ばかりで形づくられたが、それのみに狭く限定するものでなく、あらゆる人の前に開かれ、詩による友情の手を待つていることを告げたい。そして又、療養所の中、僕たちの周囲にあつても、とりわけこれから《詩》に目を開き、手を染めようとする、若い人たちに参加してもらいたく希つている。歴史が嗣がれ、生命が更新してゆくのは常にそのような未知の、若々しい魂の、ためらいがちな手によつてであるから。
 現実の日本の情況は益々暗く閉され、いびつに傾動してゆくが、僕たちの《石器》は希望を喪うことなく、閉された壁に窓を掘り開ける《石の鑿》であり、また、傾動に抵抗し、人間の自由と生命と美を歌う《石の琴》でありたい。
・・・*・・・*・・・*・・・*・・・
 
 心象雑記 〈盾木 弘〉
     ○
 一九五三年八月十三日、八月三日より厚生省正門前と二階大臣室前に坐り込みを続けた「らい予防法粉砕全国患者陳情団怒りの坐り込み」が解かれる日の朝、街路樹のかげからアスファルトの上に降りた鳩が二羽、一瞬の心のよぎりではあつたが、私の胸にほのかな、心しみる感懐があつた。
     ○
 車の窓からの散見では――東京の街のまんなかに、たつたひとゝころ美しく整然とした処があつた。市ヶ谷の米軍司令部――(決して日本総督府ではない筈である)
     ○
 同情ほど、愛情に遠いものはない。北条民雄の述懐である。らい園のひとびとよ、この言葉をも一度強くかみしめよ。
     ○
 八重山吹、無花果、白樺、百日紅、萩、八ツ手、アジサイ、椿、沈丁花、アラヽギ、皐月、白ツツジ、石楠花、五葉松、桧葉、ヒマラヤ杉、小テマリ、アオキ、その他雑木二三、欲しいもの満天星、八汐、小米桜――ぼくの小天地の植込み。
     ○
 光田先生、もう十年は生きてください。
 いまゝでの五十年は、あなたのものでしたが、これからの十年は、わたしたちがいたゞきます。どうかもう十年は生きてください。
     ○
 雨にけむつたなかぞらに、けさもひとつの意志がつきさゝる。それがなんであるかは、わからぬまゝに、ゆうべの静謐がくるのだ。
     ○
 無着先生の童顔が
 モスコーの街を歩いている
 どこかでわんわん犬がほえたてる
 山彦学校のオルガンも聞えている
     ○
 ローゼンバーク夫妻「彼等は人間と真理と正義の名において死んだ。彼等二人の真の勇気は、何物よりも――生命そのものよりも――彼等が信ずる最もよき信念をもつて貴しとなしたのである」グレンディン・バートリッヂ。
     ○
 白衣につゝまれた端正な姿でもない
 まめに動くつゝましい所作でもない
 その女[ひと]の強い印象――
 どこか一点を凝視める杳かな瞳のいろ
     ○
 内灘はまだ斗つているだろうか!
 歴史を新しく書きかえるために!
     ○
「真実は壁を徹す」日のあることを、わたしの心は、いまも未来も確信しています。いのちある日の果まで、消えることのない燈火のごとく――。
   ・・・*・・・*・・・*・・・*・・・

 編集後記 〈国本(昭夫)〉
○私はすべての人々を愛する。それ故に又石器を愛する。私達人間の祖先は神秘観、宇宙観から石器を創造し現実に夢を実現した。人間は石器からたくましい意志と方向感を、もの静かな理性を、豊な知性を与えられた。原始の時、人々からこよなく愛されたように、石器は今もなお我々を永劫に愛しつづけるであろう。
○人生――それは斗いである。現実――生きる事である。社会――美化する事である。――宿命、天恵、感動、敬虔、呪縛、絶望、現在、未来は形而上学的接続詞に他ならぬ。最も現実的な夢、石器を私達は知らなければならぬし、近代の石器を築きあげねばならぬ。
○我いちにんに我ひざまずく、の存在はすでに可能性ある存在へと決定的に推移してゆく本質を、まず見る事であり、つかむ事である事を認知する故に、石器は更に主体性を明確にするであろう。
○主義主潮を問わず、あくまでも一人一党の石器であり、全国療養所の機関紙として発足する事の問題はない。巻頭に厚木氏がのべられている通りだ。だが詩壇の人々よ! 私達を特別視してはならぬ。特別視、それは貴方がた自らの畸型児を余儀なくされるであろうから。
○石器は誰のものでもない。みんなのものなのである。石器の今後の方針、編集について自由に積極的に意見をのべてもらいたい。より健全に、今後当然予想されるであろうあらゆる障害を打開して力一ぱいおし出そう。創刊号を一日も早くと思いながらこんなにもおくれた事、申訳がない。深くおわび申上げる。
○各支部毎に創刊号を討議し、意見をよくまとめて報告されるように望む。尚会計報告は次号に係の方から発表の予定。



[1785]  島田等著「らいにおける福祉の意味―杉村春三」 島田等著『病棄て―思想としての隔離 』 (ゆるみ出版) 『らい』誌・初掲載 より ;  「はしがき」(前文)                                                                                                                                                                                                                                                                                      投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/09/17(Wed) 11:45  


「らいにおける福祉の意味―杉村春三」島田等『病棄て―思想としての隔離』ゆみる出版、1985年12月20日発行 所収「U 知識人のらい参加」より                  


 はじめに(前文)

 親しいメル友である村井恵美さんから、上記の島田 等著『病棄て――思想としての隔離』(ゆるみ出版、1985年12月発行)が、メールに「添付」して滝尾宛に送られて来ました。この「らいにおける福祉の意味――杉村春三」は、らい詩人集団発行『らい』誌に掲載されたもので、いつか私の書いているホームページにも、紹介しようと思っておりました。


 私は、パソコンのキーをうつのが脳梗塞を二度して、右脳の梗塞の後遺症で、左半身(左手も指先まで)が痺れて難渋しています。だから右指先を使って、パソコンのキーを打っています。そのこともあって、パソコンを打つことが、遅滞しています。

 昨日の午前、広島市立安佐市民病院から連絡が入り、「ベッドがあいたので、明後日(9月18日)の午前10時に入院・入室を!」という連絡がありました。だから、当分、このホームページの投稿は出来なくなりました。私の投稿記事に期待されておられる方がたには、ご期待に添えないことをこころ苦しくおもっております。

 糖尿病、腎炎、血流不全、動脈硬化(特に右脚)、腰部脊柱管狭窄症による両下肢歩行困難、老人性皮膚疾患などなどで、18種類の服薬をつづけていますが、加齢でかつての薬が身体に合わなくなり、9月1日の深更時には、低血糖で意識を失い救急車で入院という事態もおきています。


 この度の広島市立安佐市民病院はそうした加齢によって起きる種々の症状を再度、検討に直すという調査入院です。神谷美恵子さんがいうように、現在の医学は「専門化」「分化」がすすみ、高度な医療機械導入により、多種多様な数値が短時間にわかりはします。だけど、「専門分野での小さな部分的な過ち」はなくなるようですが、「人間の人格的な大きな過ち」は、かえって現在の医学はしているようだす。それが「後期高齢者医療保険制度」「介護保険制度」という現在の政策が、こうした諸問題の矛盾を拡大していると思います。

 年内に衆議院に解散・総選挙が行われるとのマスコミなどの情報です。その場合、「後期高齢者保険制度」などは最大の争点のひとつになると思います。


 今年は、私の心と研究と運動活動などの師である島田 等さんが亡くなって満十三年忌にあたります。その精神をさらに深めることは、大切であると思います。島田さんの絶筆となった著作の文末には、このように書かれてあります。


「日本のハンセン病政策の世界的にも類のない、“独自”な歩き方をさせた根底には、日本の近代化が負ったマイナスの課題と重なっているはずである。安易で無批判な肯定や、仕方がなかったという保留は、過ちを温存させ、繰り返させる養土となるだろう。

