ハンセン病の闘いの歴史に学びともに考えるBBS
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[2103] 主がおいらと栃尾の邂逅を仕組んだのか。おまえらそろって悔い改めよという意図で 投稿者:ユン 投稿日:2010/03/27(Sat) 22:47  

http://www.geocities.jp/hyuga1951/iken0210.html

色んな過去が四国から流れてきたということでしょう。


[2102] ま、不快なこともあり。相手が名前だけでも名目上の聖職者だから我慢しますが、うむ 投稿者:ユン 投稿日:2010/03/27(Sat) 22:39  

 本日、栃尾さんがいきなりファックスを送りつけ、ここで書いていることは事実無根だという。つまり、おいらが嘘を書いたという。
 で、どうすればいいかというと、発言を消せという。
 ま、なんともいえませんねえ。栃尾さんらがどの修道会に属すかは勝手ですが、彼は誇大な妄想をしている可能性もないではない。彼ら個々人の不徳が四国で神学校建設に失敗し、韓国から法王の代理で、枢機卿が来て、現地事情を調べて、最終的には、パーになった。
 この程度は無学な小生でも知っておりましたが、やけに、栃尾さんの本日の無礼な物言いが、四国で起きたことを想起させました。
 世の中に意外に多いのが、批判に過敏な教会関係者は、イエスを守っているように狡猾に振舞るが、実は、自分の空疎な虚名を守っている場合がほとんど。
 栃尾さんも、相当に悔い改めがいるのかも。



[2101] ルリカケスさん、栃尾神父にちゃんとハンセン病の歴史を教えたほうがいいでしょう。せっかくですから 投稿者:ユン 投稿日:2010/03/26(Fri) 15:09  

たった今 鹿児島教区のえらいさんと談話をしました。栃尾神父がやたらイエズス会を批判する。不思議で仕方がない。フランシスコ会も批判する。自分らの会以外はすべてだめと思っていたら困る気がするので、これからはしばらく新共同体という修道会の動向を観察することにしますが、奄美はパリ外国宣教会、つぎにフランシスコ会。ついに保守の塊の新共同体に棲家になったんでしょうね。
 それも含めて、今回の奄美探訪の成果でしたが、うむ。
 栃尾神父によろしくとお伝えください。
 近々、北風オヤジと不肖・李が悪魔祓いにまいると。


[2100] タリバンも崩壊したし、次は北風教団だな。問題は。 投稿者:ユン 投稿日:2010/03/24(Wed) 21:40  

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%94%B0%E8%80%83

中田と北風オヤジは似ている。いずれも反カトリックという意味においてダニみたいな存在(嘘)。


[2099] 瀬留の善意をインドとアフガニスタンに! 投稿者:ユン 投稿日:2010/03/24(Wed) 12:58  

アフガニスタンに潜伏しているカトリックがいると沖縄で聞きました。正体がばれたら宗教弾圧で殺される。ソ連侵攻前にアフガニスタンには一パーセントがカトリックだったということですし、タリバン政権下でもゼロになっていないだろうと思って、アフガニスタン入りして、現実を見てこようと思っております。
 それでペシャワル会の中村哲氏の本を読んでいると、彼はまずは、らい病の施設を現地で作ったことに始まったようですね。アフガニスタンにも医者はいたのですが、貧者の面倒を見なかった。残酷なものです。日本でも同じ状況だったのかもしれません。その後、中村氏はハンセン病施設だけでなく、灌漑用水も作る。その辺の経緯がわかってきました。

 ルリカケスさん、狭い世界ですね。驚きました。よもやあのあたりにお住まいとは。栃尾神父さまにもよろしくお伝えください。来月10日ごろには栃尾神父などを撮影した紀行文が「聖母の騎士」に出る動きです。お楽しみください。

 それと栃尾神父には小生からもお願いしたいのですが、その号に小生のアフガニスタン行きの支援要請が出ております。小生の顔もさらす形で。
 といいますのは、旅費と宿泊費は自力で集めたのですが、防弾チョッキ、各種予防接種、裏切れない通訳、危機を回避できる運転者がいると、現地で長いテレビ関係者はいうのです。この予算が足りない。さらには懇意にしてきたインドの神父様(本人も身体障害者)が福祉施設を拡充したのはいいのですが、500万円ほど足りない。

http://www.snehabhavanktm.org/
 
 ここの施設です。
 以前120万円程度集めて送ったのですが、まだ不足。日本よりも福祉予算が薄く、ダウン症などに生まれるとまず放置されてしまいますが、その神父さんはがんばっております。
 軍資金集めにも困ってしまい、次号の聖母の騎士誌上でも泣きが入っております。お笑いください。栃尾神父のけつをたたいて、奄美から寄付を集めてくださいとお伝えください(平伏)。
 


[2098] Re:[2096] 愛楽園の教会のこと 投稿者:ルリカケス 投稿日:2010/03/24(Wed) 11:53  

> これから原稿を書く気分になっておりますが、沖縄愛楽園にザビリオ教会を作ったのは、天久佐信氏です。偉大な元患者です。

北風様へ

 ご無沙汰いたしております。板をお借りします。

さてユン様奄美@ルリカケスです。
原稿楽しみにしています。それで、瀬留教会の栃尾泰英神父さんから、少し聞きました。
ユンさんの事を、大分ほめていました。私の自宅と5分弱です。教会と、現在私が本を貸しています。(ハンセン病関係)

 でも自転車で旅行ですか?私たち退所者から見れば、想像できないです。
未だ若いのですか?私は車がなかったら生活出来ないです。
では良い原稿を書いて下さい。


[2096] 愛楽園の教会のこと 投稿者:ユン 投稿日:2010/03/20(Sat) 13:25  

 これから原稿を書く気分になっておりますが、沖縄愛楽園にザビリオ教会を作ったのは、天久佐信氏です。偉大な元患者です。
 ここまでは知られていることですが、彼を信仰に導いたのは、韓国から熊本の待労園に送られていた神父。聖職者がハンセン病だったわけです。流れ流れて、沖縄の施設で信仰を守っていたそうです。天久氏は洗礼を受けたのは、1937年、熊本の施設でした。17歳だったといいます。戦後、故郷である沖縄に戻っております。愛楽園の自治会長も長くしていた方です。
 園内でいただいた「み手に伴われて」(著者 天久佐信 1992年3月一日発行)で知りました。


