ハンセン病の闘いの歴史に学びともに考えるBBS
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[1864] 無題 投稿者:夕焼け 投稿日:2008/11/26(Wed) 12:06  

田母神前空幕長の論文が、以下で読めます・・・

http://www.apa.co.jp/book_report/index.html


[1863]  島田 等さんを偲ぶ(最終回のその1): 慰霊の古寺巡礼;第三日目; 奈良の般若寺、北山十八間戸などを訪ねて                                                                                                                                                            (滝尾) 投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/11/22(Sat) 21:30  


島田 等さんを偲ぶ(最終回のその1)慰霊の古寺巡礼;第三日目(10月21日)奈良の般若寺、北山十八間戸などを訪ねて

             人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二 ‘28年 11月22日(土曜日)21:15


 島田 等さんは、一九九一年三月の末に奈良市内の、ハンセン病に関係のある「旧跡、寺社」を廻っている。その紀行文を『愛生』一九九一年十月号に掲載されている。亡くなる四年前で、六十五歳の春であった。島田 等遺稿集『花』に、採録されている(76〜89ページ)ので、多くの方がすでにお読みになられていると思う。その冒頭の部分を紹介したい。

 「北山・西山紀行」「史料を集めながら、まだ一度もたずねたことのなかった奈良市内の、ハンセン病に関係のある旧跡、寺社を、彼岸過ぎの三月の末に廻ることができた。大和文華館の庭の雪柳は、まだ盛りとはいえず、長島とあまりちがわないようであった。

 奈良に着いて二日目、案内の松浦武夫さん(福祉施設勤務)は、自分も興味うぃおもって時折出かけているということで、一日を要領よく案内していただいた。この日廻れたのは旧西山光明院跡、般若寺、奈良豆比古(ならつひこ)神社、北山十八間戸、県立奈良図書館郷土室、法華寺、西大寺である。(島田 等遺稿集『花』76ページより)。


 この度の「島田 等さんを偲ぶ慰霊の古寺巡礼;第三日目(10月21日)」は、 奈良の般若寺、北山十八間戸などを訪ねることである。さらにいえば、2009年10月17日に創業100周年を迎える「奈良ホテル」に宿泊することであった。

 奈良ホテルは奈良公園内にあり、「明治42年(1909年)、関西の迎賓館として誕生し、明治、大正の趣は、創業当初の華やぎを今もなお受け継いだ」著名なホテルに生涯に一度は贅沢な泊りをしたいと、日頃思っていた。興福寺や東大寺とも近い。

 長谷寺の宿を午前10時に発ち、近鉄大阪線の桜井駅で、JR奈良行きに乗り換える左車窓には「箸墓古墳」がある。3世紀半ば過ぎの前方後円墳で女王卑弥呼の墓ともいわれている。『魏志倭人伝』には、卑弥呼が死んだ際には径100余歩の墓に祭られ、奴婢100余人を殉葬したという。桜井から天理へかけての「やまのべの道」は、よく徒歩で散策したものである。古墳の多いところである。


 JR奈良駅は改装中であった。駅前に待機中のタクシーに乗り、「正倉院、大仏殿裏の大講堂跡を経て、転害門から奈良坂の般若寺までお願いします」という。般若寺の発行した「縁起」によると、「都が奈良に遷った天平七年(七三五)、聖武天皇が平城京の鬼門」(陰陽道で、鬼が出入りするといって忌み嫌う方向で、)東北の称)を守るため『大般若経』を基壇に納め、塔を建てたのが寺名の起こりだという。まず、この寺を訪問した。

 この寺の正面の楼門(ろうもん)は、鎌倉時代にお寺を再興したときのもので国宝に指定されている代物。なかなか美しい建造物である。通常は正面から入ることができず、左手の案内所から入る。鎌倉期に、西大寺の叡尊が再興したのをうけて「真言律宗」となり、再興。

 興福寺、東大寺もがよく見通せるという恰好の軍事的な要衝にあったため、その後も度重なる内乱の際には陣営として活用しようとするものと逆にそうはさせまいとする双方の戦いの犠牲で甚大な被害を被った。また、明治の廃仏毀釈でも損害を受け今では当初の大寺院の面影を偲ぶことは出来なくなっている。現在は、寺の門前は、住宅地帯となり、二階モルタル住宅が林立して、往年の「歴史的景観」は、失われている。

「昔、般若寺といえば医療施設を備えて病人や貧困者の救済事業に力を注いだという庶民にはとっては大変有難いお寺だったようでその証が後述の「北山十八間戸」でしょう。」と『コスモス寺・般若寺』の案内パンフに書かれている。また、秋季は「境内はというと10種類、約10万本のコスモスが咲き乱れ。多くの観光客とカメラマンで賑わいます。」と書かれているように、「コスモス寺」として、観光客を見る人びとの観光地となっている。しかし、コスモス寺として観光地となったのは、敗戦後であり、般若寺の住職に聞いてみると、ここ三十年ころから、コスモスを人工的に植えたのだそうだ。四季折々の「花寺の観光地」として、賑わっている。案内書には、どこにも「ハンセン病」のことなど書かれていない。

春は、「花咲きて実はならねども長き日に  思うほゆるかも山吹の花」=「山吹」
夏は、「夏もなお心はつきぬあじさゐの  よひらの露に月もすみけり」=「あじさゐ」
秋は、「コスモスの花あそびおる虚空かな」=「コスモス」
冬は、「白鳥が生みたるもののここちして 朝夕めづる水仙の花」=「水仙」

 (般若寺の受付所で貰った『コスモス寺・般若寺〜歴史ある花と仏の浄刹』より)


 しばし、回廊門の楼門(鎌倉時代、国宝)に座りこんで、金堂の跡地に建てられた「本堂」と、十三重石宝塔(重文)と、植えられて背丈ほどになったコスモス群を眺めていた。私が般若寺に参拝すると知った親しくしているメル友から、つぎの「五行詩」が送られてきたことを思い出していた。

 <滝尾さんから教えていただいた般若寺の秋桜を眼底に、詠みました。

 秋桜ゆらす
 風は息
 微風そよげば
 心さやさや
 非人浄土にわたらせよ >

 寺の境内のあちこちに笠塔婆(重文:鎌倉時代)や観音石佛などが散在していた。本堂へ入る。重文の本尊・文殊菩薩像(鎌倉時代)はなく、掛け軸画。また、その隣にある黒塗りの「叡尊」像は、寺の住職に聞くと、十年ほど前に作成されたものだということだった。

「大仏殿の鴟尾や若草山が、ここから見られますか?」と、私が寺の住職に問うと、「場所によると住宅の間から大仏殿の鴟尾は見られます。また、若草山の山焼きの時、山の頂まで火があがると、ここでも見ることができます」ということであった。時代とともに景観も変容していることが窺われる。

 般若寺を出て、近くにある「北山十八間戸」へ行く。タクシーでは2分くらいの場所である。インタネットで「北山十八間戸」を検索してみたら、つぎのような記述があった。

 <‥‥‥鎌倉時代に、「文殊菩薩」に深く帰依された「西大寺」の僧「忍性」によって創建されたとの説もあります。忍性はハンセン氏病などの救護と治療の慈善事業に大変尽くされましたのでその功績に報いて諡号「忍性菩薩」が贈られました。それと、忍性は般若寺の再建に尽力されましたので般若寺が慈善救済事業を盛んに行われていた影響でこの病院を創設されたと考えるのが穏当かもしれません。 最近までハンセン氏病の方は世の中から悲惨な虐待を受けしかも家族から強制的に隔離される境遇でしたからこの北山十八間戸は別天地だったことでしょう。>

 <忍性は般若寺の再建に尽力されましたので般若寺が慈善救済事業を盛んに行われていた影響でこの病院を創設されたと考えるのが穏当かもしれません>云々は、最近の研究の成果により、再検討が必要であることは明白である。

 <‥‥‥叡尊・忍性による非人施行活動が開始されていたのである。以下、鎌倉時代における非人施行・非人編成に際立った役割を果した叡尊・忍性の活動の、公武政権における位置について考察してみたい。

【叡尊・忍性の非人施行】(p.105)
 叡尊の自伝『金剛仏子叡尊感身学正記』によれば、延応元年(一二三九)九月八日良観房忍性は叡尊に謁した際、亡母の十三回忌にあたり大和七宿の非人宿に七幅の文殊尊像を安置し毎月二五日文殊供養(非人供養)を行いたい、との宿願を述べたという。これを契機として叡尊・忍性による精力的な非人施行活動が急速に展開されることとなる。‥‥‥叡尊の非人施行は、まさに守護・地頭という幕府の統治機構に保証されつつ遂行されていたのである。かくして叡尊の非人施行は、和泉久米田寺における一〇〇貫一〇〇石の堂供養、河内北大和寺における二千余人の阿弥陀堂供養、と展開してゆくのである‥‥‥>云々。

 丹生谷哲一著『増補『検非違使―中世のけがれと権力』平凡社ライブラリー646、2008年 8月8日初版第1刷りなどを読んで、再検討が必要性を痛感した。この史料は関東の私のメル友から紹介されたものである。


 この問題を詳述するには、紙面が不足するので、後日にしたい。最近、史実に基づかない感情的・主観的で、且つ、情緒的な「歴史認識」の記述を多々見かける。残念といわざるを得ない。ハンセン病の歴史を記述する場合も同様である。「島田 等さんを偲ぶ: 慰霊の古寺巡礼の旅」を病身をおして書いているのも、そうした風潮を危惧していることも、その一因であることを付記したい。




[1862] 補足 投稿者:北風 投稿日:2008/11/22(Sat) 11:16  


訃報:山田泉さん 49歳 死去=元中学養護教諭

 ◇「いのちの授業」元養護教諭
 がんと向き合い8年、命の大切さを訴え続けた元中学養護教諭、山田泉(やまだ・いずみ)さんが21日、乳がんのため死去した。49歳。葬儀は23日(時間未定)、大分県豊後高田市高田2137の1の城葬祭高田斎場。自宅は同市玉津1280。喪主は夫真一(しんいち)さん。

 00年に乳がんを発病。2年後復職し同市内の中学で「いのちの授業」を始めた。2年間でハンセン病回復者の阿部智子さんら多彩なゲスト32人を呼び、生徒に「生きる勇気」を伝えた。退職後は自宅を「保健室」として開放、悩む子どもたちの相談にのったりした。