 “過去を直視できないものは真の将来はない” ―どこからであれ直視の作業の手がつけられなければならない。‥‥」


 この「前文」のみは、「ハンセン病の闘いの歴史に学びともに考えるBBS」の掲示板に投稿します。そして、武井恵美さんの提供の「らいにおける福祉の意味―杉村春三」島田等『病棄て―思想としての隔離』(ゆみる出版、1985年12月20日発行 所収)「U 知識人のらい参加」より、は滝尾のホームページの掲示板に掲載します。「〜ともに考えるBBS」の訪問者は、ご面倒でも、滝尾のホームページの掲示板でご覧ください。

 資料の提供者である武井恵美さんに感謝します。

                      人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                      ‘08年9月17日(水曜日) 10:30



[1784]  「島田 等さんを偲んで」(21)連載・私の履歴書、(12) きき書き しまだ ひとし「ノン」; 『らい』24号、第3回                                                                                                                                                                                  投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/09/17(Wed) 08:58  

「島田 等さんを偲んで」(21回) 連載・私の履歴書、(12) きき書き しまだ ひとし「ノ ン」(らいでないらい)(『らい』第24号、1979年4月発刊より) (その三)

               人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

               ‘08年09月17日(水曜日)08:38


 <入園生活はじまる>(承継)

 それから八日目ですが、なにが原因かわかりませんが、目がみえなくなり、おおかた盲人になりかけました。

 そのとき眼科医内田守先生の診察を受けますと、先生はこりゃ目にバイ菌が入っとるというので早速隔離(重病棟名)へ入室。一隔離病棟の廊下へ入れられ、時計のうつのを合図に一時間おきに罨法と目薬をしました。

 三日しますと屋外の電線が見えるようになり、これでやれやれと思って他の入室者と話をしておりますと、そこへその頃附添本看をしていた斉藤さんが、私に、「ケンドンの中にあるもの食わないとくさってしまうよ。」というのですが、それはその当時病棟入室者への慰問として配られた菓子とか、果物だったのです。私も四角い、かたい長いものがあるなと、一度はさわってみたのですが、当時よくあった棒石鹸だろうと思っていたのですが、それは慰問のういろうであったということで、にわか盲の笑い話でもありました。


 そして現在では園長のご回診という言葉はあまりききませんが、昔は月一回はあったようです。そしてその予告がありますと、看護婦さん、付添いさんたちが、病室の天井のすす払い、ガラス拭き、廊下のドアの把手の真鍮磨きと忙しくしておりました。

 いよいよ回診の日、医局の各科の先生方と一緒に園長が病室にきました。ある病人の前では笑ってみせたり、ある病人には怒ってみたり、またある病人の前では先生方になにか文句をいってみたり、私の前にきました。内田先生の説明をきいて、やあ、おめでとう。おめでとうと二回いって帰りました。それから二、三回して廊下の部屋へ退出しました。

 そして舎の生活に入りますと、舎の人はみんな作業に出ていましたから、私も作業をすることになりました。

 隣の部屋の人が石工部に出ておりましたから、石工部に入れてもらいました。その頃の石工部の仕事で記憶に残っておりますのは、グランドの上の貞明皇后の御歌碑の基礎工事、昔は望ヶ原浴場と言っておった様ですが東部浴場の排水溝、海岸道路の修理などしたことを憶えております。主任は「石を扱うことやから怪我をするなよ。怪我wするなよ。」といってくれておりました。


 <親のありがたさ>

 そして午前、午後作業に出ておりましたが、その年の九月一七日、親父が面会に来ました。いまのように全舎に放送設備がありませんので、よく通信部員が連絡してくれたことです。分館に行ってみますと、親父ははじめてのことで片山(備前市)で下りて山を越えてきたというようなことをいっておりました。

 早速分館を出まして光ヶ丘にのぼり、いまライトハウスのある位置に、赤い屋根瓦の作業センターがありましたが、その赤い瓦のむこうに住んでいるんだといいますと、親父は「まあええ所はええ所じゃけれど病気がのう」としみじみいっておりました。

 それから新良田海岸へ行きましたが、歩くみちみち、親父が「おまえ、あっちゃこっちゃから借金とりがきて困った。」といいました。その借金といいますのは、村の若い者と一緒に、元来甘党でしたから万頭や鯛やきやぜんざいなど、遊びに行っては、今日はオバさん一円二〇銭や、今日は一円六〇銭やといって、むこうの大福帳につけて帰っていました。その頃、三角のマークの“ノーリツ”とかいった自転車がありましたが、その新車かっ中古か忘れましたが、それもありました。

 それから、こんどは親父なにをいい出すのかと思いますと、「おまえの勤めていた役所で、おまえの取扱っていた書類を全部焼却したということをきいた。」といって涙ぐみました。それでおまえの部屋にあった物も、勿体ないと思った物もみんな石炭箱につめて、籾殻といっしょに焼いてしもうたといっておりました。

 親父がいちばん勿体ないと思うたのは、私が十年間対照継続日記というのをつけておりました。十年間が一目でわかる厚さ五センチの美濃版の日記でしたが、それも文房具や製図用具と一緒に焼いてしもうたといっておりました。

 新良田海岸について、砂浜に腰を下ろしますと、親父は金はどうかといいました。「金は全部使うてしもた。」「あれだけの金何に使うた。」その頃六百何十円は、あれだけの金という程の額だったものです。

 じつは先ほど分館で、親父は金をちょっと置いていこうかといったのですが、分館の先生方が後に立っていて、そこで金を受取ることはできませんので、一、二ヶ月はあるから、無くなったら手紙を出すといって分館から連れ出したのでした。「金をくれるんやったらここでくれにゃ。あんなところで金をもらったって手に入らん。」「そんなことかいな」といって親父は、「汽車賃だけおいといたらええから、みんな置いていく。」といってくれました。そのときは親というものは有難いものやとつくづく感じました。


 <“らいにあらず”しかし‥‥‥>

 それから毎日、午前午後作業に出ておりましたが、その年の十二月二三日、帰省することになりました。

 その頃、帰省するといえば、鼻汁検査、医者の面接、着て帰るものはフォルマリン消毒、帰る日には外科治療室の隅にあった消毒風呂に入るのですが、男は簡単ですが、女はせっかくきれいに化粧しておりますので、鳥の行水どころでなく、すっと入ってすっと出て、フォルマリンの匂いのきつい衣類に着替えておりました。

 乗せられるバスも、なんと刑務所の犯人護送用のような、車の後にドアのあるものでしたが、そのバスの中にもフォルマリンの鼻をつく匂いです。この匂いが早く消えんかなあと思っておるうちに東山(岡山市内)に着きます。そして東山の山の中で下ろされ、各自が思い思いの方法で駅へ着きます。


 私は近くですので割合早く着けます。帰ってみますと、私の本家でちょうど区長をしておりましたから、そこへ行っていろいろと話をしますと、叔父のいうには、「まあ病気が治ったとか、病気ではなかったとかの証明があったら、村の者にも話がしよいんだがのう」というのでした。

 そこで私は、そんなら何かもらってこようかということで、すぐ虫明まで来まして、虫明から内田先生を呼びまして、先生に「家へ帰りますとこういうわけですが、何か証明を書いて欲しいんですが」といいますと、先生は「そりゃ書かんでもないが、そっちで適当な文句を書いて、内田の判を買って押しておいたらよかろう。」ということでした。

 それならそうしましょうかといって帰りかけたんですが、それも面倒くさいし、又内田先生に迷惑をかけてもいけませんので、その足で京大の小笠原登先生のところへ行きました。年末でもあるし、先生がいられるかどうか心配でしたが、先生に会うことができました。