[2095] Re:[2094] [2093] ユン氏へ再度通告 投稿者:北風 投稿日:2010/03/19(Fri) 07:48  

>
> # 旅の印象を書いただけなのでたらん点もあるでしょうが、「でっちあげ」はあんまりじゃないの?ま、いいけど。
>

かわいそうに泣きが入った。
「聞きかじり 口からでまかせ 奄美・沖縄紀行」こういうタイトルをつけるからいかんのじゃ。常人はともかく、あんたや谷内がつけたら、そういわれる。



[2094] Re:[2093] ユン氏へ再度通告 投稿者:ユン 投稿日:2010/03/18(Thu) 14:08  

> 売文と言うからには、どこの通信社に買ってもらっているのかね?売文をなめたらいかん。
>
> いいかげんな取材で、でっちあげた記事など、まともな通信社なら買うはずがない。まともな記事がどれほどの資料と取材のもとに書かれているか?それも知らんのか?なめるんじゃない!

# 旅の印象を書いただけなのでたらん点もあるでしょうが、「でっちあげ」はあんまりじゃないの?ま、いいけど。

昨日まで都内に営業。アフガニスタンに行きたくて、大手新聞社一つ、メジャー雑誌2つ、キリスト教系雑誌から一つほど仕事を取ってきましたが、問題はアフガニスタンの現地事情。これから雪解けするとタリバンが攻勢に転じ、とくに米軍の撤退後は完全な無政府状態がまた来るだろうということでした。
 若いジャーナリストと行動を共にするかもしれませんが、彼は10万円出して防弾チョッキを買っていた。さらに、肝炎の予防接種も終えていた。こちらも10万円。おいらはその金はないが、命は惜しい。工面できんかったら中止になりそうな気配。困った。取材費が足らんのじゃ。


[2093] ユン氏へ再度通告 投稿者:通信社 投稿日:2010/03/15(Mon) 01:55  

売文と言うからには、どこの通信社に買ってもらっているのかね?売文をなめたらいかん。

いいかげんな取材で、でっちあげた記事など、まともな通信社なら買うはずがない。まともな記事がどれほどの資料と取材のもとに書かれているか?それも知らんのか?なめるんじゃない!


[2092] 人のことはいえませんが 投稿者:ユン 投稿日:2010/03/14(Sun) 22:30  

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E6%89%95%E3%81%84

北風オヤジとおいらには悪魔祓いがいると思えてきたぞ。


[2091] Re:[2062] めでたさも 投稿者:ユン 投稿日:2010/03/14(Sun) 20:45  

>
> ちゅうくらいなり おらが春
>
> 中くらいならまだいいってもんで、なんともな正月です。
> もっとも、夜明け前が最も暗いといいますから、がんばって年を越してみました。
>

## おいらもそうじゃな。娘が一年自宅浪人してやっと今年佐賀大学の医学部に合格。東大は夢の夢だった。
> さてどうなるか。
>


[2089] Re:[2081] なんとまぁ・・・ 投稿者:北風 投稿日:2010/03/14(Sun) 18:35  

> ユン氏の売文とやらは、ひどい文章ですなぁ。
> これが売れるとは思えん。
>
> この原稿を買うのは、どこの通信社かね?
>
>


[2088] 北風オヤジも改心せんのー 売文の流れじゃ、ほれ ハンセン病関係のことは来月以降でてきますが、南海の施設にいけてよかったです 投稿者:ユン 投稿日:2010/03/14(Sun) 12:53  