 フランスのチェロ奏者との交流を描いたドキュメンタリー映画「ご縁玉 パリから大分へ」(江口方康監督)が大分市内で上映中だが、山田さんは映画を見ることはなかった。著書は「『いのちの授業』をもう一度」など。
毎日新聞 2008年11月21日 西部夕刊

山田さんのホームページ。
http://yamachan.biz/



[1861] 昨日(21日)……、午前9時12分に・・・ 投稿者:夕焼け 投稿日:2008/11/22(Sat) 09:03  

リベルさんのBBSより、転載させていただきました・・・


大分【おおいた】の雄・・・ 投稿者:夕焼け 投稿日:2007年 6月14日(木)06時10分22秒   返信・引用
 一昨日届いた【「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟を支援する市民の会】からの「市民の会ニュース」・・・。

 驚き、というより「驚愕」の域に達していました・・・・・・

 「檜(ひ)の山のうたびと(抄)」(筑摩書房)1974年 松下 竜一
 この中に「藤本事件」、藤本松夫さんに関する文責がしたためられていたからです。

 三年半前に、松下さん発行の月刊ミニコミ誌「草の根通信」を、私に数冊贈って下さった方がいました。
 その草の根通信が切っ掛けで、彼の存在の大きさを身に沁みていた矢先の訃報、ご逝去でした・・・2004年6月17日・・・。何かの縁だと今度の日曜は予定を変更し、中津に赴いてみるつもりです。

 ただ気がかりは・・・、私に作家・松下竜一の世界を示唆してくださった元養護教員の病魔との闘いです。彼女をはじめ、「竜一イズム」の感化を受けた多くの志士と現世で紡ぐその縁は、なんと表現してよいやら・・・、その言葉を今は持ち合わせていないようです。
 今、病魔と闘う彼女の多くを知るには、この「草の根通信」に寄稿された彼女の数ある文責から垣間見ることが出来ます。
 彼女に現実に触れたくなって、彼女が一回目の病魔を抑え職場復帰している頃、「あなたの授業が受けたいのですが、受けさせてもらえませんか?」に、「どうぞお出でください」との垣根を感じさせない応答にたじろぎながらも、2時間半かけてその中学校に出向きました。
 授業は彼女が保健室に集った7名の子ども達と、いつもやっていると思われる手話の反復勉強と、突然「今日は天気が良いから課外授業へ行くぞ〜ぉ!」と、子ども達と外へ出るや、彼女から「今、君たちのやってみたいこと教えて?」に、一人の少女が「あの乗れそうなフンワカした雲に乗ってみたい!」と即座に応えたのには、驚かされてしまいました。
 中学校周辺を、およそ50分、足で歩き語らいだその時空のそ・れ・ぞ・れを、なぜか今でも鮮明に、そして微笑ましく思い出すことが出来ることに驚きです。

 彼女の闘いを、見守ることしか出来ない現実が、言葉を失います・・・!!

 彼女には、私なりの恩があります! ですから、たとえ、現段階での藤本松夫さんをモチーフにしたとされる啓発映画の「評」仕方が、もし、違っているにせよ、私は私で責任を持ってこれまでと同じ論で、考えていくことが彼女からいただいた思想!、「竜一イズム」に少しでも触れられるのでは?と、感じています。

 何にせよ、33年前に松下氏が、この「藤本事件」が政府のライ施策が元凶であることの示唆をしてくださっていることは、その文責からの「心強さ」が、今後も私を後押ししてくださる様に思います。


http://yamachan.biz/2008/11/



☆ 「から」精神(思想)を私に示唆して下さった方(山田 泉)でした・・・。
 
『ひとりから』『一人から』・・・・・・彼女の 言霊 でした!

「から」が、いかに深く・尊んでいかねばならないのかを私に示唆して下さったように・・・、今、感じています。

あの世とやらで・・・会えますように・・・!!






[1860] 加賀さんの夫人 投稿者:北風 投稿日:2008/11/21(Fri) 11:34  

小木あや子さん死去(作家の加賀乙彦さんの妻)

小木 あや子さん(こぎ・あやこ=作家の加賀乙彦さんの妻)19日死去、70歳。東京都出身。自宅は東京都文京区本郷1の27の○の○○○。葬儀は24日午後1時30分から千代田区麹町6の5の1の聖イグナチオ教会で。喪主は夫、本名小木貞孝(こぎ・さだたか)さん。(了)
(2008/11/20-17:54)



[1859]  日本の防衛省、内部で歴史教育の内容・講師の再検討; 扶桑社・新歴会が訴訟で争う…歪曲された歴史教科書が2種出てく                      (滝尾)                                                                                                                                         投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/11/18(Tue) 11:31  

福留範昭先生から滝尾宛に届いたメールです。森川静子先生が翻訳されていなす。両先生に感謝します。

            人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二 ’08年11月18日(火曜日)11:28


[聯合ニュース 2008-11-17 10:42]


(東京=聯合ニュース)チェ・イラク特派員=日本の防衛省は、自衛隊幹部などを対象にした歴史教育の内容や講師陣の変更を検討していることが分かった。

これは、日本の侵略戦争及び植民地支配を否定するなど、歴史認識に関する政府の見解を否定する論文を発表して更迭された田母神俊雄前航空幕僚長が、統合幕僚学校長に在任時に、幹部の教育過程を通じて歴史歪曲の憂慮が高い学科と講師陣を採択したことによるものだ。

17日の共同通信によれば、田母神前幕僚長は、統合幕僚学校長として勤務しながら、幹部の教育科目に「歴史観・国家観」を新設し、講師に「新しい歴史教科書をつくる会(つくる会)」の副会長を務めている教授の2名を任命した。

講師に任命された人は、福地惇大正大学教授と高森明勅国学院大学助教授だ。福地教授と高森助教授は、ともに新歴会副会長をつとめており、日本の軍国主義と侵略戦争を美化する講義をする可能性が、高い人物と指摘されている。

実際、福地教授は、2003年に「日本憲法の本質」という題の講義をした。今年に入ってからは、福地教授が「明治時代と戦後の国家」、「大東亜戦争史観」という題の講義をし、高森助教授は「天皇の起源と歴史的意味」などを担当した。

麻生総理も、今月13日の参議院外交防衛委員会で、歴史教育は必要だとしならも、「偏向せずに、均衡をもった内容で教えることが重要だ」と明らかにしている。

文部科学省によれば、つくる会が主導し、扶桑社が発刊した中学校歴史教科書の日本の中学校内での採択率は0.4%にすぎなかった。

田母神前幕僚長は、2003年自衛隊の内部紙に、「自衛隊にも、国民が正しい歴史観を持つようにするためなすべきことがある。反日的なグループの努力が我々の努力を上回っているので、教科書が徐々に自虐的になっている」と主張したことがある。

一方、日本の歪曲された歴史教育を主導してきたと指摘されている扶桑社とつくる会は、昨年それぞれ別の教科書を作ることにしたの続いて、今年7月にはつくる会側が扶桑社を相手に、「我々が作り、扶桑社が出版してきた中学校教科書である『新しい歴史教科書』を、2010年以降は出版するな」という訴訟を、東京地方裁判所に提起している。

訴訟は、つくる会の藤岡信勝会長らが提起した。藤岡会長ら原告たちは、この教科書の内容の70%ほどに対する著作権を持っている。しかし、扶桑社側は、すでに昨年2月につくる会に公文書を送り、「政府の教育改革の趣旨に添うために、新しい歴史教科書を出版するので、新歴会の歴史教科書の発行を中止する」と明らかにしていて、訴訟の結果と関係なく、歴史歪曲の強度が高い二つの教科書が出版される可能性が高い。新しい中学校の歴史教科書は、検定を通して2010年に供給される。
                                  〈森川静子訳〉



[1858] 「あいまい」な認識を放置しているということで・・・。 投稿者:夕焼け 投稿日:2008/11/17(Mon) 06:57  

田母神前空幕長の「論文問題」というより、政治家の歴史認識やメディア報道のあり方によって、市民が被るとらえ方を非常に危惧しています。

兵庫県の知事ではありませんが・・・、この問題は「チャンス」であることには違いないと思っています。

歴史認識は、立ち位置からそれぞれに都合の良いとらえ方があることを、「・・・闘いの歴史に学びともに考えるBBS 」で実感させられてきたところです。

都合の良い歴史認識を放置することが、どのような理不尽・不条理・・・、不幸を国家単位でつくり上げてきたのか?

その「恐ろしさ」を共有できないでいる人民(市民)であるのなら歴史は繰り返されると、無責任な言いようで語る階層の思うつぼのような気がしています。

彼の「論文問題」を断罪できないでいる国会や、メディアの実情を大変怖く・・・、そして危惧している一人です。

日本の行く末を、身近な所からも危惧していましたが、藤原の「国家の品格」がベストセラーになる現状や、田母神前空幕長の「論文問題」が、思った以上に無関心なままで通り過ぎようとしていることに「恐れ」を感じています。

「F事件」の真相も私の生涯の課題でありますが、今回、問題にしなくてはならなかったのは「映画製作」になぜ!支援できたのか?を、追求できなかった…・・・・・・そのことに、「日本の人権意識問題」が、内包していることに気づかされました・・・。

「F事件」の真相の追求という燻ったおき火に、映画製作はどんな役目を果たしたのか?