「あちらこちらの医者がらいだというんですが、一度先生の診察をおねがいしたいと思ってきました。」といいますと、よろしいといって一通り診察し、「心配せんでもよろしい。病気ではありません。」「それでは何か証明が欲しいんですが」といいますと、書いてあげましょうといって、その頃私は両方の耳にシミヤケをしておりましたので、「一つ病名、両耳殻凍傷第一度、ことにらい等の伝染性疾患の症状を認めず。小笠原登」。そこで小笠原という認印はすぐにおせるんですが、それでは証明者としてちっと物足りないんで、大学の割印が欲しいんだgといって、看護婦にもらえるかきいてくれといっておりましたが、できますということで割印をして、必要がありましたらこれを出して下さいといってくれました。

 その手数料は一円。それを持ち帰って本家の叔父に渡しまして、みんながもう正月だから、正月をゆっくりしていったらどうかといってくれましたが、私は正月に人が来て、ああだこうだと面倒くさいから、二九日に行くことにするといって、長年ね起きしていた部屋で新聞とか、雑誌キングなど読んでいますと、ふと状差しの中に親父宛の姉の封書がありました。中を見ますと、姉が私の名前を書いて、「あれももう長生きをようせんだろうから、できるだけのことはさしてやってくれ。私もできるだけのことはしてやろうと思っております。」と書かれていました。その姉んは昭和三五年十月二五日に会いましたが、以来音信不通、いまはあの世のものともこの世のものともわかりません。


 <再び愛生園へ>

 そして二十九日に家を出まして姫路で途中下車、土産を買いまして三個の小包にして姫路で一泊し、翌朝岡山へ着き、もう正月だからひとつ散髪でもしてやろうと理髪店をのぞくと20書く人以上の客でした。年末だからどこへ行っても同じだろうとおもって入りましたが、私の順番はなかなか廻ってきません。そのうち食事時になりなして、私は弁当を持っていましたので、理髪店のオバさんにお茶をもらって弁当を食べ散髪をしました。弁当持ちの散髪は生れて初めての終りです。

 そして市内で一日遊びまして駅前の旅館に泊りました。その頃年末にはよく臨検があrましたが、それにひっかかり、旅館の二階へ刑事が上ってきまして、住所、氏名、年齢、職業、今朝出た所、これからの行先をききましたので、今朝兵庫県から来て、高知へ行く予定だが、時間が半端なので明日の朝一番で行こうと思っていますといいますと、お邪魔しましたといって帰りました。

 翌日、高知に行く予定を変更しまして、虫明に来て虫明事務所に着きますと、私が送った小包が床に転がっておりました。下げて帰ろうかと思いましたが、まあ明日は配達してくれるだろうと思って帰ったのですが、それがなんと正月三日になって届き、みんなでお茶をのんだことを憶えています。


 それから二年半ほどしてこんどは作業を木工部に替りました。その頃の木工部は男女合せて一二、三名いたと思います。女子部員はガラスの入替、全日作業ですからお茶沸し、昼食の準備。私も昼食の準備、出勤簿、そして作業日誌というものをつけておりました。どこそくの修理に板が何枚、垂木を何本というように明細に記録して、患者事務所の作業部に出しておりました。

 その頃の木工部のいちばん大きな仕事といいますと、なんといっても恩賜道場(現在は恩賜記念館)の建設だったと思います。営繕のエライ人は石川さん、材料係が吉田源太郎さん。主任も三回くらい替ったように思います。患者の木工経験者が一日の作業賃五〇銭、私たち雑役が二〇銭でした。それから第二崇信寮あたりも木工部が建てたような気がします。

                           (未完です。=滝尾)



[1783] では、どう思い続けるているのか。それをリベルさんに問われているのだと思いますが。 投稿者:北風 投稿日:2008/09/16(Tue) 20:04  


10月20日は島田等さんの命日です。
滝尾さんは、島田さんの形見をその日に島田さんの故郷の海に流そうと、体調の不備を抱えながら旅の準備をしています。

ここに滝尾さんが書いているのは、一人で行くのではなくこの掲示板の仲間とその旅を計画しているからです。これは、必ずしも実際に旅を共にするという意味ではありません。

藤本さんのことは、忘れていません。
藤本さんの生と死は「好個の材料」というには重過ぎます。
私たちは、「記念日」ごとに人を思い出すのではなく、思い続けることが必要だと思います。
では、どう思い続けるているのか。それをリベルさんに問われているのだと思いますが。

注意を喚起してくださって感謝します。



[1782] 藤本事件 投稿者:リベル 投稿日:2008/09/16(Tue) 18:47  

46年前、1962年9月14日に藤本松夫さんが処刑されました。「ハンセン病の闘いの歴史に学びともに考える」好個の題材だと思いましたが、私を含めてどなたもここにお取り上げにならない。


手前味噌ですが昨年の今頃私のBBSに投稿された「夕焼けさん」の投稿の一つをご紹介します。


『「あ〜ぁ、「藤本事件」 投稿者:夕焼け 投稿日:2007年 9月14日(金)23時18分8秒   返信・引用
もし、本当に死刑囚でなく冤罪事件だとしたら・・・。

「贖罪」としてはどのようにすれば・・・、よいのでしょうか?

やはり真実の追究なのか・・・、それとも、せめて無罪を証明することの努力に関わる事なのか?
45年の時が、今こうして語りかけているような錯覚すらおぼえます。

(リベル) 私は、自分が藤本事件について、積極的に何も役に立てなかったことを、「罪」と言う風には思っていません。

ですから、その人その人が、自分の情熱と体力に応じて、出来ることを力一杯行えば、それで良いと思っています。

それでは自分自身が許せないという場合は、本を書くとか、その為に関原弁護士や、徳田弁護士や、ご遺族に会って、取材するという活動にはいるとか、その人によって、為すべき事、為し得ることは幅広く有ると思います。夕焼けさん、頑張って下さい。(2007.9.15 01:14」』


いま「ハンセン病の闘いの歴史に学びともに考える」趣旨が失われていないか、昨年あれほど熱意を篭めて語られた「藤本事件」はどこへ雲散霧消したのでしょうか。それを痛切に憂うものです。

ノーテンキなことばかり発言しているお前さんにそんなことを言う資格があるのかと言われれば、「さあ、どうでしょう」と平然と答えます。私は少なくともアルコールランプは灯し続けて居ます。HPで「藤本氏の処刑から46年経ちました」とお知らせしたのは、私だけだったような気がします・・・。


ここは本来「ハンセン病の闘いの歴史に学びともに考える」場所であったはずです。今は90%が滝尾さんの「第二サイト」と化しています。滝尾さんも「闘いの歴史」をお書きになっています。しかし、滝尾さんはそのURLをお教えくだされば十分だと思うのです。私などは先ずここhttp://takio-kokoro-2.hp.infoseek.co.jp/pg08/pg0803.htmlを読んでから、こちらへ来ますから、何か新しいことが追加されていないかと、結局同じ文章を二度読むことになってしまいます。

これは滝尾さん、異常な状態だと思います。ご自分のサイトがありながら、(これは私はこちらhttp://www.eonet.ne.jp/~libell/13keijiban.htmでキチントご紹介申し上げているれっきとした独立した堂々たるBBSではないですか)もう一度同文を他のBBSへコピペなさる、これは他の人が真似をし始めると、まさに奇妙な事態を招きかねません。


先輩に対して生意気なことを申し上げました。またこれは運営者である北風さんに対するお願いとも取れます。いろいろな反論もお有りになろうかと存じますが、しかし、疑問を感じながら沈黙を保っているのも、潔くないと思って、この機会に思い切って書きました。

大方のご意見をお待ちしております。


[1781]  「島田 等さんを偲んで」(20回)連載・私の履歴書、(12) きき書き しまだ ひとし「ノ ン」 『らい』24号 【その2】 より                                                                                                                投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/09/15(Mon) 22:14  


「島田 等さんを偲んで」(20回) 連載・私の履歴書、(12) きき書き しまだ ひとし「ノ ン」(らいでないらい) (『らい』第24号、1979年4月発刊より) (その二)