聞きかじり 口からでまかせ 奄美・沖縄紀行 その1
 
 遠藤周作は長崎を舞台に『沈黙』を生んだが、カトリック文学の南限は五島・長崎ではない。鹿児島教区の中野裕明神父と世間話をしていて、鹿児島の信徒の7割近くが奄美大島出身者と聞き、島尾敏雄の『死の棘』をなぜか思い出した。鹿児島から奄美大島がどの程度は離れているかもよく分からないままだった。沖縄県ではなく鹿児島県に属することも後から意識した。その程度に琉球は心理的に遠かったが、空港を出ると、一月の奄美の風はもう春めいていた。都内よりも気温が10度高い。半そでで歩き回れた。名瀬に向かう空港発の路線バスに乗っていると、ある停車場を見てわが目を疑った。
「光の子」
 そう表示されていた。南米でも南欧でもなく、この日本で。明治時代の宣教が成功して、奄美北部にはカトリックが多く、郡山司教をはじめて多くの聖職者、修道女を輩出した瀬留教会がある流郷町あたりは長崎市内、平戸、五島の割合よりも多いと聞き知っていたが、その瞬間、ついに南海のキリスト教の里に着いたと心底感じ取った。
 人口の6パーセントもいるほど奄美で、なぜ、カトリックが流行したのか。そのことにも少し興味があった。本土と違う点は、まず、仏教も神道も強くなかったこと。地元にノロというアニミズムがあったが、島津藩という支配体制の側に立つ宗教ではなく、先祖崇拝を持つ土着宗教もなかったことも宣教師には幸いした。さらに奄美出身者が長崎や天草にいたフェリエ神父に奄美宣教を申し出た。島津の封建制度の下で、黒砂糖の生産を拠点にされ、平等という理念が新鮮だったこともあるのだろう。1891年に宣教が始まると数年で1100人余が受洗。25年後の大正6年には信徒数5000人を超えたという。戦時中、軍部に睨まれて、カトリック系女子教育機関が閉鎖されたり、教会が破壊されたり、司祭の総引き揚げなどの宗教弾圧もあったが、受難を乗り越えて、現在でも、4500人弱いる。
名瀬に着いてバス停を降りたら、夕闇が迫っていた。
「古田教会はどこでしょうか」
 本土ではカトリックは圧倒的少数派である。奄美の商店のおかみさんに道を尋ねるときも心理的逡巡が働いた。宗教を話題にすると誤解される戦後の空気に吸って育ったからである。幸いにも町内の交番か薬局の場所を教えてくれるような調子で、
「そのままいけばいいですよ。郵便局が見えてきます。そこのまん前です」
 信徒の方なのですか。確認してみたくなるほどその人は平然と答えた。
終戦直後、本土経済から沖縄も含めた琉球が切り離されると、長年、砂糖キビだけに依存してきた奄美大島の生産基盤は崩壊した。当時の島民は餓死寸前になって、天然の蘇鉄まで食していた。絶望的な経済状況のときに、戦前に追放されたカトリック司祭が帰って来た。
「教会に行けば飯が食わせてもらえた」
地元の古老はぼそりと漏らしたが、米国から来たフランシスコ会士から受け取るララ物資などの食料目当てで洗礼を受けた者が相当にいたという。宣教者は食料と引き換えの洗礼を求めることは断じてしなかったが、結果的に、無償の献身に心を打たれて、家族ごと入信した例も少なくない。ある聖職者は、海からしか行けなかった貧しい漁村を道路でつないで、米軍のジープをもらってきて、子供たちを乗せた。島民は無邪気に文明の利器に感動して、教会に顔を出すようになった。
雑な印象に過ぎないが、戦後、奄美大島での宣教はベトナムで反共村を作ったやり方を彷彿とさせた。そのことを地元出身の司祭に触れると、「戦後のばら撒き体質のせいで教会が何かしてくれるところだという意識が強くなりましたが、イエズス会が大村藩から無償で土地をもらい、長崎という街をゼロから作ったころのカトリック信徒にとってのキリスト教とは何だったかを想像すればいい。奄美の戦後と同じだったはずです」。
人口4万人少々の名瀬はのどかな町である。工場の煙突が見えない。空は青く澄んでいる。人の笑顔も自然。戦後、フランシスコ会とサレジオ会が福祉を宣教の出発点にしたからか、福祉施設が多い。その一つである白百合の寮を訪問すると、広い校庭で20人ほどの子供たちが走り回っていた。この施設に 元患者のお子さんも収容できるようになったのはパトリック神父らがいたからである。昭和30年ごろ、この地にあったハンセン病施設で堕胎と元患者にたいする断種が横行していることに異を唱えて、元患者の間に生まれた子供を引き取り、幼児用の施設も作っている。まさに「奄美の福祉の父」にふさわしい聖職者だった。
 奄美に戻ってきた小説家の島尾敏雄はこのポーランド系アメリカ人司祭に出会った。そして、妻との移転の翌年の1956年に、聖心(みこころ)教会で受洗。霊名ペトロ。地元のノロの系譜だった奥様の親戚の勧めだったという。
1660年4月、カトリック入信後の4年後に『死の棘』の第一話『離脱』を脱稿している。その後12回に分けて書かれて17年後の1776年に完成させた。
物語のあらすじは次の通りである。1950年代の東京・小岩で文学修行にいそしむ若き日の島尾が不倫を犯す。10年以上も妻に隠していた関係だった。夫の日記をたまたま覗いて、妻は発狂する。精神障害がひどくなると夫の頬をぶった。頬をぶたせる。愛人の写真のありかを問い詰めて、一晩中うめいた。同人誌の用事で夫の元に立ち寄った愛人と鉢合わせになると、暴行を加えて、警察沙汰になった。その結果、作中の妻は次のような激しい呪詛を夫に口にする。
「じぶんの小ささを知らないで、あなたのきたない生活を文学的探求のつもりがきいてあきれるじゃない。うすよごれたことばかり精密描写をしているだけでしょ。だからいつまでもうだつがあがらないわけだわ」
妄想と欝にさいなまれて、妻は、二人の子供の世話も十分にできない状態になる。小岩にあった小さな家を売り、妻の故郷があった奄美大島に転地療法のためにも戻ろうとするが、妻は精神病院に強制入院。島尾も傍にいるために入院する場面で終わる。
17年かけて完成させたこの一作は、1954年9月末から1955年の9月間の描いた狂気の日々は描いた。妻の内的崩壊を描いた表現手法は私小説。世間的には島尾はキリスト文学を書かなかったし、書く資質もなかったとされているが、私小説という容赦なき自己暴露を行うことで、『死の棘』を、彼自身の『告白録』にしたかったのかもしれない。自伝的小説を書くという行為を通じて、世界に己の悪徳をすべて晒したという意味では、島尾は正統なカトリック作家ではないのか。
ちなみに、死の棘という題名は、「死の棘は罪であり、罪の力は律法である」(第一コリント一五章五五節)に由来する。パウロがコリント人に肉体の復活を説く場面にある言葉だが、島尾は一度死に、洗礼を受けて、過去の悪を描ききることで再生を果したのか。
奄美図書館にある島尾敏雄資料室の画像資料に興味深い証言が残っている。話者は将校当時の島尾を知る老女。彼女は強調する。「日本軍は琉球の人間を信用していなかった。間諜扱いしていましたが、島尾隊長は例外でした」
資料は美談の補強材料として置かれていた。島尾は、戦中、日本軍の特攻隊長としても、奄美南部にいた。場所は加計呂麻島。島影からベニヤ板で作った人間爆弾艇の出撃基地だった。奄美生まれのミホ夫人とすでに恋仲にあった島尾には、特攻出撃命令を出せなかった。
夫人を連れて、上京してからは、50年代の東京で、定番の女性問題を抱え込むが、遅れてきた破滅型の文士を気取るには、誠実すぎた。作家になったのは、皮肉にも、妻の故郷である奄美に都落ちして、カトリック入信後の4年後。1960年に代表作『死の棘』の第一部の初稿が完成した瞬間だった。そして、妻の狂気との確執を描き終えて、内的成熟に達したように、1966年に、戦前の加計呂麻島での特攻体験を描いた『出発は遂に訪れず』を脱稿している。不倫という大罪を犯し、愛妻を絶望の淵に沈めたことへの回心が職業作家への道を歩ませたと思う。
 たしかなことは、若き日の島尾が、ジェローム神父を通じて、米政府の文化広報センターを前身とした奄美初の図書館館長の席を得て、文士としての生活基盤を固め、精神障害に苛まれたミホ夫人を癒す場にもなったのが奄美の信仰共同体だった。