曖昧な人権感覚が、如何に差別者となる 恐れ のあることか…、今更ながらに思い悩んでいます。



[1857]  本当に「ハンセン者」になりたかった人の真の愛の物語 (ネイションコリア)の記事を掲載します。 福留先生に感謝します。  (滝尾)                                                                                    投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/11/16(Sun) 21:11  


 福留範昭先生から、「韓国の過去問題に関する6記事」が、滝尾宛にメールで届けられてきました。この記事のうち、(1) 本当に「ハンセン者」になりたかった人の真の愛の物語 (ネイションコリア)を『滝尾英二的こころ』と『ハンセン病の闘いの歴史に学びともに考えるBBS』の掲示板に掲載します。

「韓国の過去問題に関する6記事」のすべての記事は、『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。「6記事」のすべてをご覧になられたい方は、ご面倒でも、『滝尾英二的こころPart2』の掲示板を開いてください。

『ネイションコリア』を翻訳し、届けていただいた福留範昭先生に感謝します。

                            人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                             ‘08年11月16日(日曜日)20:55

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 福留です。韓国の過去問題に関する記事を紹介します。

1) 本当に「ハンセン者」になりたかった人の真の愛の物語 (ネイションコリア)

2) <新刊> 『韓国近現代史の省察と告白』 (聯合ニュース)
3) 民主労働党代表団、平壌に到着 (聯合ニュース)
4) 週末 ソウルの都心で各種の集会が相次ぐ (聯合ニュース)
5) 日本の河野衆議院議長、最長在任記録を更新 (聯合ニュース)
6) 「ろうそく鎮圧拒否」の義務警察に懲役1年6月の実刑 (聯合ニュース)

1) ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥


[ネイションコリア 2008-11-13 02:50:05]
【 本当に「ハンセン者」になりたかった人の真の愛の物語 】

ヤン・グクチュ牧師

(写真あり)
http://www.nakorean.com/news/articleView.html?idxno=112142008


詩人金素雲は自分が慕っていたポール・パレルのように、毎日約十余里[註;日本の1里]を小児麻痺のまねをしながら歩いた。小児麻痺だった詩人の気持ちを感じたかったからだ。それでも、詩人金素雲はパレルになることはできないのだ。

小鹿島を訪ね詩人韓何雲(ハン・ハウン)が、あのように恐怖感を感じた「全羅道の道」は、行けども行けども赤い黄土の道、息詰まる暑さとして描写されたハンセン者の生活を、金素雲氏がまねしえただろうか。


行けども行けども赤い黄土の道、息詰まる暑さだけだった

見知らぬ友に会えば、私たちムンドンイ[ハンセン病患者の賤称]どうしうれしい

天安(チョナン)の三叉路を過ぎても

たわしのような太陽は西山に残っているが

行けども行けども赤い黄土の道

息詰まる暑さの中で、びっこをひいて行く道

靴を脱げば

柳の木の下で地下足袋を脱げば

足の指がまた一つなくなっている

これから残った二つの指がなくなるまで

行けども行けども千里、遠い全羅道の道


「韓何雲の時調[朝鮮固有の定型詩]」を世に紹介した李秉(イ・ビョンチョル)は、「不遇の詩人 天作の罪囚」よ、「遊離の道でさまよう乞食が叫ぶすさまじい生命の歌」、「リアリティーがにじみ出す文学」と紹介した。

ハンセン者であり、ハンセン者であることを拒否した韓何雲、彼が涙の丘を過ぎ、「麦笛」を吹きながら「青い鳥」になろうとした世に私たちは生きている。一度も笑ったことも、泣いたこともない人のように、そういう悲しみにこわばってしまった顔が、今日の私たちの「自画像」ではなかったのか。


今日必ず行かなければならない どこにもない 見知らぬこの道頭に

ひょこひょこ 5尺より少し高い身長で生きる私たちの姿

過ぎる道ごとに ショウウインドーのガラス窓ごとに

すぐには自分が自分と分からない自分の顔


韓詩人の詩碑「麦笛」がある小鹿島(ソロクト)は、いまだこの地で天刑の生活を送るハンセン病患者たちが定着している所だ。今は、癩患者やハンセン病を患っている患者と呼び直しているが、そうしてもハンセン病患者が、癩患者の境遇を免じられるわけではない。

日帝強占期には、隔離収容された癩患者たちを労役に動員したり、精管除去や卵管結紮などの強制不妊手術をし、妊産婦を堕胎させたのは一度や二度ではなかった。


1960年代に父母たちは、子供たちが癩病患者らと会うことさえ恐れもした。子供の生肝を食べれると、癩病を直すことができるという俗説で、癩患者たちが子供を誘拐するという悪いうわさが飛び交っていたからだ。癩病に関して無知だった当時の時代風俗だった。

一時、陸英修女史 [註;朴大統領夫人] が、癩患者の手を直に握った場面が新聞に大書特筆されて、癩患者に対する社会的な認識が次第にやわらぎ始めた。

写真 ▲ ウィルソンが1920年代に作った邸宅が、現在光州市のスピアの丘にある。

写真 ▲ 二人の息子と一緒のウィルソン宣教師.

一時2万名を越えた癩患者を国が救済する気配すら見せなかった時、彼らを深い愛情を持って世話した人たちは、光州と順天(スンチョン)地域で使役した南長老教会出身の一般信者と宣教師たちだった。

1909年、フォサイトとウィルソンは、光州の鳳山里に行く所のない癩病患者たちのために穴蔵を作り、率先して彼らを世話した。癩病患者の収容施設を1926年から麗水(ヨス)に移して、男女32病棟に実に73名の癩病患者を収容した。

ニューヨークを中心に多くの教会が、朝鮮の癩病と結核患者たちを助けるために、少なくない献金を送ってきた。当時、癩病患者を収容するために、レンガで建てる費用が4部屋の一棟に50ドル要った。

宣教師たちが送った1930年代の布教報告には、50余名に近い医師と看護師が働き、彼らの奉仕に感動を受けた日本の天皇夫婦も寄付を送ってきた。

愛養院の中に病院が入り、教会も立てられた。これらの中に、朝鮮人牧師と5名の長老、13名の執事がいた。2名の長老が盲目だった。たとえ肉体は病身であっても、心だけは自由で純粋だった人たちだ。

この地に、癩病患者の治療施設を開いたウィルソンを助けて、彼らに希望と愛を教え、与えた人はシェピン宣教師(Ms.Elizabeth Shepping)であった。愛養院は、1932年シェピン宣教師の朝鮮聖域 20周年を賛えて、癩病患者村に彼女の献身を賛える碑銘をたてた。

彼女は、この地で看護学界を創立し、実に11年にわたって看護学界を率いて、後進を養成した。彼女は、朝鮮に留まった22年間、私たちに自分の全てのものを惜しみなく与えた。

塵土のような世の中で、何を自分のものと考えるのか。宣教師シェピンユファレ、グボラは、未婚の境遇を顧みず、癩病患者の子供を自分の養子にしもした。もしかしたら、癩病患者になりたかったのかもしれない。彼女たちは、苦痛の癩病患者の人生に、生きておられる主を発見したからだ。

写真 ▲ 生前のシェピン宣教師の姿.

写真 ▲ 1932年、愛養院に建てられた聖域20周年記念碑 (1934年に彼女が54才で死ぬ2年前に建設された)

シェピン宣教師が行く所のない孤児13名を、自分の娘として養子にし、癩病患者の子供を息子とし、ヨセフと名付けた。彼らの影響を受けて、癩病患者の父とあがめられた崔フンジョン牧師も出て、今日の韓国教会が神主壺[民間信仰の家神]のように祀る孫良源(ソン・ヤンウォン)牧師も出た。

シェピン宣教師、彼女の葬儀が地域の人々の中で、非信者たちが主体になって、光州で最初の社会葬として行われた。空前絶後の12日葬で行われたシェピンの葬儀であった。

白い喪服を着たイイル学校の弟子たちが、運柩を務め、その後には13名の養女と数百名の乞食、ハンセン者が従った。「オモニ」、「オモニ」と呼びながら泣く彼らの痛哭で、楊林川が涙の海のようにあふれた。

よほどでなければ、『東亜日報』が、「慈善と教育事業に一生を捧げた貧民の母、ソソピョンヤン逝去」という見出しとともに「再生したイエス」を副題にして、彼女の死を特筆大書しただろうか。

この地のイエスと信じる人たちは、至賤にあふれた。ひょっとすると、これ以上イエスを信じろと伝道する必要がないのかもしれなかった。1990年以来、韓国のキリスト教は停滞現象を示している。

それでも、前途がなかったわけでもない。真のキリスト者としての聖潔な生活なくなった今、もはや非信者たちにとって、キリスト教は、あってもなくてもいい利己的宗教集団になってしまったのかもしれない。倫理不在がもたらした自業自得の韓国キリスト教が当面した袋小路地だ。

誰かに似ることはできても、全く一つになるのは難しいものだ。きっとハンセン者になりたかった人、シェピン宣教師のようなキリスト者10名だけがこの地に生きていれば、キリスト教はこの世間に向かって、「お前たちはこのように生きろ!」と正々堂々と語る資格を享受し、民族の希望と映るのではないだろうか。

(本誌提携社<ニュースアンドジョイ> ヤン・グクチュ牧師 ;涅槃を崇める人々(代表)




[1855] 皆さま 投稿者:しゅう 投稿日:2008/11/16(Sun) 10:45  

「東風吹かば」が繋がらないために、リベルさんがここに義父の訃報をしてくださったことと思います。たいへん恐縮に存じます。
私事でたいへん失礼しました。
「東風」はしばらくお休みをさせてください。また気持ちが戻りましたら、再開いたします。

    義父の死は突然棉虫が舞っており    しゅう

    いまはただ瞑目すのみ浮寝鳥      


どうぞ、このBBS本来の投稿を続けてくださいませ。

メールで「谺雄二さんは、徐々に回復に向かわれている」とのお知らせをいただいています。
皆さまに、そのことだけお心配されておられると思いますのでお知らせしておきます。


[1854] 訃報 投稿者:リベル 投稿日:2008/11/15(Sat) 12:16  

「不在の街」やBBS「東風吹かば」でお馴染みのしゅうさんこと村井澄枝様のお父上(義父)が、去る10日にお亡くなりになったそうです。ここ数日「東風吹かば」に繋がらないので、問い合わせたところ、こんな大変なことでした。

お父上のご逝去に心から哀悼の意を表します。


暫くしたら再開する予定だと仰有っていました。取り急ぎお伝えします。


[1853]   島田 等さんを偲ぶ: 慰霊の古寺巡礼;第二日目(10月21日); 奈良の長谷寺を訪ねて           (滝尾)                                                                                                                                                          投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/11/07(Fri) 22:57  


 島田 等さんを偲ぶ: 慰霊の古寺巡礼;第二日目(10月21日); 奈良の長谷寺を訪ねて

               人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

              ‘28年 11月07日(金曜日)22:50


 10月21日の正午過ぎ、私たちは「近鉄大阪線」の長谷寺(はせてら)駅に立っていた。門前の旅館までは、徒歩15分ほどだが、私が歩行困難なので、タクシーで行くことにした。その前に昼食をしようと思ったが、駅前にはそれらしきものはなく、タクシーも桜井から派遣されたタクシーが、今日は一台あるだけ。それも他のお客を乗せてどこかへ行ったという。待つこと20分。タクシーの運転手は若い女性だった。