               人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

               ‘08年09月15日(月曜日)22:05


 <家を出る>(承継)

 桜井先生が、私がいっぺん診察するということで、専門の方のらいの特別診察治療室にいきましたて、診察を受けました。どうもその気があるように思うという診断でした。
 そこでは長椅子に八人づつ並んで手をつないで、尻に注射をうってもらっておりました。私もその列に入れられて、尻にプスッと注射をうたれましたが、その注射の痛かったこと――三日間はどうしても便所でしゃがむことができませんでした。

 そしていろいろ話をしておりますと、らいとすれば所轄警察署へ連絡しますというようなことをいっておりました。私はこの藪医者!なにをとbけるかと思って家に帰り、親父にその話をしますと、親父も、まさかそんなことはなかろうと思うが、たとえヤブでもなんでも医者のいうことであれば、今後どうするかということで、夜を徹して話しあいました。

 その結果、農家では月々に現金収入というものはありませんが、親父がいま手許に七百円あるから、これをもってまあひとつ気分転換に、どこかへ行って遊んでこいということで、そしてその頃私は、役場勤めをしながらいろいろと農事の研究をしていました。たとえば水稲の蜜植、粗植あるいは品種の改良などを研究しておりましたが、sの結果を見ずして、昭和一四年一〇月二八日、家をでました。

 そして神戸の叔父の家へ行きましたが、叔父の家も商売をしておりますので、栄町ホテルで一泊一円二〇銭で三ヶ月の予約をしました。


 朝の映画の早朝サービスから晩まで映画を見たり、あるときは大阪、あるときは京都へ、あるときは高知に姉がおりましたので高知へと、遊びまわっておりました。そしてその三ヶ月も過ぎまして、ちょっとふところがさみしくありかけて、百円あったはずじゃがと思って探してみますと、腹巻の後の方に三つ折にした百円紙幣がありまして、これでやれやれまた二ヶ月は遊べると思っておりましたが、その二ヶ月も過ぎて、財布には三〇円ばかり。そこで私は当時金側の腕時計をもっておりましたので、それを時計店に売ることにしました。

 時計店では二〇円で買ってくれました。その二〇円をにぎって時計屋を出るのと、時計の盗難があったとかで刑事が入ってくるのとすれちがいました。そこで刑事に「あんたにちょっとおたずねすることがあるから交番まできてくれませんか」といわれ、交番に行きますと、住所、氏名、年齢、職業、所持品の検査などありまして、私の手さげカバンの中に父から届いた一通の封書がありましたが、それは神戸や大阪で遊んでおると、親戚もあるし、友達も多いから、どこか高知の方へでも遊んだ方がよかろうという意味のことが書いてありました。


 それを刑事が見まして、顔色をかえて、「あんたなんか悪いことをしたんじゃないか」といいますから、私は殺人とか強盗とかということも家族に迷惑がかかりますが、それ以上に重要問題です」といいますと、「なんですか。」「ある藪医者がらいだというので、いま困っているのです。」「あんたがらい、そんなバカな。」「信用しませんのか」というと「どうも信用ならんなあ。」「そんなら阪大に桜井方策という医者がおるから、電話で問い合わせてみたらどうですか。」「いやそうまでせんでもいい。それに岡山に病院があるということをきいておるが、治って帰る人もあるらしい。そういうところへ行ってみたらどうですか。」「まあ、いずれは行ってみようと思っていますが、まだお金があるうちは遊んでいこうと思う。」「いや、どこへ行っても金が要るもんじゃ。金があるうちに行った方がいいんじゃがなあ。」「まあ考えときましょう。」といって交番を出ました。

 そしてそれから二四、五日たった頃、私が新開地で夜店――手相、生命判断、詰将棋、連珠、薬売などがおりましたが、その薬売りの前にたっていますと、まむしで作った薬のようでしたが、「四百四病のうちこの薬で治らん病気はひとつもない。いや、ちょっと待てよ。この薬でも治らん病気が二つある。結核の四期とらい病は絶対に治らん。えらいこといいよるなあと思って、次をひやかしておりますと、例の刑事にパッタリ会いました。「あんたまだ行っておらんか。まだ金はあるか。」といっておりましたが、その頃財布には二〇円あまり。いよいよみこしをあげようかと思いまして、その日の最終列車で岡山に行きました。


 <三十年の“しばらく”>

 岡山に着いたのは朝の四時半頃でしたが、冷たい駅弁の残りを買いまして待合室へ。そして駅前の広場へ出かけてみますと小雨が降っていました。一台の屋台が店じまいをしており、もう腰かけを屋台にしばりつけておりましたが、うどんを二玉、熱うsyてもらって立食をして待合室へ帰り、夜の明けるのを待って駅前の交番で愛生園のことをたずねましたが、新米の巡査でしょうかいっこうに要領を得ません。


 そこでタクシーをとめて、虫明までの運賃をきくと、「十円です。十円ですが雨は降るし、帰りはないし」と断わられました。そこで仕方なく西大寺へ、西大寺から虫明行のバスに乗りました。

 隣の席の青年といろいろ話しながら行きましたが。どうやらその青年は京大の学生らしく、愛生園の園長に会いに行くというようなことをいっておりました。私も園長に面接に行くんだといって話をしながら愛生園の桟橋に着きました。ときに昭和十五年、紀元二六〇〇年四月一日、満三二歳ではじめて愛生園の土を踏みました。

 例の青年は一足先に船からおりて本館に入りました。私はタバコを買いまして本館に入り、受付の女の子に園長に面会だといいますと、しばらくして白衣の背の高い、医者らしい人がきまして、園長は留守ですがご用件はといいますので、ちょっと診察をおねがいしたいんですがといいますと、診察ならぼくでもやりますということで、一通りの診察をしまして、「なんともよういわんけど、虫明にも旅館があるが、ここの収容所というところへ一晩泊って、あすの朝園長の診察を受けて下さい。」ということで収容所へ案内されました。

 そしてその翌日、光田園長の診察を受けましたが園長から「あなたは麻痺で来たんですか。しばらく治療しなさい。」といわれましたがそのしばらくが三十年を越えようとは思いませんでした。


 そうして三日目でしたか、昼食に大きい瀬戸びきの金盤に草餅が九つ出ました。私はこれは何事かといいますと、先輩たちは、これは昔の古い患者がいろいろと行事を作って、それがいまなおつづいておるという意味の説明をしてくれました。

 それを四つ食べまして、先輩たちと一般社会のこと、ここのことをいろいろ話しておりましたが、私は先生といえばまあ一般には学校の教員とか、医者ぐらいに思っていましたが、ここでは事務をとる職員も先生といわんゃいかん、人事係は横山先生でした。


 そうすておりますと、園内放送で分館へ来いという呼び出しがありました。私は早速分館に行きまして「横山先生、今日は」といいますと、横山先生なんと思ったか、先生といわれるほどのバカでなしと思ったかどうか、私にも先生づけで呼んでから、「ところで金をなんぼ持ってきたかな。」「金は二円九五銭渡しましたよ。」「それだけか。他にはないんか。」「他には一文もありません、」

 その二円九五銭がその当時の一ヶ月の作業に匹敵した金額でした。その頃“園内通用票”というのが発行されていました。五銭や十銭は、ブリキで作った吹けば飛ぶようなものでしたが、一円になるとちょっと重みのある金色の小判でした。そういうわけで、園内に正金を入れるのに、みんな相当苦労していたようです。たとえ太軸の万年筆に十円札を巻きこんでくる人、着物の襟に縫いこむ人、靴の敷皮の下や、繃帯の中に巻きこむ人と、いろいろ苦労したようです。