聞きかじり 口からでまかせ 奄美・沖縄紀行 その2

 奄美の一月の陽光は無尽蔵だった。自転車に乗って、名瀬の市街地を抜けだす。5キロもしないうちに、海岸線の急坂が続く。急坂を下りると、蒼い海。小さな漁村が南海の海岸に張り付いていた。海原を右に見ながら進み続けると、海岸に小さな集落が待っていた。平凡な風景だったが、カトリック信徒の墓が堂々と立っていた。
 墓地内には仏式の墓石の方が多かったが、十字架をつけた墓石も目についた。亜熱帯の入り口に位置する奄美の自然は、霊園も湿っぽくさせない。南欧の雰囲気さえあった。墓石の白い表面をのぞくと、パウロやマリアなどの霊名が刻まれていたが、湿度の高い海風にも侵食されていなかった。本土では一度もまだ目にしていない光景だった。その刹那、かりそめの巡礼者であることを自覚して、埋葬された未知の信徒にも短く祈った。
 海岸を25キロほど進んだだろうか。一月末だったが、桜が咲いていた。樹木の緑が濃い。秋名と記した道しるべが道路わきに出た。龍郷町秋名地区周辺はアニミズムの地である。巫女はノロと呼ばれる。霊媒師と想えばいいのだろう。琉球王朝時代のノロ制度が導入された奄美では、現在も残るわずかなノロを中心に、来訪神ニライカナイを迎える豊穣祈願などが行われている。秋名地区では大漁を願い、浜辺で祈祷をささげる風習「平瀬マンカイ」が残り、祖霊を迎える旧暦8月中旬の三日間のお盆祭りにも、ノロが祭祀を取り仕切ると聞いた。
 壮年の男性が歩いていた。奄美ならば大丈夫だろう。ここにはカトリックの地。都会のようにキリスト教の教会といってモルモン教の教会を案内される喜劇も起きない。キリスト教の教会はどこですかと直裁に尋ねると「そこそこ。そこから左」と即座に指差す。その向こうに低い家屋の集落が見える。そのまま進むと、路上に鶏が10羽ほど放し飼いにされていた。本土ではない暢気な雰囲気に心が和んだ。300メートルもペダルを踏んだろうか。道が狭くなる。自動車一台程度しか往来できないような幅になる。数軒しかない集落の真ん中に来る。小さな公民館規模の教会が地道の脇に立っていた。
 秋名教会だった。聖マタイを冠した木造の教会である。庭もない窮屈な造りが逆に目新しい。
大きな猫が教会の掲示板の上で寝そべっていた。掲示板には格言がこう記されている。
― 一生の終わりに残るものは、我々が集めたものではなく、与えたものだ。
 まもなく、実直そうな大きな目をした40代の男性が子供さんと教会裏から出てきた。嘉尚文さんと名乗り、伝承された戦中の記憶も親切に語ってくれた。
 嘉さんによれば、殉教者は出なかったが、奄美でも、戦時中、宗教弾圧は起きた。軍部は琉球と呼ばれた奄美・沖縄にいた宣教師の総引き揚げを命じた。その後、宣教団が戻ってくる1947年まで、嘉さんの先祖は信仰を守り通した。「ここの教会は壊されました。軍人が『外国の宗教はまかりならん』と言い出して。この先の大熊教会は放火されました」
 別れ際に、消防署に勤める嘉さんは、信仰の系譜を静かに語り、「私でもう三代目です」。秋名地区の人口は500人程度。そのうち20人が信徒だと明かした。
夕暮れが近い。秋名の集落を出て、県道に戻り、数キロ行くと右手に碑が見えた。
 地名が嘉渡と刻まれていた。
 嘉渡の世帯数は110軒程度。総人口は230人程度。一家に二人少々。過疎の集落だった。昭和20年4月にこの嘉渡も米軍の空爆を受けている。南方風の高床式倉庫がここにはあったが、火に包まれた。碑は消火活動をした住民の勇気をたたえたものだった。
 この嘉渡にも巡回教会があった。
― 教会の傍の道を行くのよ。二軒目が信徒代表の家ですよ。
 通りかかった品がいいご婦人に教えてもらったが、信徒だったのかもしれない。
 教会から15メートル離れた古い日本家屋の玄関を開けると、大柄なご夫婦が居間にいた。和風の家の室内には大きなマリアの絵と十字架が掛かっていた。
 今年81歳になる松元平蔵さんはもともとノンクリスチャン。奥さんの家が代々のカトリックだった。しかも伝道師を出すような熱心な信徒だった。それで、昭和31年、結婚のときにフランシスコ会のイシュべス神父に洗礼を授けてもらった。
 嘉渡地区の世帯数は110軒。そのうち、定期的に教会に来る信徒の家は6軒程度。洗礼を受けてそれきり教会には来ない家が多い。松元さんはそう残念がった。