 私は、この長谷寺とその門前町の佇まい・町並みが好きだ。また、静かな大自然の景観は私をすっぽりと包んでくれる。青春時代から幾度となく、長谷寺に詣でた。そんなわけで「島田 等さんを偲ぶ」最初の巡礼の寺に長谷寺を選んだ。五十余年前に泊った二階建てのその宿屋が町並みにそのまま残って営業をしているのに、感激した。

 真言宗豊山派・総本山の長谷寺(奈良県桜井市初瀬)にある。西国三十三観音霊場第八番札所で、初瀬山の中腹には本堂(国宝)があり、わが国最大の木造仏といわれる本尊十一面観世音菩薩像(重要文化財)などが多々ある寺である。草創については諸説あるが、大和と伊勢とを結ぶ街道に面して、平安時代以降、「枕草子」、「源氏物語」、「更級日記」など多くの古典文学にも登場する。藤原道長もこの寺に参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰が広まった。当日は、まだ紅葉には少しはやかった。

 「全国に末寺三千余ヶ寺、 檀信徒はおよそ三百万人といわれ、‥‥‥多くの人々の信仰をあつめて」いるせいか、末寺から修行僧が全国から集まり、毎朝、本堂の十一面観世音菩薩像にあげる20〜30人の僧侶による読経の声は、大太鼓の音色はみごとな幽玄・荘厳のハーモニーを奏でている。幾度も長谷寺にひかれて、私が参詣するのは、そのためである。


 しかし、長谷寺への参拝には一抹の不安があった。果たして毎朝、多くの僧侶たちによる読経のある初瀬山の中腹には本堂まで、両下肢歩行困難のわが身で、登れるかどうかである。仁王門までの石段。さらに仁王門から本堂までは三百九十九段の石段がある。歯を食いしばっても、本堂までたどり着くのが、わが身の「修行」だと思っての長谷寺行きを決心したのだ。当日は、午前5時30分に起床。午前7時から始まる読経に間に合うべく、宿を早朝6時に出た。


 入口の仁王門から本堂までは399段の登廊(のぼりろう、屋根付きの階段・重要文化財)を上るのが通常である。しかし、私が持参した身体障害者用の「手押し車」は、仁王門から本堂までは399段の登廊(屋根付きの階段)を上るのは不可能である。399段の登廊の脇には坂道がついていて、その坂道を上がることにする。同伴の友人が上着を脱いで「手押し車」を押してくれる。途中、下半身全体に「激痛」が走る。持参した「座薬(ブルタレン・サポ:50mg)」という痛み止めを直腸に挿入してもらう。痛みはややおさまり、この分なら7時のお参りに間に合いそう。。


 399段の登廊を上り切ったところから、本堂までは未だ可なりの距離がある。ふたりの若い修行僧が、竹箒で道を掃いていた。愛媛と新潟から、真言宗の修行のために、来ているのだという。今朝の読経は、「観音経」で通常あげるお経をり、長いということだった。「ここから本堂へ行くのは、タクシーを呼びなさい。まがりくねった一車線道だが、本堂のすぐそばまで行ってもらえますよ。」と、教えて貰った。早速「携帯」で連絡。タクシーに来てもらい、7時の読経に間に合った。


 本堂の十一面観世音菩薩像の前に、二十余人の僧侶がならび、大太鼓を打つ調子に合わせて、「観音経」の読経が始まる。初瀬山々にこだまする雄大な読経であった。旅館のある門前街の人びとにも、この読経は聞こえているはず。本堂は、京都の清水寺のように「舞い舞台」になっている。本堂からでてきた僧侶たちは、この「舞い舞台」から外に向かっても読経していた。


    朝焼け
               島田 等

  冬至の頃になると
  島の朝焼けはことさら美しい

  朝焼けが美しくなると
  一日は短かくなり
  人は老いる

  地上の喧噪を小さくして
  かがやきは
  自然を忘れる者への猶予だ

  太陽がふたたび戻ってくるまでに
  終わるいのちにとっても



[1852]  神谷美恵子著「島の精神医療について」(神谷美恵子著作集2『人間をみつめて』(みすず書房); 中原 誠さんの「ことば」 !                                                                                                                                                                                                                                                                         投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/11/05(Wed) 16:21  

 神谷美恵子著「島の精神医療について」(神谷美恵子著作集2『人間をみつめて』(みすず書房、1980年12月発行)160〜161ページに寄せて; 中原 誠さんのことば!


               人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

               ‘08年11月05日(水曜日)  16:16

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

「‥‥‥長島というのはかなり広い島で、同じ島の光明園の人も入れればそこに二千二百余人もの患者さんがちらばって暮している。たまに行く精神科医とは顔をあわせたこともない人が多いので、私は決して彼らの生活や意識をよく知っているわけではない。いろいろな意味で今なお、時どきびっくりするような人に会うことがある。たとえば昨年のことであったと思う。ある日、まだ三十代と思われる男の人によびとめられた。(滝尾;註1)。

「先生、ちょっとぼくのやっている翻訳をみて下さいませんか」
みると、少し不自由な手で、分厚いフランス語の本を圧しつけるようにして抱いている。むつかしい歴史の本である。(滝尾;註2)びっしりときれいな細かい字で記した大学ノートの訳文とつき合わせてみると、ほとんどまちがいがない。この人は少年の頃、発病して入園しているはずだ。

「どうやってフランス語を勉強したの?」
「ラジオで何年も独学して、答案も放送局へ送って添削をうけたりしました。テレビも利用します」

 あっさりと彼はいう。しかし集団生活の中で、これがどれだけの意思力を必要とすることか。大学生たちが大学でフランス語をやっても、たいていもの(2字傍点)にならないことを思うと、私は彼の肩を叩いて激励したくなった。(滝尾;註3)

「べつに出版のあて(2字傍点)があるわけではありません。ただ、いったい、自分のやっていることがまちがいないか、それを知りたかっただけです」

 彼のにこにこした顔をみて思った。要するに金や報酬や名誉の問題ではないのだ。自分のいのちを注ぎ出して、何かをつくりあげること。自分より長続するものと自分とを交換すること。あのサン・テグジュベリの遺著『城砦』にある美しい「交換(エシヤンジュ)」の思想を、この人はおそらく自分では知らず知らずのうちに、実行しているのだ。その後も彼はあいかわらずせっせとこの仕事をつづけ、私には答えられないようなむつかしい問いをためて、時どき聞きにくる。(『人間をみつめて』みすず書房、160〜161ページ)。

        ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 「ある日、まだ三十代と思われる男の人によびとめられた。」(滝尾;註1);=島田 等さんが弟のように、可愛がった長島愛生園の入所者である「中原 誠さん」のことです。語学に堪能で、英語、フランス語、朝鮮語などが読め、私も「学兄」として、慕っておりました。長島愛生園を訪問するたびに、中原 誠さんとお会いしておりました。残念ですが、島田 等さんと同じく「ガン」に罹病され、亡くなられました。おだやかな方で、私は多くのことを教わりました。
『らい』第24・25号に、韓何雲著の詩集『麦笛』を監修:姜 舜(カンスン)で、全訳されています。

 「‥‥‥男の人によびとめられた。」とありますが、中原さんは、神谷美恵子医師の診察のある時、患者の最後の診察にしてもらい、その時、「診察室、神谷先生に自分のフランス語の翻訳文をみてもらった」と、言っておられました。

 「分厚いフランス語の本を圧しつけるようにして抱いている。むつかしい歴史の本である。」(滝尾;註2);=中原さんについてお聞きしたら、この「書籍」は、『フランス共産党史』を翻訳して、神谷美恵子先生にみてもらったのだと、いうことです。

 大学生たちが大学でフランス語をやっても、たいていもの(2字傍点)にならないことを思うと、私は彼の肩を叩いて激励したくなった。(滝尾;註3)

 中原さんのお部屋へ遊びに行った時、たまたま神谷美恵子先生の話が出たとき、「神谷美恵子先生からいただいた本です。」と言って、新書版の大きさのフランス語の本を見せてもらったことがある。「神谷先生が大学での教科書でしょう!」と、中原さんは言っておられた。この本を開いてみると、神谷先生がお書きになられたフランス語の細字が、どのページにも、ページ一面に書き込まれていた。細い万年筆での書き込みだった。中原さんは、この本を大切にしておられた。

 大学で使用した本など、幾冊か神谷先生は、中原さんに差上げていたことを感慨深く思うのだった。(滝尾記)




[1851] 組織人が組織に依存できなくなったとき! 投稿者:ルリカケス 投稿日:2008/11/05(Wed) 12:12  

これまで、組織にべったりと依存してきた人たちが、今や組織に依存できなくなりつつあります。

そのときに、依存相手に対してどのような態度をとるのでしょうか。

ふたつ考えるとします。ひとつは、依存してきた対象に対する攻撃です。

もうひとつは、相手が圧倒的に強いと言う場合には、自分の
ほうが追い詰められます。

昨日元ある支援会の会員の方が、来訪致しました。彼は負け組ですかね!後者のほうです。

自分は地道で、あるが、奄美に移り住みたいし、ハンセン病問題では、私の支援したいと、言われました。

現在の組織(市民学会)来年鹿児島ですが?その実行委員会に参加出来ないか?誘いがあります。が断っておりますのが
現状です。


[1850] Re:[1849] 異見 投稿者:北風 投稿日:2008/11/05(Wed) 09:06  

>
> 私共はその内部に向かって異見を述べることも出来ないです。

これが一番問題ですね。
「当事者」が異見を述べられない、「当事者」以外の発言がまかり通るという現状。



[1849] 異見 投稿者:ルリカケス 投稿日:2008/11/04(Tue) 22:02  

>内部にあって、異見をいう、異議申し立てをするという意味です。為念。こういうコトバは「惰民論」と一緒で一人歩きするからネエ。

そうですね!内部に向かって異見を整えることは大事でしょう!