 そのあくる日、又分館から呼び出されまして、横山先生、こんにちはと行くと、あんなり先生先生というてくれるなよといって、「あんたは診察に来たようだが、もういっぺん家の方の整理もあろうから帰ったらどうかや。ここへ入ったら半年は出られんから。」横山先生おかしなことをいうなと思ったんですが、「半年ほどで出られるのなら居ります。」ということをいって、二、三日たってから雁寮下の三号室に入りました。

                   (この項は未完。つづく=滝尾)

     ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥


[1780]  死の棘」生んだ島尾敏雄の家、解体へ 奄美大島   この島尾敏雄の住んだ奄美分館長宅の解体に反対します!                                                                                                                 投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/09/15(Mon) 12:46  


【「死の棘」生んだ島尾敏雄の家、解体へ 奄美大島(1/2ページ)】
                                          2008年9月15日12:42


島尾敏雄が家族とともに10年間暮らした鹿児島県立図書館奄美分館長住宅=鹿児島県奄美市名瀬小俣町


鹿児島県立図書館奄美分館長住宅の屋内。島尾敏雄は奥の6畳間や手前の4畳半間を書斎とし、数々の代表作を執筆した=鹿児島県奄美市名瀬小俣町


島尾敏雄:

 戦後の日本文学を代表する作家の一人、島尾敏雄(1917〜86)が暮らしていた鹿児島県・奄美大島の県立図書館奄美分館長住宅が、近く解体される。島尾が代表作「死の棘(とげ)」を執筆した家屋だ。研究者らは「島尾文学をしのぶ貴重な文化遺産」と主張し、住宅の存続を要望しているが、所有する奄美市は「維持管理が難しい」として解体方針を崩していない。

 島尾は、精神的な病を患った奄美・加計呂麻(かけろま)島出身の妻ミホさん(故人)の療養のため、1955年10月、首都圏から、ミホさんの親類が住む名瀬市(現奄美市)に移った。作家活動をしながら58年から初代分館長を務め、65年に県立図書館奄美分館の敷地内に新築された木造平屋建て60平方メートルの分館長住宅に入居。75年に分館長を退職し、同県指宿市に引っ越すまでの10年間を過ごした。その後、歴代の分館長や同補佐らが今年3月まで住んでいた。

 間取りは6畳間1室、書斎を含む4畳半2室。島尾はここで、実体験に基づく夫婦のすさまじい愛憎を描いた「死の棘」を執筆。「気鬱(きうつ)」に悩まされながら妻とのやりとりなどをつづった日記風の作品「日の移ろい」には、この家での場面が数多く含まれている。さらに南方の島々「琉球弧」から日本の歴史や文化をとらえ直す独自の文化論「ヤポネシア論」も、この住宅の書斎で書き記していった。

 解体方針は03年に決まった。県は老朽化した分館に代わり、近くに新図書館を建てる。その敷地を所有する奄美市から土地を譲り受ける代わりに、分館長住宅を取り壊して更地にしたうえで市に譲る契約を交わした。県は来年4月に完成する新図書館1階の島尾敏雄記念室に分館長宅の床柱を移し、往時の書斎をしのべるようにし、奄美市は跡地に道路や避難所をつくる。


滝尾:註 島尾敏雄は、戦争末期は沖縄の水上特攻隊員(特攻艇・震洋の乗り組み隊員)であり、その島の娘であるミホさんと恋し合い、敗戦後、ふたりは結婚しました。そういう意味から平和を希求する私たちの平和の史跡でもあります。是非、この県立図書館奄美分館の敷地内に新築された木造平屋建ての奄美分館長宅の保存を関係者にお願いします。

 広島市安佐北区口田南三丁目5−15 滝尾英二; 電話番号: 082−842−0710 

            (9月15日の“アサヒコム”から)

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 【参考記事】(“アサヒコム”から)

島尾敏雄『死の棘』 桐野夏生(下)
[掲載]2008年6月22日
■愛は際限のないエゴ 死をも自分のものに

 最近、加計呂麻(かけろま)島の島尾敏雄文学碑の奥に墓碑が建てられ、夫妻と娘のマヤさんの遺骨が納められた、という記事を読んだ。三人の納骨は、昨年亡くなったミホさんのご遺志であったらしい。文学碑・墓碑は、特攻艇・震洋の基地跡に立ち、呑之浦(のみのうら)を見下ろしているのだそうだ。

 とうとう家族がまた一緒になったのだ、とまるで自分に縁のある人々のことのようにほっとする半面、墓碑が島尾敏雄とミホ夫人が出会って恋に落ちた場所を見据えていることに、いささかの戦(おのの)きも感じるのだった。縁がある、とする妄想に縛られること。これも愛のひとつのバージョンではあるまいか。

 『死の棘(とげ)』を、何度読み返しただろうか。最初に読んだのは二十代だった。その頃は、狂ったと言われたミホさんがかわいそうでならなかった。が、今はただ、愛が怖いと思う。

 愛に生きることは、加害者や被害者を作ることではない。誰も悪くはないのだ。が、あるきっかけから、確実に互いを蝕(むしば)むものがどっかと根を下ろし、関係を捩(よじ)らせていく。これで終わり、と底を打つこともなく、収まったように見えても、またぶり返し、延々と棘が心を刺し続けて、いつしか現実を変える。あるきっかけとは、「不信」である。

 「あなたはどこまで恥知らずなのでしょう。あたしの名前が平気でよべるの。あなたさま、と言いなさい」「あなたさま、どうしても死ぬつもりか」「死にますとも。そうすればあなたには都合がいいでしょ。すぐその女のところに行きなさい(中略)」

 形を変えて、繰り出される言葉。怖(おそ)ろしいのは、際限がないことだ。愛は底なしのエゴでもある。だから、すべての人間を平等に愛することを、愛とは言わないのである。そして、激しい愛は、相手の死をも含めたすべてを得たい、とする営みなのだ。『死の棘』は、そのことを教えてくれる、誠に怖ろしい小説である。(作家)

    ◇

 60年に講談社から冒頭の一部が刊行、77年に完成版が新潮社から出版された。新潮文庫で刊行中。



[1779]  島田 等さんを偲んで」(19回)連載・私の履歴書(12) 、きき書き しまだ ひとし「ノン」 (『らい』24号 )  【その一】                                                                                                                                    投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/09/15(Mon) 03:48  

「島田 等さんを偲んで」(19回)連載・私の履歴書<12> 、きき書き しまだ ひとし「ノン」(らいでないらい)(『らい』第24号、1979年4月発刊より)【その一】

               人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

               ‘08年09月15日(日曜日)22:00


 島田等遺稿集『花』(手帖社、1996年4月発行)の宇佐美 治さんの書いた「あとがき」(139〜142ページ)によると、つぎのようになっています。

「この遺稿集『花』の著者、島田等は、一九九五年十月二十日の夕方、多くの友人に見守られて、六十九年の生涯を静かに閉じました。死因は膵臓ガンでした。
 彼は、一九二六年五月、三重県で生まれました。若くして病を得て、草津の湯の沢に一年ほど療養生活をしたことがありました。

 一九四七年九月、三重県から二十九名の人々と共に、長島愛生園に収容されました。っ収容された中には、ノン(非らい)の人が四名も含まれています。」(139ページ)


 『らい』第24号、1979年4月発刊の1〜9ページには、連載・私の履歴書(一二) きき書き しまだ ひとし「ノン」(らいでないらい)が、収録されています。長文ですので何回かに分けて、その全文を紹介したいと思います。島田さんは、こうして無名な収容者たちにも「きき書き・私の履歴書」の連載をらい詩人集団発行『らい』誌の中で、取り上げておられます。ハンセン病問題を問題とする風潮の中には「有名人・著名人」ばかり追っている方が多くいらっしゃる中で、この無名の人たちを書き残していただいたことは、貴重です。

 私が、最晩年の研究として「近・現代歌謡曲・流行歌の社会史」を書こうとして、可能な限り「カラオケ喫茶」へ通い歌謡曲をならい、また歌謡曲のCD,DVDそして、テープを収集しているのと、なにかつながるものがあるような気がします。