 海岸沿いに県道があり、今は名瀬まで完全に舗装されているが、戦時中、ペトロ丸という船を使って、聖職者は集落の入り江に巡回した時代があった。ところが軍部はカトリックの司祭が海上を行くことを嫌い、宣教師の船を接収した。同じころ、教会の鐘も姿を消した。戦後も10年近く、フランシスコ会士は、墓渡から隣町の瀬留までは山中の峠道を徒歩で行くしかなかったと松元さんは回顧する。「畑で仕事をしていて、イシュべス神父の姿を見て内心感動したことも洗礼を受けた理由でしたね」。山道の道は片道8キロもあった。
若いころの松元さんは大島紬の職人だった。1986年から3年間、ロサンジェルスで日本食レストランを開店させていた息子さんとお嬢さんの手助けに奥さんと渡米した。そんなある日、教皇ヨハネ・パウロ二世の訪米パレードをまじかから目撃した。三車線の広い道路の沿道に何十万単位の信徒が総立ちし、
「ビバ・パパ」
 カリフォルニアの青い空の下で、そう連呼していた。今も松元さんはその瞬間を鮮明に思い出す。
 戦後、教会の鐘は戻っていた。長崎の里脇司教から寄贈された鐘が嘉渡教会に今はある。奥さんメリ子さんは朝6時、正午、夕方6時と一日三回鐘を鳴らす。
 この地は亜熱帯に近い。嘉渡から数キロ行くと直感できる。海岸線から見える山林はソテツが見えてくる。安木屋場という集落が出くわす。教会を撮影していると半世紀前のフランシスコ会士との交流を覚えている濱田康博さん(69)と出会った。戦後しばらく島民は飢えていた。餓死の可能性もあった。濱田さんはつい昨日のことのように「いよいよ何も食べるものがないとソテツを食べていました。お粥に混ぜるんですが、赤くなってまずくてね。教会に行くと食べ物を分け与えてくれました」。
 安木屋場の人口は160人程度。内40人以上が信徒である。この地は神学生、修道女志願者が多く生んだ。「5人ほど長崎の神学校にいったようですが、神父様になれたのはゼロ。修道女になろうとしたのは三人でしたかね、残れたのは一人だけです。東京にいるシスター伊集院だけだったはずです。厳しい世界ですよ」と濱田さんはしみじみとつぶやく。
 安木屋場教会のドアを開けるとかすかなかび臭さが広がった。小さな聖堂は静まり返っていた。建物も改修していなかったが、先人の吐息が聞こえるような荘厳さを感じた。入り口の机にパトリック神父らの写真を載せた古い資料集が置いていた。
 濱田さんは、海原の方向を見やりながら、昭和16年、戦時中に幼児洗礼を受けて以来、信仰を守ってきたと微笑して、「もう三代目です。私の信仰は弱いのですが、カトリックとして生きて行きます」と謙遜した。
 ― 瀬留カトリック教会献堂100周年記念誌
 そう題されたアルバムが手元にある。表紙は奄美の無限の陽光を浴びるソテツと蒼い海原の写真。撮影者は、作家・島尾敏雄の長男の信三氏。在京のプロ写真家である。
アルバムを開くと、祝辞はまず郡山健次郎司教が述べていた。郡山司教の父親はこの町の医師であり、戦後、この教会を支えた中心人物だった。無料医療を各集落で行ったという。
 瀬留カトリック教会の司祭館は、明治41年頃の建築で昭和62年に改修され、木造の2階建てで、有形文化財である。北側は寄せ棟造り。南側の入母屋には切り妻作りの玄関。重みがある凝った造りだった。到着の小一時間前にやっと連絡がついたばかりだったが、栃尾泰英神父の暖かい歓待を受けた。四国から赴任して数ヶ月という栃尾神父は照れながら、「100年前の屋久杉で出来ていまして、この前もJALの広報誌で取り上げられました」 
 午後7時から栃尾泰英神父の御ミサに預った。信徒の方々の挙措は敬虔そのものだった。みな普段着に近い姿だった。生活者の教会だった。僭越だったが、レンズの向こうの信徒の方々の真摯な祈りを見つめながら、この教会が鹿児島県全域に対する布教地になったことも納得し、まだ日本宣教は始まったばかりだと思いなおして、楽観的にもなった。この教会を遺したブイジュ神父は、1868年にフランスで生まれ、奄美の地で帰天している。享年54歳。奄美に骨を埋めた唯一のフランス人司祭だった。19年かけて、建堂した。
爾来、一世紀も過ぎた。今年も瀬留では命日の7月12日には「ブイジュ祭」がある。
御ミサを終えると那覇行きのフェリーが出るまで45分。栃尾泰英神父のご好意で名瀬港まで教会の自動車に自転車ごと積んで見送ってもらうことにした。奄美自転車巡礼は瀬留で終わりにした。明朝には300キロ南下している。気温がさらに5度上がる。
 いよいよ沖縄だった。