私共はその内部に向かって異見を述べることも出来ないです。

流れが変わることに期待致します。





[1848] 蛇足 Re:[1847] 同感だけれども Re:[1846]   最近、読んだ雑誌『リプレーザ第06号・第07号』に書かれた・田中 等さんの「論考」を読んで!                                                                                                                                                                                                                     (滝尾) 投稿者:北風 投稿日:2008/11/04(Tue) 11:07  

>
> それは、小生の現状認識の甘さかもしれない。しかし、まあ、それならそれで獅子身中の虫になってやろうかとも思うのである。
>

内部にあって、異見をいう、異議申し立てをするという意味です。為念。こういうコトバは「惰民論」と一緒で一人歩きするからネエ。






[1847] 同感だけれども Re:[1846]   最近、読んだ雑誌『リプレーザ第06号・第07号』に書かれた・田中 等さんの「論考」を読んで!                                                                                                                                                                                                                     (滝尾) 投稿者:北風 投稿日:2008/11/04(Tue) 10:21  


>  (4)「『国民』運動から遠くはなれて」 「‥‥‥官民が一体化したハンセン病市民学会を中心にした『国民』運動の奔流は、だれにも押しとどめられないものとなっており、ここに至って個人的なオブジクションはまったく無力である。にもかかわらず、こうした異見をあえて述べるのは、圧倒的な全体主義的運動(嗚呼、無癩県運動!)が進行していく情況のなかで、自らがその流れに加わっていないことの(良心の)証しをささやかであっても明らかにし、このかん親しく交流していただいたハンセン病当事者の人びとにたいする釈明の一端としておきたかったからなのだ。」(『リプレーザ第06号』110ページ)

書かれていることには同感で、現状認識についても異論はない。
ただ上記の点について、田中さんや滝尾さんは、裁判闘争に主体的にコミットして運動をリードしてきた立場から、このように現状に絶望しまた、滝尾さんもそれに共感を寄せているのだと思うが、裁判に一定の距離を置いてきたおいらは、「流れから退いて」現場不在証明をしようという気にならないのである。

それは、小生の現状認識の甘さかもしれない。しかし、まあ、それならそれで獅子身中の虫になってやろうかとも思うのである。




[1846]   最近、読んだ雑誌『リプレーザ第06号・第07号』に書かれた・田中 等さんの「論考」を読んで!                                                                                                                                                                                                                     (滝尾) 投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/11/03(Mon) 19:32  

 最近、読んだ雑誌『リプレーザ第06号・第07号』に書かれた・田中 等著「ハンセン病問題の『いま』を語れ!」100〜115ページ、「ハンセン病問題の終わりのはじまり」84〜93ページを読んで!


               人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

               ‘08年11月03日(月曜日)19:25


 畏友・田中 等さんが『リプレーザ第06号』‘08年5月26日発行、『リプレーザ第07号』‘08年10月31日発行(発行:『リプレーザ第』、発売元:社会評論社、1333円+税)が、たいへん有益であり、かつ興味が多かった。「書評」というつもりではないが、ともあれ、田中 等著「ハンセン病問題の『いま』を語れ!」、「ハンセン病問題の終わりのはじまり」で、私の印象に残った箇所・箇所を以下、紹介しよう。


 (1)「新しい終わりのはじまり」 「ハンセン病問題は、基本的に終った。一世紀余にわたって日本『近代』を貫通して、幾多の人びとを苦しめ、おびただしい数のいのちを奪い、とりかえしのつかない惨劇を生みつづけてきたハンセン病問題の歴史の幕が、いま閉じられようとしている。「いや、ハンセン病療養所の『将来構想』がまだ具体的に解決していない」と、そう唱える人が少なからずいるかもしれない。が、しかし、そのことをふくめてハンセン病をめぐる闘いは、ともかくも急速に終息にむかっているものと、僕には思える。」(『リプレーザ第07号』84ページ)


(2)「‥‥‥要するに、ハンセン病療養所の入所者が激減しているので、“空洞化”しちゃあイカンってんで、高齢者や障害者の施設などを併設して急場を乗り切ろうとゆーことなわけだが、さて、困ったもので、“道連れ”にされる人たちはたまったものではない。当該ハンセン病入所者の平均年齢がいまおよそ八〇歳。二〇〜三〇年のあいだには、ハンセン病療養所は、近代日本の闇の部分を覆い隠すかのように“消滅”していくはず。‥‥‥なんで、まともにハンセン病者を隔離施設の軛から解放するとゆー論議(と運動)ができないのだろうか? いま、日本の「近代」が生んだ差別・排外主義を総決算せよ! インチキ国家=社会をダンコ解体せよ! いまこそ「国民」一人ひとりの思想が問われているのだ。」(『リプレーザ第06号』編集後記:305〜306ページ、田中等)


 (3)「問われる“近代百年の計”」 「‥‥‥が、そうはいっても――運動が一定の路線上に終息したとしても――ハンセン病の“近代百年の計”は、それなりにキッチリとなされなければならないだろう。換言すれば、それは歴史認識の深化の要ということであり、また、日本近代史の総決算とでも呼べる課題について明確な総括を行うことの緊要性といってもいい。」(『リプレーザ第07号』91ページ)


 (4)「『国民』運動から遠くはなれて」 「‥‥‥官民が一体化したハンセン病市民学会を中心にした『国民』運動の奔流は、だれにも押しとどめられないものとなっており、ここに至って個人的なオブジクションはまったく無力である。にもかかわらず、こうした異見をあえて述べるのは、圧倒的な全体主義的運動(嗚呼、無癩県運動!)が進行していく情況のなかで、自らがその流れに加わっていないことの(良心の)証しをささやかであっても明らかにし、このかん親しく交流していただいたハンセン病当事者の人びとにたいする釈明の一端としておきたかったからなのだ。」(『リプレーザ第06号』110ページ)


 (5)「意味の深層を穿て!」 「いずれにせよ‥‥‥ハンセン病問題の運動上のとりくみは、国家権力(厚生労働省)と市民権力(弁護団・市民学会)の歴史的融和によって、いま、基本的に終わろうとしている。が、現状の貧寒な思想的水位とそれに規定された認識論的土台が据えられたままに、この問題の歴史総括論議に終止符が打たれていいわけがない。」『リプレーザ第07号』93ページ)



[1845] 生命の烽火 投稿者:北風 投稿日:2008/11/02(Sun) 08:52  


書籍名  生命の烽火、患者と共に歩んで−都患同盟の絶唱
著者名  小島 貞夫(東京都患者同盟中央執行委員会 編)
著者紹介 
発行社  コロニー東村山印刷所
総頁数  254
定価・頒価  
発行日  平成09年06月01日 1997
判サイズ(mm×mm) 211 149


まえがき
第一話 生命を守る聞い(昭和五十五年三月二十日)
第二話 生活保護と活動の明暗(昭和五十五年五月五日)
第三話 売名と実像との大きな違い(昭和五十五年五月二十五日)
第四話 浄風園秘話(昭和五十五年六月五日)
第五話 価値のある労働(昭和五十五年六月十五日)
第六話 男と女の関係(昭和五十五年六月二十五日)
第七話 喜望園開設秘話(昭和五十五年八月二十五日)
第八話 都患の一つの緑の道(昭和五十五年九月二十五日)
第九話 光る活動と施設(昭和五十五年十月十五日)
第十話 成果と不毛の人生航路(昭和五十五年十月五日)
第十一話 医療の明暗(昭和五十五年十月二十五日)
第十二話 不幸な人間模様(昭和五十五年十一月十五日)
第十三話 光と影の美と醜(昭和五十五年十一月二十五日)
第十四話 国を相手の運動(昭和五十五年十二月十五日)
第十五話 幕と正月の教訓(昭和五十六年一月二十五日)
第十六話 真実一路の旅なれど(昭和五十六年二月五日)
第十七話 日本に医療ケースワーカー誕生(昭和五十六年二月二十五日)
第十八話 運動の一つの試練(昭和五十六年三月十五日)
第十九話 大和病院の闘い(昭和五十六年四月二十五日)
第二十話 盟友会の誕生(昭和五十六年五月五日)
第二十一話 運動と事業の今昔(昭和五十六年五月二十五日)
第二十二話 考えてみたい真実(昭和五十六年六月五日)
第二十三話 ゼンコロを築いた人たち(昭和五十六年六月二十五日)
第二十四話 絹麗な活動(昭和五十六年八月五日)
第二十五話 豊かな人生に乾杯(昭和五十六年八月二十五日)
第二十六話 ある労働組合活動(昭和五十六年九月五日)
第二十七話 破壊と違う建設的な人生(昭和五十六年九月二十五日)
第二十八話 新橋第一ホテル土屋会長夫人との出会い(昭和五十六年十月十五日)
第二十九話 東京病院、都患、都患アケ、そして喜望園(昭和五十六年十月二十五日)
第三十話 生活保護を巡る闘い(昭和五十六年十一月五日)
第三十一話 一つの局面と前進(昭和五十六年十一月二十五日)
第三十二話 明るい成墨の自動車受領(昭和五十六年十二月十五日)
第三十三話 二人の活動家の歩んだ道(昭和五十七年一月二十五日)
第三十四話 人柄の判別基準(昭和五十七年二月五日)
第三十五話 人生街道の明暗(昭和五十七年二月二十五日)
第三十六話 都患同盟 荒神山の聞い(昭和五十七年三月十五日)
第三十七話 豪州に光る脳性マヒ工場(昭和五十七年四月二十五日)
第三十八話 生活保護患者と都患同盟(昭和五十七年五月五日)
第三十九話 自由党増田甲子七幹事長と経団連花村仁八郎専務理事との出会い(昭和五十七年五月二十五日)
第四十話 全医労浦田書記長の横顔(昭和五十七年六月五日)
第四十一話 はずかしがり屋が組織者として(昭和五十七年六月二十五日)
第四十二話 戦争と私の一家(昭和五十七年八月五日)
第四十三話 喜びと悔恨のにがい体験(昭和五十七年八月二十五日)
第四十四話 ある活動の側面(昭和五十七年九月五日)
第四十五話 入院患者集団の東京都患者同盟(昭和五十七年十月十五日)
第四十六話 けがれなき患者運動(昭和五十七年十月二十五日)
第四十七話 愛する日患同盟と泣いて(昭和五十七年十一月十五日)
第四十八話 全生園患者と都患同盟の握手(昭和五十七年十二月十五日)
第四十九話 献身と打算の別れ道(昭和五十八年一月二十五日)
第五十話 自動車と東京ケアの発展(昭和五十八年二月二十五日)
第五十一話 投書犯罪者の紋章(昭和五十八年三月十五日)
第五十二話 藤原道子さんと私(昭和五十八年三月二十五日)
第五十三話 静風荘病院の民主化と一つの教訓(昭和五十八年四月二十五日)
第五十四話 第五回汎太平洋障害者リハビリテーション会議(昭和五十八年五月五日)
第五十五話 新しい患者運動を求めて(昭和五十八年五月十五日)
第五十六話 明暗の人生行路(昭和五十八年六月一日)
第五十七話 生活保護と患者の闘い(昭和五十八年六月二十五日)
第五十八話 帰らぬ生命のシグナル(昭和五十八年八月二十五日)
第五十九話 都患同盟とセックス問題(昭和五十八年九月五日)
第六十話 都患への愛と七色の汗(昭和五十八年九月十五日)
第六十一話 太陽に生きる道(昭和五十八年九月二十五日)
第六十二話 社会事業の後継者の課題(昭和五十八年十月二十五日)
第六十三話 真実一路都患と家庭への愛(昭和五十八年十一月五日)
第六十四話 二つの異なる道(昭和五十八年十一月二十五日)
第六十五話 組織の明暗/(昭和五十八年十二月十五日)
第六十六話 不毛の道とみのりの道(昭和五十九年二月五日)
第六十七話 日患生みの親、清風会の異変(昭和五十九年二月二十五日)
第六十八話 都患同盟の鎮魂歌(昭和五十九年三月五日)
第六十九話 国会を包囲する都患同盟代表団(昭和五十九年三月二十五日)
第七十話 大臣交渉をすすめる都患同盟(昭和五十九年四月十日)
第七十一話 首都の患者組織都患同盟(昭和五十九年四月二十五日)
第七十二話 低肺施設喜望園の誕生(昭和五十九年五月五日)
第七十三話 日赤中央病院、飯塚監督との出合い(昭和五十九年五月十五日)
第七十四話 夢の結核患者の大移動(昭和五十九年六月五日)
第七十五話 結核悲話の一つの側面@(昭和五十九年六月二十五日)
第七十六話 結核悲話の一つの側面A(昭和五十九年七月五日)
第七十七話 結核悲話の一つの側面G(昭和五十九年八月五日)
第七十八話 組織代表の歩む一つの道(昭和五十九年八月二十五日)
第七十九話 都患こそわが恋人(昭和五十九年九月五日)
第八十話 貴重な運動の年輪(昭和五十九年九月二十五日)
第八十一話 夏から秋を迎えて(昭和五十九年十月二十五日)
第八十二話 親と子と親(昭和五十九年十一月五日)
第八十三話 新しい開拓者道(昭和五十九年十一月二十五日)
第八十四話 生きる喜びの「宝」(昭和五十九年十二月五日)
第八十五話 評価される努力(昭和五十九年十二月十五日)
第八十六話 良きパートナーの死(昭和五十九年十二月二十五日)
第八十七話 本能と愛の分岐点(昭和六十年二月五日)
第八十八話 入院患者(日患)運動の脱皮(昭和六十年二月二十五日)
第八十九話 日患同盟の受難時代@(昭和六十年三月五日)
第九十話 日患同盟の受難時代A(昭和六十年三月十五日)
第九十一話 残飯闘争という名の運動(昭和六十年四月十日)
第九十二話 立派に生きる一障害者(昭和六十年五月十五日)
第九十三話 反省の中で生まれる新しい前進(昭和六十年五月二十五日)
第九十四話 平和を希求する都患同盟(昭和六十年六月十五日)
第九十五話 悲喜交々の人世街道(昭和六十年六月二十五日)
都患同盟の新しい経験 豪州など十日間の旅