 歌とは「訴える」ということだそうです。文字を持たない旧石器の時代から、何万年以前から「歌」はこの地にも存在しました。文学としての「歌」は、せいぜいここ千数百年から、やまとに文字が伝わってからのことでしょう。長い「歌」の歴史の中では、つい最近に、文字文化をもってからの「歌の世界」です。有限的である人間の「歌」文化など実は、私には余り関心が薄いのです。


 そう考えながら、『らい』誌の「きき書き 連載・私の履歴書」をこれから、紹介しようと思います。最初に『らい』第24号に掲載された「ノン」(らいでないらい)、きき書き:しまだ ひとしの紹介から始めたいと思います。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 私は明治四一年四月八日、兵庫県の片田舎の農家に生まれまして当年六八歳。人間の一生涯というものを各時期について話しますと、相当長時間かかりますので、今日はそのうちの壮年期 ― 三一歳から五一歳までのことをふりかえってみたいと思います。

 ところで現代の農業経営、農作業は、すべてが機械化されまして、私たちがまず不可能に近いのだはないかと思っておりました田植機の出現によって、昔のような早乙女姿がだんだん見られなくなりつつあるということをきいております。昔の農作業は農耕用の牛、あるいは馬が一頭、機械と名のつくものは除草機、足踏脱穀機、選米機程度で、村に一台動力籾摺機がありまして、申込順によって籾摺をしてもらっておりました。

 あらゆる農産物の乾燥もすべて天日乾燥で、たとえば牛馬の飼料の千草、脱穀した籾、麦、大豆、小豆、竹の皮は農家の副収入というよりも、むしろ子供たちの小遣い稼ぎになっていたようです。この他もろもろの農作物の乾燥するために、家の前に三〇畳ないし40畳敷の広い土間がありました。

 これを私たちの方ではカドといっておりましたが、その広い土地も一年使いますと相当土が減りまして、あちらこちらに水溜りができるようになります。そこ年に一度は必ず土入れをしておりました。

 私は昭和一四年の九月のある日、牛をつれて近くの山に土取りに行きました。帰り途が少し下りで、急カーブもありまして、牛がちょっと早廻りをいたために、牛は難をのがれましたが、私と土を積んだ車は二メートルの深さの溝に頭から突込みました。そのとき右肩を強く打ちまして、その怪我が私の一生を台なしにするとは思いませんでした。


 <その人に会わざりしかば>

 一日、二日たって、ものすごい、針で刺すような神経痛がするようになりまして、あちらこちらの医者、鍼とか灸の治療をしましたがいっこうに治りません。

 そこで京都に友だちがおりました関係で、京都の大学病院へ診察に行きました。診察の結果、今はそんな原始的な医療器具はないと思いますが、直径三〇センチあまりの円筒形の中に電燈がいくつもついていておりまして、その中に腕を入れる治療です。それを電光浴と呼んでおりましたが、コップに四分の一くらいの汗が出たと思います。

 その治療費が一回二〇銭、往復の旅費が五円、これではとても経済的にやっていけないと思いまして、今もあるようですが京大から道路一つへだてたところに播磨館という旅館がありました。そこで一泊二食一円五〇銭で二週間の予約をしまして、毎日、電光浴の治療に通っておりました。

 そして二週間治療をしますと錐でもむような神経痛も、うそのように治りまして、まあこれでやれやれと思って家に帰りました。

 私はその頃ある役所に出ておりまして、その頃ある役場に出ておりまして、その余暇に農作業をしておりましたが、それから一ヶ月もたった頃に役所で事務をとっておりますと、どうしても思うような字が書けなくなりまして、これはおかしいと思っておりますうちに、右肩から指先まで完全に麻痺しました。麻痺というよりも、ちょうど電燈のソケットに入れとるような感じでした。ジンジンジン、それはいまなお続いておりま。

 そこでまた、あちらこちらの医者に行きましたが、どうにも原因がわからない。そこで神戸に叔父がおりましたから、そこへ行きましていろいろ相談しましたが、まず神戸の市民病院へ行ってみたらということになりまして、市民病院に診察に行きました。

 若い医師でして名前も覚えていますが、ここではA医師としておきましょう。A医師の診察では、ちょっと首をかしげておりましたが、らいではないだろうかということでした。私は親戚にも、家族にも先祖にも、らいというような病気の者はおりませんので、これはなにかの間違いだろうと思いまして市民病院を出ました。

 ところが何だか気にかかりますのでその足で大阪の大学病院に行きました。大学病院のB医師の診察では、「私は絶対にらいとは思いません」という診断でした。

 そこで二、三日して市民病院へ行きましてA医師に、大学病院の診断はこうですがと申しますと、A医師は「大学の方が権威も上なら、医者も上です。阪大のいうとおりにしておいましょう。誤診と思います。」といって一札入れてくれました。

 それから四、五日してからまた阪大に行きましたて、B医師といろいろ治療上の相談をしてりますと、そこへ全身を完全に包んだ、そして目だけギョロつかせた人が入ってきました。私は一見この人は全身熱湯の重症患者だろうかと思っておりましたが、その人が昨年暮亡くなられたご存知の桜井先生(注)でした。

(注)、桜井方策氏、吹田市生、M二七〜S五〇、全生病院、外島保養院医師、阪大教授を至て松丘保養園、長島愛生園に勤務。

                   (「ノン」の項は未完です=滝尾)



[1778]  島田 等さんを偲んで(18) 雑感を書く ; 広島青丘文庫  滝尾英二より                                                                                                                                                                      投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/09/14(Sun) 11:49  




 <島田 等さんを偲んで(18)> 雑感を書く

               人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

               ‘08年09月14日(日曜日) 11:44

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 私より一つ年上の1930年生まれの草津在住の沢田五郎さんが、水本静香さんに「書きたい事を書くのが文学ではなく、書かねばならないものが文学だ」と簡潔に言われたといいます(『菊池野』2008年9月号、29ページ)。私が生まれた1931年4月2日は、「癩予防法」(旧法)が制定された年月です。その年の9月18日には、「関東軍参謀ら、満州占領を企てて奉天郊外柳条湖の満鉄線路を爆破。関東軍司令部本庄繁、これを中国軍の行為として総攻撃を命令。満州事変はじまる。」 と『近代日本総合年表・第二版』(岩波書店)には、書かれています。

 それから七十七年の歳月がたちました。そして私自身でいえば、悲惨な戦争を広島の地でいやというほど体験しました。また、敗戦後は、若い力で私は、数多くの人民の戦列に加わり、国家権力などと闘ってきました。そして、歴史研究者として、今まで多くの文章を書いたのは、否、書き続けたのは、何故か、それを沢田五郎さんの言葉をお借りすれば、「書きたい事を書くのが歴史ではなく、書かねばならないものが歴史だ」という同じ心情・信念で今なお日夜、歴史記録を書いています。そして後世の人たちに少しでも伝え残したいという願いがあります。


 卓越した歴史家であるE.・H・カーは、「歴史は、現代と過去との対話である」と、『歴史とは何か』(岩波新書、1962年3月発行)で幾度も繰り返しています。同書の訳者である清水幾太郎は、「はしがき」で、「これは、彼の歴史哲学の精神である。一方、過去は、過去のゆえに問題とのではなく、私たちが生きる現在にとつて意味のゆえに問題になるのであり、他方、現在というものの意味は、孤立した現在においてでなく、過去との関係を通じて明らかになるものである。‥‥‥E.・H・カーの歴史哲学は、私たちを遠い過去へ連れ戻すのではなく、過去を語りながら、現在が未来へ食い込んで行く、その尖端に私たちを立たせる。」と述べています。