[2086] 沖縄の施設のこと 投稿者:ユン 投稿日:2010/03/11(Thu) 20:36  

 しばらく北風オヤジの陰謀で、アクセス停止になっておりましたが、うむ。
 沖縄の施設でカトリックの教会を作る推進力になった信徒の方の本を読んでおります。彼の名は誰でもしっているでしょうが、偉い人です。
 ルリカケスさん、北風オヤジを相手にするのは面倒かもしれませんが、愛を持って忍耐でやりましょうぞ。



[2085] なぜか、削除されているので再掲。 投稿者:北風 投稿日:2010/02/24(Wed) 10:24  

半年前の記事です。コメントを追加しました。

Sent: Monday, July 27, 2009 9:41 AM
Subject: [shutoken:0182] 朝日新聞記事の問題性。

昨日(7月26日)の朝日新聞の2面だったかで、「冤罪」を防ぐために取調べ過程をビデオで取るなどの「取調べの可視化」についての記事があった。
その中で、検察庁の公判部長とか言う人物が可視化に反対して、要旨次のようなことを言っている。(手元に掲載紙が無いので記憶で書いているが、昨日のことなのでそう間違いは無いだろう)

かつて、極刑に値するような重要事件の被疑者の取調べに当たった。
黙秘していた被疑者だが、取調官が自分の生い立ちを語るなど被疑者と親身に接した結果、被疑者も自分のことを語り始め、幼少のころ母親に捨てられたことで世をすね、それが犯罪の遠因だったようだった。
それで、母親はそのころ「重篤」な病気にかかり、それが知れると「村八分」にされかねないので、後ろ髪をひかれる思いで幼子を置いて家を出たことを教えた。
被疑者は泣き崩れて、その後自供に転じた。調書には、被疑者の要望でそのことは触れず、裁判でも取り上げられることは無かった。

そういうことが可視化によって不可能になるので、可視化には反対ということであった。

病名は書いてないが、病気にかかった結果「村八分」を恐れて出奔しなければならないような病気は、ほかに無い。【明らかにハンセン病を匂わせている。】

その被疑者自体が「予防法」の犠牲者の一人といえなくも無い。法務官僚であれば「予防法」のもたらした「犯罪性」に自覚があってしかるべきだがまったくその気配は無いどころか、いたずらに興味本位の事例として挙げただけで、まったく不適切といわざるをえない。【法務官僚の人権意識については、一連の「小沢問題」で、もっと根深い病巣を抱えていることを実感した】

取調べの手法としては、「飴と鞭」の「飴」に過ぎず、「大岡越前」以来の古典的手法でまさにその手法が、冤罪事件を作り出してきた自覚も無い。【自覚はおろか、冤罪を積極的に製造している】

また事実であれば、情状酌量の要件になるはずなのに、被疑者の「要望」を理由に(当然、その意味もわかっていよう)被疑者の有利な材料を握りつぶしている。【これも、今となっては当然のことか】

これらの問題をはらんだ発言が、発言者はともかく新聞記者も問題と感じず、紙面に現れている。【同じ穴の狢】




[2084] Re:[2083] 良く解らない! 投稿者:北風 投稿日:2010/02/17(Wed) 12:33  


> 北風さんお知り合いですか?

カトリックの不良在日朝鮮人です(笑)。
ハンセン病にも関心があって、奄美と沖縄の療養所をたずねたようですね。

無作法ですが悪いやつではありません。
ただし場所柄をわきまえないので、うるさいです。
係わり合いにならないほうがいいでしょう。







[2083] 良く解らない! 投稿者:ルリカケス 投稿日:2010/02/17(Wed) 12:18  

ユン氏の事が良く解らない!

北風さんお知り合いですか?


[2082] この掲示板のウォッチャーも。 投稿者:北風 投稿日:2010/02/17(Wed) 09:02  


変なのが現れて戸惑っているだろう。

「ユン」君は「トンビ」と並ぶ著名な掲示板難民です。




[2081] なんとまぁ・・・ 投稿者:通信社 投稿日:2010/02/17(Wed) 01:27  

ユン氏の売文とやらは、ひどい文章ですなぁ。
これが売れるとは思えん。

この原稿を買うのは、どこの通信社かね?




[2080] ほれ、これも売文。こちらは奄美。奄美はカトリックが全国平均の6倍。異様に宣教が成功しておりましたがうむ 投稿者:ユン 投稿日:2010/02/16(Tue) 20:55  

奄美の福祉の父・ジェローム神父の夢を今も追う
シスター・大水スエ子 白百合の寮施設長
平奈々恵 白百合の寮保育士

リード 奄美の福祉の父。そう呼ばれたジェローム神父がいた。当時、ハンセン氏病施設で堕胎が横行していた。断種も合法だった。コンベンツアル会のジェローム神父はハンセン氏病が伝染病という偏見に屈さずに、元患者のご夫婦の子供がある年齢に達すると白百合の寮が引取り、他の子供たちと育て上げた。
本文 「カトリックの教えは堕胎を許しません」。鹿児島県奄美市名瀬の児童養護施設・カリタスの園「白百合の寮」のシスター・大水スエ子施設長(#)は、施設内にいた元患者の子供さんたちに対する神学的根拠をさらりと述べる。「家庭に恵まれなかった子供さん、貧しい老人など社会的に弱い人のために働くことが私たちの使命です」 
大水シスターの生まれは長崎県平戸市。父親は五島の出。母親は黒島の隠れキリシタン。教会に回ってきたシスターにスカウトされて、修練者となる。召命は中学三年の二学期だった。奄美の地に赴任してきたのは4年前。現在は78定員に76人の0歳児から18歳までの子供たちの霊的母になっている。
カリタス園の前身は、イタリアから来たアントニオ・カヴォリ神父とヴィンチェンツォ・チマッティ神父ら9名のサレジオ会宣教師団が、作った老人や子どもたちのための総合福祉施設「救護院」である。1937年、宮崎にアントニオ・カヴォリ神父が作った宮崎カリタス修道女会にいる日本人シスターの数は500人少々。韓国、ドイツ、イタリア、ブラジル、ボリビアなど世界各地に日本人シスターは派遣されている。昨年、11月にはイエスのカリタス修道女会と改名。二年前に本部がローマに移転された。
近代医学はハンセン病を克服した。しかし、愛の不在は永遠に残るのか。シスター大水は施設内にいる子供さんたちを生んだ社会背景をこう説明する。「いろんな形で入所するようになっておりますが、最近、とくに目につくのが児童虐待です。現代の歪みがそこにあります」。母親が虐待する例もある。必ずしも家の貧困とは関係なく、親御さんが精神疾患に罹り、子育てができなくなった悲劇もある。人情あふれる奄美人の土地柄か、入所者は奄美高校、奄美工業、奄美北高校などに進学し、卒業後、県外各地での就職探しにそれほど苦労はしていないという。「九電工に入社して博多にいった子もいますし、調理師になりたいという夢を持って地元の専門学校に通う子もいます」
 大水シスターの修道会でも召命者が減っている。その結果、修道会に入っても、途中挫折する修練者の割合が高くなった。大水シスターは高齢化した日本の宣教者の実態を分析するが、信徒スタッフの協力も得て、ドン・ボスコの教えを奄美大島の地で実践する。
 その一人が敬虔なカトリック家庭で育てられた平奈々恵さん(33)である。名瀬生まれの六人兄弟の一人。平さんの担当は、20人程度の小学生高学年と中学生。仕事と結婚したのですか。少し意地悪な質問も明るい笑顔で交わす平さんの協力も得て、その他の全職員とともに、奄美の地の塩たらんとするシスター・大水スエ子のご献身は多くの祈りに支えられて続く。