[1844] 悼・最近知りました。 投稿者:北風 投稿日:2008/11/01(Sat) 19:15  

小島貞夫氏死去 日本患者同盟副会長 (共同通信)

 小島 貞夫氏(こじま・さだお=日本患者同盟副会長)8日午前9時16分、呼吸不全のため東京都東村山市の病院で死去、90歳。東京都出身。自宅は東京都東村山市青葉町3の8の18。葬儀・告別式は13日正午から東京都清瀬市中清戸1の524の1、全龍寺普門閣斎場で。喪主は長女加瑞子(かずこ)さん。
[ 2008年9月12日12時21分 ]

http://asahisosho.or.jp/archives/655.html




[1843]  欧州連合(EU)議長国フランスは28日、日本での死刑囚2人に対する刑の執行について「深く憂慮している」との声明を発表! 10月30日の『毎日新聞』夕刊より    (滝尾)                                                                                                                                                                                                                                                  投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/11/01(Sat) 11:04  

 【死刑執行:日本の執行を憂慮 ― フランス】

 欧州連合(EU)議長国フランスは28日、日本での死刑囚2人に対する刑の執行について「深く憂慮している」との声明を発表した。日本に執行を一時停止し、死刑の廃止を検討するよう求めている。EUは死刑全廃に向け、第一歩として世界規模での執行一時停止を呼び掛けている。【ブリュッセル支局】

(『毎日新聞』 2008年10月30日 東京朝刊)


【備考】:「久間死刑囚(70歳)は、逮捕以来、一貫して無罪を主張していた」(10月29日:『朝日新聞・大阪本社版・35面による)。なお『アサヒコム』の「死刑執行」の項をみると、

 [編集] 国連人権理事会の勧告

 2008年5月には国際連合の国連人権理事会が日本の人権状況に対する定期審査を実施[10]されたが、このなかで欧州を中心に12ヶ国が日本政府に対し代用監獄問題や従軍慰安婦問題などに関して問いただされたが、死刑制度についても、死刑執行停止や死刑制度の廃止などが求めた。

 これは前述のように国連総会で死刑執行の一時停止を加盟国に求める決議が採択されたにもかかわらず、アメリカ合衆国が停止しているにもかかわらず日本で7人が死刑執行された状況を踏まえ、死刑制度廃止を訴える英仏などが説明を求められた。

 これに対し、日本代表は「国民世論の多数が極めて悪質な犯罪については死刑もやむを得ないと考えている」と指摘し、「国連総会決議の採択を受けて死刑執行の猶予、死刑の廃止を行うことは考えていない」との立場を表明した。結果的に人権理事会は日本に死刑制度の廃止を勧告する人権状況の改善を求めた審査報告をまとめた。」
という。森法相は、就任時の記者会見では、死刑について、「粛々と実施することが妥当。鳩山元大臣の考えに共感する」と話していた。9月14日に法相に就任してからほぼ1ヶ月で初めての執行となった。」(『朝日新聞』記事による。)

 こうした状況に対して、過去日本の冤罪事件の歴史に鑑みて、死刑執行に断固反対を表明したい。(滝尾)



[1842]  【死刑執行:福岡・飯塚2女児殺害、久間死刑囚の刑執行 福島の2人殺害死刑囚も‥‥】 (『毎日新聞』 10月28日の記事より         (滝尾)                                                                                                                                                                                                   投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/11/01(Sat) 10:54  

【死刑執行:福岡・飯塚2女児殺害、久間死刑囚の刑執行 福島の2人殺害死刑囚も】

 法務省は28日、2人の死刑を執行したと発表した。執行されたのは久間三千年(くまみちとし)(70)=福岡拘置所収容▽高塩正裕(55)=仙台拘置支所収容=の2死刑囚。執行は9月11日以来で今年に入り5回目。森英介法相の命令は9月の就任以来初めて。

 死刑執行は法相の命令が出なかったことによる約3年4カ月の中断後、93年3月に再開され、以後75人が執行された。現在の確定死刑囚は101人。

 確定判決などによると、久間死刑囚は92年2月、福岡県飯塚市の路上で小学1年の女児2人(いずれも当時7歳)をわいせつ目的でワゴン車に乗せて、絞殺した。高塩死刑囚は04年3月、福島県いわき市の無職女性(当時83歳)方に押し入り、女性と次女(当時55歳)を刺殺し、現金を奪った。久間死刑囚は06年9月に最高裁で死刑確定。高塩死刑囚は06年12月に上告を取り下げて確定した。高塩死刑囚は事件から4年7カ月、確定から1年10カ月での執行だった。

 今年に入っての死刑執行は鳩山邦夫元法相下で3回(2、4、6月)、保岡興治前法相下で1回(9月)。ほぼ2カ月に1回執行され、大臣が相次いで代わった後の今回もペースが維持された。【石川淳一】

『毎日新聞 2008年10月28日 西部夕刊』

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【「国際世論に背」 死刑執行に議連・市民団体が声明 】
2008年10月28日19時33分

 法務省が28日に2人の死刑を執行したことを受け、「死刑廃止を推進する議員連盟」(会長、亀井静香衆院議員)や死刑に反対する市民団体は同日、抗議声明を発表した。議連事務局長の保坂展人衆院議員は「今年になって5回目で、計15人が執行される異常事態。国際世論に背を向けている」と話した。

 ジュネーブにある国連規約人権委員会は近く日本政府に対し、死刑制度などについて勧告を出すとみられる。このため議連では、「国連から何を言われても関係ないという意思表示にみえる」と政府を批判する声も出た。

 国連規約人権委員会の10月の審査では、日本の死刑や代用監獄制度などをめぐり、「10年前の前回審査時から問題提起に十分対応していない」などといった批判が相次いでいた。



[1841]  日本の人権状況を審査してきた国連の自由権規約委員会は30日、死刑制度の廃止を前向きに検討するよう日本政府に勧告した最終意見書公表!                                                                                                                                                               投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/31(Fri) 19:18  


【死刑廃止、前向きに検討を=日本政府に勧告−国連委】

 【ジュネーブ30日時事】日本の人権状況を審査してきた国連の自由権規約委員会は30日、死刑制度の廃止を前向きに検討するよう日本政府に勧告した最終意見書を公表した。

 第2次世界大戦中の従軍慰安婦問題でも、謝罪と補償措置を求めるなど、日本に厳しい注文が多く出された。


 同意見書は、日本での死刑の執行件数が近年、増加したことに懸念を表明。執行当日まで事前の告知がないことや、高齢者に実施されたことなども問題視し、「日本は死刑廃止を前向きに検討すべきだ」と勧告した。

 従軍慰安婦問題では、これまで行われた元慰安婦への補償措置を、「十分ではない」と批判。日本政府に対し、同問題での法的な責任を受け入れるとともに、被害者の大半が受け入れるような十分な謝罪と適切な補償措置を早急に講じるよう求めた。(2008/10/31-05:50)



[1840]   【島田等さんを偲んで】 〜10月20〜23日までの四日間の旅日記(上)〜    (滝尾)                                                                                                                                                                                              投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/29(Wed) 12:34  