 今年8月30日の「ハンセン病の闘いの歴史にともに考えるBBS」の〔1756〕投稿文に、

「‥‥1980年の詩は1980年の時代の中の詩としていつまでも輝いていると思います」とし、また

 「島田 等さんたち「らい詩人集団」の「宣言」(1964年8月)でいう「自己のらい体験を追及し、また詩をつうじて他者のらい体験を自己の課題とする」こと。「日本の社会と歴史が背負いつづけた課題」である「私たちじしんの苦痛をはねなれて‥‥私たちの生の本質と全体性としてのらい、との対決への志向」は、現在も変わることなく、必要であり、「自己につながる病根を摘発することから、私たちは出発するだろう」という「宣言」は、現在なお、いささかも色あせてはいないと思う。」という拙文に対しては、

「滝尾さんのコンセプトで当時の詩を読まれるときそれは、変わらず輝きを持つものだと思います。」というご批評をいただきましたが、しかし、歴史を「現代と過去との対話として語ろう」としている私には、この一節は、とても違和感がありました、ということを述べておきたいと思います。

 歴史家であるE.・H・カーは、「歴史は、現代と過去との対話である」とし、「過去を語りながら、現在が未来へ食い込んで行く、その尖端に私たちを立たせる」という視点にたてば、この批評は私(=滝尾)の本意とは程遠いものを感じたこともまた、事実です。それは、沢田五郎さんのことばを借りれば「ぶざまな生き方はできない」ということでもあるのです。


 座右の書として私の敬愛しる石母田 正先生著『歴史と民族の発見〜歴史学の課題と方法』(1952年3月、東京大学出版会発行)の表紙裏に書いた若いころの書き込みがあります。紹介します。その気持ちは七十七歳になり、病んでいる私の現在でもいささかも変わっていません。

「人間にあってもっとも貴重なもの――それは生命である。それは人間に一度だけあたえられる。あてもなく過ぎた年月だったと胸をいためることのないように、卑しい、そして、くだらない過去だったという恥に身をやくことのないように、この生命を生きぬかなければならぬ。死にのぞんで、全生涯が、そしてすべての力が世界で最も美しいこと――すなわち人類の解放のためのたたかいに、捧げられたと言い得るように、生きなければならぬ。

 このような考えにとらわれて、(パーヴェル)コルチャーギンはなつかしい墓地を去った。」 つづけて、

「わたしは生活というものを形式的に見るようなことはしません。個人関係において、ごくまれには例外を設けることがゆるされると思います。でもそれは、その個人関係が大きな深い感情によって、呼びおこされた場合のことです。あなたは、それにふさわしいひとでした。‥‥パーヴェル、自分自身にあまりきびしい態度をとってはいけません‥‥
 わたくしたちの生活のなかには、たたかいだけがあるのでは、あるのではありません。やさしい感情の喜びもあります。 ― リーダ ― (『鋼鉄はいかに鍛えられたか』)

                    1953年5月3日に

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 今から、55年余前の二十二歳のとき、書き写したものです。昨日、親しい友人からメールで、つぎの五行歌が送られて来ました。「死への準備」をしている私には、示唆の富む五行歌だったので、早速、ご本人の了解を「返信」でもらい、ご紹介します。

血と骨と肉より生(な)れる

永遠(とわ)のいのちは神のものなれば
死の息は
汝に翼をあたえたり



[1777]  「島田 等さんを偲んで」(17回) 神谷美恵子著『新版・人間をみつめて』、朝日選書第17:(1974年8月発刊)より                                                                                                                                                                 投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/09/12(Fri) 20:42  


 「島田 等さんを偲んで」(17回) 神谷美恵子著『新版・人間をみつめて』、朝日選書第17:(1974年8月発刊)より

                     人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                         ‘08年9月12日(金曜日) 22:47


 神谷美恵子『新版・人間をみつめて』(1980年1月6刷・発刊)の記載された中から、島田 等さん著の「臨床における価値の問題知識人のらい参加(その二)神谷美恵子 (『らい』第21号、1973年9月発刊) と関連している箇所を幾箇所か、紹介してみようと思います。


<資料@> ‥‥‥ところが、その後間もなく、結核にかかっていることが発見された。万事休す。家族への感染の問題を考え、ひとりで山へ行くことを願い出て、療養生活を送った。地元の夫妻が階下にいて食事を作ってくれたが、感染を恐れていたから、窓ごしに食事を出してくれるとき、簡単なあいさつを交わす程度の接触しかない。よい薬もない時代で、治るみこみはほとんどない、と主治医の寺尾殿治先生から聞かされていた。二階にじっとねたまま、本台にぶらさげた書を読む日々の心境にはまさに「死への準備」のような面があった。‥‥‥この時にめぐりあった本たちは心の奥底にしみ透り、その後の一生を支えてくれたように思う。

 たとえばマルクス・アウレリウスの『自省録』はそうした本の一つだが、彼の宇宙的視野に立ってみるとき、自分が医者になれるかなれないか、病気が治るか治らないか、などはどうでもいいことにしか思われなくなってくる。地上の一生のことは大いなる摂理にまかせておけばいいのだ、と心から思えっとき、大きな安らぎにつつまれるのであった。(134ページ)。


<資料A> 「人間を越えるもの」

  慈悲となさけと和らぎと愛とに、
  あらゆる者は苦しいとき祈り、
  これらの喜ばしい徳に
  感謝の心をささげる。
    …………………
  慈悲は人の心にやどり
  なさけは人の顔にあらわれ、
  愛はこうごうしい人の姿、
  和らぎは人のまとう着物。

  あらゆる国のあらゆる人の
  くるしい時に祈る神は
  こうごうしい人の姿をもたぬか、
  愛と慈悲となさけと和らぎの。

  人の姿を愛せねばならぬ、
  異教びと トルコびと ユダヤ人も、
  慈悲と愛となさけのすむところ、
  そこに神おわします故。

(W・ブレイク作・土居光知訳「神様の姿」、『世界文学全集』河出書房、一九六九年、一一六ページ)

 右は英国のブレイクの詩である。至高者を思い浮べるとき、人間が普遍的に抱く心をあらわしたものであろう。こうした普遍的宗教心をたいせつにしたい。

 人間はいつの世にも人間を越えるものの存在を考えてきた。自分の有限性はあまりにも明らかであり、そのことを知るだけ、人間のあたまが発達しているからである。そのことは科学が発達するに従ってますますはっきりしてきた。


<資料B> 「島との出会い ― らいの人に」

 しかし、やっぱり、私の「初めての愛」はらい(二字は傍点あり、以下同様=滝尾)であったらしい。その証拠に、卒業の一年前、つまり昭和十八年に、瀬戸内海にある国立療養所長島愛生園に十二日間ほど見学に行っている。その当時の日記の一部が本書の第U部に入れてある。(中略)それとともに、らいの臨床にじかにたずさわって触れた患者さんたちの姿は、以前の、いわばかりそめの、観念的な出会いよりは、はるかに具体的な体験を心にきざみつけた。当時の見学日記に記してある、稚拙な詩を次に載せておこう。

        「らいの人に」

  光うしないたるまなこうつろに
  肢(あし)うしないたるからだになわれて
  診察台(だい)の上にどさりとのせられた人よ
  私はあなたの前にこうべをたれる

  あなたはだまっている
  かすかにほほえんでさえいる
  ああ しかし その沈黙は ほほえみは
  長い戦いの後にかちとられたものだ

  運命とすれすれに生きているあなたよ
  のがれようとて放さぬその鉄の手に
  朝も昼も夜もつかまえられて
  十年、二十年、と生きてきたあなたよ

  なぜ私たちでなくてあなたが?
  あなたは代って下さったのだ
  代って人としてあらゆるものを奪われ
  地獄の責苦(せめく)を悩みぬいて下さったのだ

  ゆるして下さい らいの人よ
  浅く、かろく、生の海の面(おも)に浮びただよい
  そこはかとなく 神だの霊魂だのと
  きこえよいことばをあやつる私たちを

  ことばもなくこうべたれれば
  あなたはただだなっている
  そしていたましくも歪められた面に
  かすかなほほえみさえ浮べている。

 いかにもセンチメンタルで気はずかしいが、当時の愛生園の状況は、たしかに地獄を連想させるものがあった。まだらいの治療法もほとんどなく、戦時中のこととて、二千人余の患者さんたちは栄養失調である上、むりな畑しごとをしなければならなかった。らいは悪化の一路をたどり、ほとんど毎日のように死亡者が出た。 (137〜139ページ)。