[2077] 国からもらったお金をインドの孤児院に送ってもいいらしいが 投稿者:ユン 投稿日:2010/02/16(Tue) 12:02  

ところで、カトリック関係者が国賠に参加したケースはほんとど聞かない。南方の某地で元患者の本音を聞くと、「賠償金が有意義につかえるのならば、請求したい」という。あれはどうすれば、請求できるんだろうか。弁護士を通さないと無理なんだろうか。いい弁護にお願いする気はあるみたいですが、南方は弁護士が少ない。さらに意外に高いらしい。1200万円で経費を含めて300万円以上持っていた例も関東ではあったというが、本当なんだろうか?



[2076] 売文の流れだが、北風オヤジと李はいつになったら改心するのか 投稿者:ユン 投稿日:2010/02/13(Sat) 20:54  

沖縄から人類愛を訴え続ける師弟 
ラサール・パーソンズ司祭 久保田富雄助祭
ラサール神父がカプチン会の司祭として来日したころ、沖縄中部の普天間近くの地上は、サンゴの破片だらけで真っ白だった。米軍の艦砲射撃の爪あとだった。その日から半世紀が過ぎ、沖縄の弟子は終身助祭になった。


「安い不定期便に乗り、ニューヨークを出て、サンフランシスコに降りましてね。そこで遅れて深夜に離陸し、ハワイなどを経由して沖縄にたどり着いたのは1958年の9月でした」。
太平洋を越えた日を懐かしむラサール・パーソンズ神父(79)は、広島・長崎への原爆投下こそが米軍の人道に対する罪という。出自はアイルランド系アメリカ人。アイルランドの文化をアメリカで生きた実体験からも、日本国と沖縄人の関係を理解してきた。「アイルランド系は皮肉屋が多い。同じように沖縄人はヤマトンチュ−(本土の人々)とは違います」。20万人以上の死者を出した沖縄戦が終結すると、沖縄には残ったカトリックは二家族だけ。ニューヨークの教会で沖縄に寄付を募った。信徒の中に沖縄戦参加者がいた。その信徒から戦争体験を聞かされた。首里に突入した瞬間、路上に倒れた沖縄人の老婆の死体が見えた。電信柱に張り尽く日本人狙撃兵を発見。即座に射殺したと事もなげにいったという。「仲間の死はショックでしたが、敵の死はなんともない。日本兵の心理も同じでした。それが戦争です。戦争だけはしてはいけません」
ラサール神父の語り口は、英語を教えていた琉球大学の学生を魅了し、カト研参加者を増やした。カトリック学生寮の名物舎監でもあった。信仰を見失った者への助言は「信仰は今日から始まります」。
久保田富雄助祭(69)は、琉球大学で英語学を専攻。公教要理を学び、ラサール神父から受洗。大学卒業後、ミズーリ州のイエズス会系セントルイス大学で教育学を専攻した。米国政府の奨学金は毎月300ドル。節約し、100ドルで生活し、フィアンセを呼び寄せ、すぐに結婚。そして二人とも修士号をとった。1972年に二人は帰国。38年間の教員生活をした後、押川司教と全司祭の教えを受けた。福岡の大神学校でも講義に出た。熊本のフランコ神父、大司教になる以前の高見神父からも霊的指導を授かった。2002年2月21日に終身助祭になった。
奥さんは今、沖縄カトリック小学校の校長をしている。「子供は5人います。4人は医者になりましたが、3番目の子は知恵遅れです」。自然体でご家族のハンディを語る久保田助祭のモットーは「信徒の喜びになる助祭になること」。 
愛と平和。ラサール神父と久保田助祭は、憲法9条とカトリシズムの理念で結ばれている。グアムで日本兵に拘束され、神戸の外人収容所に移送されながらも、戦後、沖縄各地に教会を建てたレイ初代那覇教区司教の宣教者魂を両師はたたえる。




[2075] 施設の写真ですが 投稿者:ユン  投稿日:2010/02/12(Fri) 14:51  

http://album.yahoo.co.jp/photos/my/

このアルバムの中の「教会荒らし」と題したものの8ページか7ページに施設の中の元患者さんと教会が写っておりますが、ほかの写真もお楽しみあれ。


[2074] ま、北風親父の取調べには可視化はいらんが、 投稿者:ユン  投稿日:2010/02/12(Fri) 14:45  

 北風サイトからアクセス禁止になり、その後、日本各地を転々としておりました。自転車に乗って。わはははははは。
 奄美と沖縄で教会荒らしをしてきてきましたが、それぞれの島にハンセン病元患者の施設がありました。いずれも訪問しました。
 沖縄の場合は、アメリカの医者がハワイで教派別に根が深いいさかいになるケースを目撃して、施設内には独立したカトリック教会を長い間作らせなかったそうです。
 この医者はたぶんユダヤ系。ナチスから逃げてアメリカに亡命。戦後、沖縄に赴任。それなりに知恵者だったと思いますが、最終的には、元患者のリーダーが出て、園内で相当多く信徒を作ったそうです。
 教会の中で信徒の元患者の皆さんと少し対談。みないい人でした。すべての苦を経験した光の人でした。
 ま、北風オヤジも次は南方はどうじゃ?宿と飯は教会が面倒を見るように現地でおいらが頼んでもいいが、酒も自腹じゃな。本も売れよ、バンバン。