 【島田等さんを偲んで】 〜10月20〜23日までの四日間の旅日記(上)〜


 島田等さんの「ふるさと」での海上での「満十三周忌」、長谷寺門前の宿「大和屋」に一夜と午前6時から山腹にある「十一面観音像」の山全体に響けよとのお経を聴いた感動、奈良坂の中程にある般若寺(中世以降は真言律宗)と北山十八間戸、十三世紀に叡尊、忍性の「非人救済=統制」、などなど、慰霊と巡礼の旅の報告文を書きました。(未完)

              人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

               2008年10月29日(水曜日)12:33

      ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 2008年10月20日(月曜日)の午後4時40分から、日没の時間まで「島田等さんの満十三周忌」を島田さんの「ふるさと」の海上で、私たちは致しました。海浜の波止場から動力付の木造りの「小舟」を一艘かりまして、海上での「十三周忌」になりました。

 関東からも、京都や中国の地からも、10月20日の午後5時35分、長島愛生園で亡くなられた島田さんを慕う人たちが三重の海浜に集まっての「海上での十三周忌」でした。その後も、慰霊と亡き人たちの旅をつづけました。これは、その時の報告文です。


 台風18号が太平洋上にあったので、木造の「小舟」の古老の船頭さんは、海上に出ることを最初は危惧していましたが、「まあ、このぶんの波なら、大丈夫でしょう」ということになり、私たちをのせて、「小舟」は係留した岸辺の波止場を離れました。


 さっそく、乗った「小舟」のなかに、島田さんの所縁の品々を置きました。「万霊山納骨堂には骨つぼだけを、骨は、故郷の海へ」。島田さんはそう言い残された(『病みすてられた人々』論楽社、49ページ、125ページ)と言います。私たちは満十三年後、その島田さんの遺言を、果たそうとしたのです。これは以前からの私の強い願いでした。

 ご遺骨のまえには、島田さんが好きだった「野の花」を、島田さんの愛用の民窯の小壷に生けました。「島田さんは野の花が好きだったという。愛用の布の手さげ袋には、いつも野の花が二、三輪のぞいていたと『しのぶ会』で阿部はじめさんがかたった」(『病みすてられた人々』124ページ)といいます。関東の方が、白い小菊(野菊)の花を持参。私が島田さん愛用の民窯の小壷を持参しました。

 また、名古屋在住の私の長女が、名古屋駅まで、当朝採ったあいちそだちの「いちじく」を持ってきたので、島田さんのお骨にお供えました。なつめ、いちじくは島田さんの好物だったといいます。「島田さんのお家の前にもあるもんで島田さんは丹精していた。『肥料をやってくれ』と島田さんは宇佐美さんに言い残していた」と論楽社の上島聖好さんは、「さようなら、島田等さん」(『病みすてられた人々』124ページ)に書いています。その上島聖好さんは昨年の10月28日に逝去されています。


 広島の自宅から小型のオージオで、最初に「涙そうそう」(作詩:森山良子、作曲:BEGIN)を、ついで「インタナショナル」をかけました。島田さんは日本共産党長島支部長として死去されました。お棺は赤旗に包まれてはいましたが、「労働歌」も「革命歌」もかからないお別れの会であり、焼き場での集会であったことが、この十三年間、私には理解出来なかったからです。「小舟」のなかで私は、「インター」など「労働歌」「革命歌」を大声で歌いました。


「あのとき、河から海に向かって、飛翔していった鳥が一羽いましたね。日没時の夕陽のすばらしい色と光。島田さんの魂にふさわしい景色であったように思いました。」
 
 これは後日、私に送られた島田さんの「十三周忌」にお出でになった友人から送られたメールの記述です。実に感動的な、ひと時でした。

 約40分ばかりの海上での島田さんの「十三周忌」でした。しかし、この日の島田さんの「十三周忌」の夕暮れのひと時を、私は生涯忘れられないでしょう。

 駅から小舟が係留してある波止場までの往復路は、大型の自家用車で、昭和二十六年生まれ(1951年生まれ)の船頭さんのつれあいの方が、このまちの説明をしながらの運転でした。自分が幼児・少女時代のころは、このあたりは田園風景がひろがっていたこと、そして漁師の亭主は、このまちの人で七つ年上の同郷の知り合いであることなど話してくれました。だから、島田さんが、1947年5月、この「ふるさと」から、長島愛生園に収容された頃は、このあたりはまったくの農漁村であったはずです。

 夕食は、船頭のおかみがこのまちの小料理屋へ連れていってくれました。


 午後九時まで、島田さんを偲んで、地酒の冷酒を土地の海産物を肴にして、話し合いました。京都の洛北から来た「論楽社」の旧友が、赤旗に包まれた島田さんのお棺の写真や、愛生園と光明園の間の山すそにある焼き場で、青い空に白い雲が浜風に吹かれて大空にのぼり流れてゆく十三年前撮った写真を、私たちに見せていただきました。

 それぞれの島田さんへの想いを語り合って、その夜は島田さんの「ふるさと」に、宿をとりました。




[1839] 蛸壺からの脱出 投稿者:北風 投稿日:2008/10/27(Mon) 18:28  


在関西のいくつかの団体と連絡がついて、セミナー共催の見通しが立ってきた。
裁判以前からハンセン病問題について活動してきた、これらの団体・個人が、このセミナーを軸に集まり共催することは、内容とともに意味があると思っています。

滝尾さんにもぜひ体調を回復・整えて参加していただきたいと思う。
そのためにも、加療に勤められて本復を祈ります。



[1838]   10月20〜24日までの詳細文が、途中までしか書けません。もうしばらく、ご猶予ください。  (滝尾) 投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/25(Sat) 11:30  


 島田等さんの「ふるさと」での海上での「満十三年忌」、長谷寺門前の宿「大和屋」に一夜と午前6時から山腹にある「十一面観音像」の山全体に響けよとのお経を聴いた感動、奈良坂の中程にある般若寺(中世以降は真言律宗)と北山十八間戸、十三世紀に叡尊、忍性の「非人救済=統制」、などなど、報告文を書きかけましたが、10月23日以降、連日、安佐市民病院、高用整形外科医院などへ行くこと、服薬の変化などにともなって、体調の変化などあって、10月20〜24日までの詳細文が、途中までしか書けません。もうしばらく、ご猶予ください。

            人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

              2008年10月25日(土曜日)11:20

      ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥



[1837] 悼 沢田五郎 投稿者:北風 投稿日:2008/10/24(Fri) 21:49  

沢田五郎さん

澤田さんの短歌はもちろん、小説の人物造形には、深い人間洞察とユーモアがあって、裁判以後の金太郎飴のような話とは一味違っていた。
また、どこか上州侠気の風があって、これは二郎さんにも通じたが、より五郎さんから匂った。
新作にも意欲を燃やしていたというが、旧作にも捨てがたい味があって、ぜひまとめさせてもらいたいと思っていた。

一九三〇年四月二九日群馬県生まれ。一〇歳で発病。翌年粟生楽泉園に入所。一九四九年から目を病み、五五年失明。五一年から作歌をはじめ『風荒き中』(一九六七新日本歌人協会)、『朴の風ぐるま』(一九八〇新日本歌人協会)、『その木は這わず』(一九八九皓星社)、『まなうらの銀河』(一九九六新日本歌人協会)、『夜のほととぎす』(二〇〇二生活ジャーナル)。『野ざらし』(一九九一年ぶどうばん通信)、『とがなくてしす―私が見た特別病室』(一九九八ぶどうばん通信)。作品集『その土の上で』(二〇〇八年皓星社)
二〇〇八年十月二十三日逝去。


悲しき人ひとりふえたり秘めおきしらいのうからを義姉(あね)は知りける

峡の村見下ろす位置にわが母の奥津城造ると聞けば慰む

わが歌集兄は涙して読みしとぞ材木相手のあらくれの兄よ

何も彼も振り切らねばならなかった峠旅人として入りゆく故郷の村

疑わず官邸に撃たれしアジェンデに捧ぐ言葉ただ一つわれら続くべし

日韓条約の批准はばまんビラ撒くと同志らはたてり風荒き中

性根据えらいの一生を生きるべし嘆きの日々は空白に似る

嫌悪感かりたて来るらい予防法撤廃し詫びただけではすまぬ

戦争法盗聴法と強行し深まる闇の夜のほととぎす



[1836] Re:[1835] [1833] 上田婦長さん 投稿者:あさしお 投稿日:2008/10/24(Fri) 09:58  

>
> こられなくなったのは、スケジュールの都合だそうです。
> 婦長さんはいたってお元気とのこと。
>
>
このところは南京大虐殺の証言者として講演などにひっぱりだこのようですね。

昨年きいた話の中で感動したのは、近藤さんたちの楽団を外に連れ出しりっぱに興業させようとしたこと。患者元患者の看板があればイベントに呼んでくれるという時代じゃありません。そこを東奔西走してマネジメントして。単なる証言者としてではなく、職員ではありますけれど今ハンセン病に関わるわたしたちの先輩、先人、先達というのか、闘う上田さんの実践を知ることはとても大きいと思いました。




[1835] Re:[1833] 上田婦長さん 投稿者:北風 投稿日:2008/10/19(Sun) 14:27  

> 来られないことになったそうです。残念ですけど、きっとまたなにかの折りに。

こられなくなったのは、スケジュールの都合だそうです。
婦長さんはいたってお元気とのこと。




[1834]  「死ぬことと生きること」土門拳著(築地書館、1974年1月発行、26〜80ページ<部分>)より                                                                                                              投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/19(Sun) 11:45  


「死ぬことと生きること」土門拳著(築地書館、1974年1月発行、26〜80ページ<部分>)より


 実は、八日前の土曜日の夕刻、「カラオケ喫茶・城」から帰宅するため、「文教女子大前=安佐市民病院前」の停留場でバス待ちしていた。当停留場はベンチが二つ、照明も明るくついていた。停車場」に着いたのは、17時50分。停留場のバス時刻表を見ると、深川経由の自宅の上小田バス停に行くバスは、18時09分しかなく、約20分ほどの待ち合わせ時間があった。

 祇園・横川経由の広島駅行きは多く、18時01分をはじめ18時09分までに3本もあるのに、深川経由のバス少ない。おまけに可部高校や文教女子大付属中高校に通う生徒の帰宅はなく、私は「携帯」の時刻盤を盛んに見ながら18時09分に同停車場へ来る広島交通バスを待っていた。ところが、18時09分に来た「バス」は、手押し車を持って停車場で私を無視して、停留場には停車せず、私の大声で「停車して!」という声を聞いてか停留場から70mほど先に停車した。ところがそのバスの後には、二台の自動車が滑り込んで、来て、バスは後すだり出来なくなった。