<資料C> 「うつわの歌」〜人間がみな「愛へのかわき」を持っていること〜

 「人間を越えるもの」が宇宙全体を支えるものだとすれば、そのものから人間に注がれる「配慮」を、「愛」とか「慈悲」とか人間的なことばで表現するのも、ずいぶんこれを矮小化したことかもしれない。しかし人間はほかにことばを知らないのだ。ということは、ほんとうにはその実体が私たちにはごくおぼろにしかわからない、ということを意味する。その認識能力が、私たちのあたまには、まったくそなわっていないのだ。

 しかし、まぎれもないことは、人間がみな「愛へのかわき」を持っていることである。その大いなる実体がわからないにせよ、人間を越えたものの絶対的な愛を信じることが、このかわきをみたすのに十分であることを、昔から古今東西の多くの偉大な人や無名な人びとが証明してきた。このかわきがみたされてこそ、初めて人間の心はいのちにみたされ、それが外にもあふれ出ずにはおかない。そのことをある人は歌った。題して「うつわの歌」という。

  私はうつわ
  愛をうけるための。
  うつわはまるで腐れ木だ、
  いつこわれるか わからない。

  でも愛はいのちの水
  大いなる泉のものだから。
  あとからあとから湧き出でて
  つきることもない。

  愛は降りつづける
  時には春雨のように
  時には夕立のように
  どの日にもやむことはない。

    ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

  うつわはじきに溢れてしまう
  そしてまわりにこぼれて行く
  こぼれてどこへ行くのだろう。
  ――そんなこと、私は知らない。

  私はうつわ
  愛をうけるための。
  私はただのうつわ、
  いつもうけるだけ。

 これを歌った人は、人の忌みきらう病をわずらい、一般社会から疎外されてもいた。それでもなお、この人には、いきいきしたものがあふれていた。私はそれをこの眼でみたから、うたがうことはできない。
                          (同書 116〜118ページ)


<資料D> 「看護婦 ― 女性の良さはまさにここにある」

 一九五九年七月十九日
 看護婦 ― それもまだうら若く、ほっおりした、未熟なくだもののような看護婦が、あの海千山千の、ふてくされたAを世話する姿。泣いて拒絶する彼女をなだめすかして、一口でも食べさせようとする姿をみて考えた。女性の良さはまさにここにある、と。本能的とでも言いたいようなやさしさ。看護婦の姿に私はいつも感動する。女性の持っている善いものの精髄(エッセンス)がそこに現れていると思う。
                           (同書 214ページ)


<資料E> 「ただの人間、ただの求道者」 神谷美恵子

 ‥‥‥「これは君の宿命だ」とN(夫=滝尾)はおどけたように言った。この理解のありがたさ。こうして皆から自分をむしりとるようにして、けさ早く、いつものように、ひとり出てきた。

  まっくらな道には
  もう春のやわらかい風が流れている。
  その流れに乗って
  べつの世界にすべり出る。
  だれもいない駅に
  ひとり腰かけて光をあび
  闇をみすえている者。
  それは女でもなく男でもない。
  主婦でも教師でも医師でもない。
  ただの人間、ただの求道者
  たえず別の世界にすべり出て
  人間を、人生を、世界を
  もう一度みつめ直そうとする
  一個の人間にすぎないのだ。
                              (同書 231ページ)

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

*予告* 次回の「島田 等さんを偲んで(18回)は、連載 私の履歴書(一二) きき書き しまだ ひとし 「ノ ン」(らいでないらい)を掲載します。らい詩人集団『らい』24号=1979年4月発行に掲載された文章です。長文ですので、何回に分けて掲載します。(滝尾)



[1776] 「島田 等さんを偲んで」(16回) 〜臨床における価値の問題〜 知識人のらい参加(その二)神谷美恵子 (『らい』第21号、1973年9月発刊)より (下); 神谷美恵子著『新版・人間をみつめて』(1974年8月発刊)より;序章 投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/09/11(Thu) 23:03  


 「島田 等さんを偲んで」(16回) 〜臨床における価値の問題〜 知識人のらい参加(その二)神谷美恵子 (『らい』第21号、1973年9月発刊)より (下); 神谷美恵子著『新版・人間をみつめて』(1974年8月発刊)より;序章

               人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                ‘08年9月11日(木曜日) 22:47


 神谷美恵子『新版・人間をみつめて』(1980年1月6刷・発刊)の奥付によると、「神谷美恵子(かみや・えみこ) 1914年、岡山県生まれ。津田英文塾卒。元津田塾大学教授。著書『生きがいについて』ほか。1979年10月、急性心不全のため死去」と書かれてあります。この『新版・人間をみつめて』の1刷発行は1974年8月で、「改訂版へのあとがき」によると、「旧版V部の他の人物論は廃し、そこへ「島日記から」をおさめた。」(258ページ)

 「島日記から」のなかで神谷美恵子さんは、同書の199ページに、<まえがき>として、つぎのように書いています。<「島日記」とは長島愛生園へ行くたびに官舎や舟や汽車の中で小さな手帖に書きつけていた日録のことである。正確には一九五七年四月七日の島滞在の時から書き始めているが、一九五六年半ばごろから島へ行く準備が始まっているので、平生の日記から関係事項だけ拾いあげておこう>と。

 だが、『新版・人間をみつめて』での実際では、一九五六年六月一日から始まり、かなりとびとびにこの「島日記」は記録かされています。最後の日記は、一九七〇年二月十九日で終っています。約60ページの内容です。神谷美恵子さんの「あとがき」によると、<「島日記」は一九七〇年春から夏にかけて渡米したときからぷっつり切れている。しかし仕事は多忙になるばかりだった」と書かれています。「島日記」は、精神科医として長島愛生園にかよい精神科の医療にあたった誠実なひとりの医師の「記録・資料」として、ハンセン病患者の実態・歴史などを知る上で、極めて貴重であると思います。

     ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 本編である臨床における価値の問題〜 知識人のらい参加(その二)神谷美恵子 (『らい』第21号、1973年9月発刊)のつづきから紹介することにします。

 <人間復帰の治療的意味> (しまだ ひとし)

 神谷氏が愛生園で考えさせられ、七年余にわたって書きとめられたことが(註一一)、“生きがい”という形をめぐるものであったことは、らいの医療もまた人間を対象にする行為であることを、この上もなくしめしている。

 らいばかりでなく、一般に慢性的な経過をとる疾病においては、多かれ少なかれ人間関係に痛手をうけることは普通のことである。ことにらいの場合にそれはひどいことは、あらためて例をしめすまでもないであろう。

 らい(発病)のショックというとき、私は人格の形成と表裏して形成されてきた人間関係の崩壊を考える。生きがいということもそれぞれの人々の人間関係を離れては考えられないからである。らいの深刻な恥辱感とか、人間疎外感、罪障感や「家」に対する責任感といわれるものもまた人間関係を前提にしている。

 神谷氏は“同じ条件”の中にいながら、生きがい感をめぐって患者の生き方にみられる大きな」ちがいに関心をもたれたと書かれているが(註一二)、患者のだれもが体験するところの既得の人間関係の崩壊も、その同じ条件の一つにあたるだろう。このような崩壊を永続させるならば、自我そのものの解消をもまねくにちがいない。

  「危機的状況におかれた人間は、……あらゆるエネルギーは自己を防衛することだけ
  に集中して用いられる。したがって自由はうしなわれ、個性は