[2072] 以前、取調の可視化に反対する。 投稿者:北風 投稿日:2010/02/06(Sat) 20:11  

以前、取調の可視化に反対する、検察の公判部長(?)だかの談話に関し、その人権意識と批判もなしに紙面に登場させるマスコミの人権意識に対し疑問を呈したが、この間の小沢と検察の問題を見ていて、腑に落ちた。

記事の概要は、以前、極刑に相当するような重要事件を担当した。その被疑者は頑として否認していたが、検察官が親身に対応した結果、雑談に応じるようになった。彼が拗ねて悪の道に足を踏み入れたのは、幼少時に母親が彼を捨てて家を出てしまった事が原因のようだった。調査の結果、母親はそのころ重篤な病気にかかりそのことが知れると、家族までが村八分になる。それで母親は、幼い彼を残して後ろ髪を引かれる思いで泣く泣く家を出た。
そのことを被疑者に話すと泣き伏して、一転自供に転じた。取り調べが可視化かされるとこのようなことが不可能になる。したがって反対だということだった。

「世間」に知れると村八分になる重篤な病というと、ハンセン病を匂わせているのだろう。ハンセン病に対するこの検事の認識については措くとしても、可視化反対の事例に持ち出すのはきわめて不適切であるし、新聞も無批判に掲載すべきではなかろう。

しかし、今回の特高まがいの異常な捜査と、戦前を思わせる大本営発表の垂れ流しを目の当たりにすると、検察の人権意識の欠陥とマスコミの検察迎合は、まさに構造的であって、これはその一例に過ぎないことがよくわかった。この国の検察とマスコミには、人権意識の欠落はおろかさらに深い病巣を抱えている。
やはり、あの時点で誰からもどこからも問題にする声が上がらなかったことに、事態の深刻さを感じる。市民学会も弁護団もそのほか「関係者」は、何も問題を感じなかったのだろうか。

何気ない事実からも、注意深く観察すれば本質が見える一例だったんだな。やはり。





[2071] というよりも 投稿者:ET 投稿日:2010/02/01(Mon) 09:50  

>また、希少難病の会との問題の総括抜きに、保育園誘致といっても「共感」しにくい。

というよりも;
どこかの時点から、経済闘争でやってきた「運動」のあり様の、総括抜きには、といったほうがよくない?


[2070] Re:[2068] こういうことは。 投稿者:ルリカケス 投稿日:2010/01/31(Sun) 22:57  


> 「基本法」制定時に想定できなかったのか?
> 市民や当事者による議論も、国会での審議も抜きに大急ぎで形ばかりをつけたツケが回ってきたような気がする

全く同感です。

それにマスコミも責任あるのでは、ないでしょうか?
今回の和光園の記事で、新聞社2社に抗議致しました。

すこしまともな記事を書きなさいと?何も調べないで、上面で書いてもらったら、困ります。

で!改めて、ハンセン病基本法て何ですか?予算もついてないし、理解できないです。


[2068] こういうことは。 投稿者:北風 投稿日:2010/01/31(Sun) 10:53  


「基本法」制定時に想定できなかったのか?
市民や当事者による議論も、国会での審議も抜きに大急ぎで形ばかりをつけたツケが回ってきたような気がする。

また、希少難病の会との問題の総括抜きに、保育園誘致といっても「共感」しにくい。




[2067] 追伸 投稿者:ET 投稿日:2010/01/28(Thu) 20:10  

↓の投稿、本文なしになってごめんなさい。(勝手にお手手が「投稿する」を押してしまった!)

ルリカケスさんの掲示板
http://6322.teacup.com/takaamami/bbs

1春28日投稿記事に、多磨全生園の保育園誘致へ取り組みに関する記事。


[2066] 敷地無償貸与訴え 投稿者:ET 投稿日:2010/01/28(Thu) 20:03  

ルリカケスさんの掲示板


[2064] 納骨 投稿者:北風 投稿日:2010/01/12(Tue) 16:06  


1993年夏の村松武司の死から、17年あまりたった。
昨日、夫人の納骨を八柱霊園で済ませた。
一人息子のSと話して、村松の資料を3年間預かることにした。
無駄になるかもしれないという条件付である。



[2063] 無題 投稿者:ET 投稿日:2010/01/07(Thu) 09:06  

http://www.hansen-dis.jp/tayori/pdf/no66.pdf
「資料館だより」第66号より;

「ハンセン病政策と資料保存 日本とノルウェーのシンポジウム」
【会場】国立ハンセン病資料館映像ホール
【日時】2010年1月21日(木)13:00-16:30
参加費:無料、150名まで


[2062] めでたさも 投稿者:北風 投稿日:2010/01/04(Mon) 17:25  


ちゅうくらいなり おらが春

中くらいならまだいいってもんで、なんともな正月です。
もっとも、夜明け前が最も暗いといいますから、がんばって年を越してみました。

さてどうなるか。



[2061] 無題 投稿者:ET 投稿日:2010/01/03(Sun) 21:54  

>「暗黒の60年、グレーゾーンの30年、
>わずかに明るい光が見えた10年」
>多磨全生園創立100周年記念式典

↑は、「首都圏市民の会」サイトからの引用。タイトルは、入所者の言葉からつけたものだそうです。

当事者自身は“闘いの100年”とは言っておられない。人によって捉え方、感じ方は異なるにしても、[2049]に紹介されている記事にみえる市民学会の言い方とかなり違っていることは確か。

善意が、ときに喜劇的な役回りをすることがある。
バタイユ『純然たる幸福』「訳者あとがき」(酒井健)にこんなことが書いてあったよ。
「運動状態の道徳においては、善と悪は抗争しているだけではなく、互いに連絡し合ってあいてを生育させてもいるということである。「エロティシズムの逆説」にあるように、善は善であることを裏切って悪の手助けをし、悪は悪であることに背いて善の意識の増大に貢献している。バタイユにあって善と悪は、悲劇的な戦闘関係にあると同時に喜劇的な共犯関係にもある。」

「エロティシズム」とか「バタイユにあって」という語を除いても、十分に参考になりそうな気がするのだけど…



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