 私は、手押し車の柄を握って止まったバスを追っかけて行く途中、脚を滑らして「車道」に倒れた。幸い、倒れた車道には乗用車がいたが、急ブレイキをかけて、車から中年の女性が車道に転げている私を起してくれた。この中年の女性が、そのまま止まらなかったら、交通事故で救急病院へ行くところであった。まだ、いのちがあれば幸いである。交通事故で死亡という事態になっていたかも知れない。その時を想像するだけで、ゾーッとする。

その時の車道転倒で、右手の三本の指からは、地が第二関節のところから吹き出て、チッシュで拭いても、拭いても止まらない。「糖尿病」で、血液が凝結しない薬を服薬しているせいもある。しかし命があったから、三重の島田等さんのふるさとの海上へ、「満十三回忌」に有志の何人かと、どうにか参加出来る。それを喜ばなければなるまい。

 何で、バスは停車場に停車しないで、素通りするのか。明らかに「過密ダイヤ」を会社が、運転手に言った結果であると思う。バス会社の幹部・役員たちは、口では運転手たちに「安全運転」を唱えても、停車時間があり、バス停留場の素通りするバスは、多いことに気づく。これは運転手の問題というよりも、「過密ダイヤ」を容認している行政当局とバス会社の問題といえよう。「福祉バス」が少ないのも問題である。

 左手は、右の医梗塞で麻痺し、利き手の右手は親指と3指が負傷し、残された右手の人指し指だけで、パソコンのキーを打っている始末である。そんな8日前の体験をしたので、以下の土門拳著『死ぬことと生きること』の書かれている内容が、実感として理解できる。やはり、人生経験・体験は読書する上には、必要なのかも知れないと思った。

               人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

              2008年 10月19日(日曜日)11:45


        ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 (前略)‥‥‥もちろん、人間というやつは、なかなか死なないものだという逆の事実もあるだろう。ぼく自身、生命というものの逞しいしぶとさに驚かされた経験も一度や二度ないわけではない。しかし、問題は、生命の逞しさではなくて、そのもろさにあり、死の不測性にある。人間というやつは、いつかどうかして、不意に死ぬかもしれないということが問題だ。

 こどもを遠足に出す日、いつもは十時か十一時でなければ起きないぼくが、自分から朝早く目を覚まして見送ったが、それから夕方帰ってきた姿をみれば、それまでの話なのだが、それはほとんどの親が経験する不安だろう。しかし、遠足にだけ不安を感じるのは、意味ない話だ。毎日毎朝、学校へゆくのも、実は同じ不安があっていいはずのものなのだ。遠足や修学旅行だけが不安で、毎日の登校は安心だという保証がどこにあるか。

ある夏の午後、雑誌社へ撮影の打合せに出かけた。一、二軒まわって、夕方帰ってみると、ぼくが出かけるとき玄関で見送っていたこどもは、奥の三畳間に顔を白い布でおおわれて寝かされていた。枕もとには線香の煙がたゆとうていた。白い布の下には、眠っているような顔があった。しかし、呼べど叫べど、その目は二度と見ひらかないのだった。いつもはぼくの顔さえ見れば必ずニッコリと笑いかけたその唇も、二度とほほえんではくれないのだ。絶対の死が、こどもの全身をつつんでいた。夢にも考えてもみなかった厳粛な事実が、そこにあった。

 数時間前、「ジープ買って……」と、おもちゃの自動車をおみやげにねだったその子の声が、まだ、ぼくの耳に残っているというのに――。

 それは、母親にとっても、同じだ。友だちととんぼとりにゆくというので、洗いたての白いチャンチャンコに着替えさせて出したその子が、それから十五分後に、その白いチャンチャンコに青い藻草をからませて防火用水池に落ちて沈もうとは――。そしてその子が声も立てずに防火用水に落ちたその時刻に、家ではその子の母親はその子に食べさせるつもりで西瓜を切っており、その子の父親はしがない稼ぎのために家路とは逆の方向へとひたすら歩いていようとは――。しかも、その日のまる三年前、その子のおばあちゃんは、自分のかわいい孫が、まる三年後にはそこで死ぬことになるとも知らずに、隣組総出のなかにまじって、その防火用水池を作る土をっせっせと運んでいたとは――。


 人間はなかなか死なないものだと、誰がいおうとも、ぼくは信じない。人間の善意や愛情とかかかわりなしに、死は、不意に、容赦なく襲ってくる。現にぼくたちは毎日街を歩いていて、自分たちのそばを走り去るトラックや円タクに、何度、ハッとさせられているかわからない。駅のプラットホームでも、風を捲いて進んでくる電車に、何度、目まいに似たものを感じさせられているかわからない。いわば、死は、日常不断にぼくたちの一メートルのそばを走り去っている。死と生とは、すれすれに隣合っている。死か生か、二つに一つの厳粛な結果だけが、事実としてぼくたちの生活の瞬間瞬間を決定しているのだ。

                   (以下、十二行は後略します。=滝尾)

            ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥



[1833] 上田婦長さん 投稿者:あさしお 投稿日:2008/10/18(Sat) 17:07  

来られないことになったそうです。残念ですけど、きっとまたなにかの折りに。


[1832]  明 成 園」 (土門 拳著『死ぬことと生きること』築地書館;1974年1月発行、82〜85ページ)<未発表> の紹介 ; いわば千人の人権を守るために一人の人権は無視されてもやむないという考え方                                                                                                                                         投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/18(Sat) 04:17  


 「明 成 園」(土門 拳著『死ぬことと生きること』築地書館;1974年1月発行、82〜85ページ)<未発表> の紹介


 私は、「原爆被爆者の問題」、「非差別部落問題」、そして「ハンセン病問題」など、若い時代(とき)から、人権問題に関わってきた。かれこれもう、六十年間もである。しかし、過去を振り返って、大きな自戒の念にかられている。

 それは、「大の虫のために、小の虫を殺す」ということ、つまり、土門拳さんの言葉をかりれば、「いわば千人の人権を守るために一人の人権は無視されてもやむないという考え方」を過去、私はしてきたのではあるまいか、という自戒と反省である。

 写真家である土門拳さんは、こうもおっしゃっている。「人権の基本的な考え方は、一人の人権を無視しないということ、むしろ一人の人権を尊重するところにこそ人権の真の意義があるはずである。」と書いておられる。(土門 拳著『死ぬことと生きること』築地書館;1974年1月発行、85ページ)

 私は、この文章を読んで、人権問題に関わってきた自分の過去の行為を顧みて、愕然とした。そしてまた、こうした自戒と反省とが、人権問題に関わっている人たちにの中にも、欠けてはいないだろうか。そう思いながら、「明 成 園」(土門 拳著『死ぬことと生きること』所収;築地書館(1974年1月発行)を次に紹介する。何かの参考になればと、祈念している。(滝尾)


               人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

               2008年10月18日(土曜日)04:02

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 「土門 拳著『「明 成 園」(土門 拳著『死ぬことと生きること』所収;築地書館(1974年1月発行)より

 明成園の保母のうち二人は戦争未亡人、二人は「原爆乙女」である。いずれも戦争の生んだ犠牲者である。そして二人の原爆乙女は、身体障害者である自分をかえりみて、やはり身体障害者である盲児たちの世話をすることにせめても生甲斐を見出した女性である。不幸な者が不幸な者を励まし、逆にまた相手の不幸な者に励まされるという関係を自ら自覚のもとに設定した女性である。

 ぼくはこの「盲児と原爆乙女」というこの人間関係の中に、人間的な美しさと同時に、社会悪の生んだ人間の実存の姿をとらえようとしたのだった。社会福祉施設としての盲児施設は何も広島だけにかぎらないのに、特に広島の明成園に撮影の情熱を燃やした理由もそこにあった。

 しかしいざ撮影にかかってみると、盲児たちはともかく、原爆乙女の保母たち二人は、どうもこっちのねらいのようには撮れなかった。一度行き、二度行き、三度行きしながらも、思うように撮れなかった。それは彼女たちが、顔や手足のケロイドを隠したがるからだ。隠したがるというよりも、無意識の自然の動作では、決してケロイドのある顔なり腕なりがそれとわかるようにはカメラの前に出さないのだ。ぼくはついに、先天性にせよ後天的にせよ、とにかく戦争と無智と貧困という「社会悪」の生んだ犠牲者としての盲児たちにねらいを絞ることにして、それとの組わあせとしての原爆乙女というねらいを途中から放棄してしまった。

 見せたがらず、隠したがっているケロイド、それは彼女たちが「原爆乙女」であることを写真の上で視覚的に実証するほとんど唯一の要素なのだが、そしてそれがはっきり写真の上で見る上で見る人の視覚に訴えないかぎり、普通の保母とどこも変っては見えない要素なのだが、だからといって、「ケロイロがよく見えるように」「隠したり、うつむいたりしないように」と注文つけられるだろうか? それは人の古傷をわざわざまさぐるような不人情な仕業ではなかろうか? それを注文つけることは、自分が無意識のうちにもケロイドを隠すような癖がついてしまうほど劣等意識を持たざるをえない肉体であることに、今さらに突当らせることでもある。

 ただ自分が撮りたい写真のために、そこまで相手を、しかも一応の好意をもってこっちのカメラの対象となってくれている相手の心を傷つけてもいい権利が、写真家にあるだおうか? 何も彼女たちは写真のモデルになるために一生消えないケロイド、医学用語ではあまりにも即物てきな「醜形」を「瘢痕」をこそなまなましく撮って、原爆の非道と残忍を社会へ訴えてくれと積極的な態度をこっちに示した被爆者でないかぎり、あえて注文つけることは、そしてあえて撮ることは遠慮しなければならないはずである。


 見せたがらず隠しているものを油断を見すましてかすめ撮るということだってできなくはない。もちろん、撮ろうとすれば撮れなくないはないだろう。日頃練習しているスナップ技術はそういう撮影にこそ役立つはずである。しかし見せたがらず隠しているものを見事にかすめ撮るという行為自体、やはり写真家の自己本位な、いわば功名手柄主義敵な根性の表われなような気がして、ぼくは自己嫌悪を感じずにはいられない。また、もし撮る方がいいとが必要ならば、相手の不快も迷惑もかえりみずに撮らなければならず、撮る方がいいという考え方もある。

 それは決して写真家の個人的な功名手柄主義ではなく、社会悪を摘出暴露するために撮るのだという「大義名分」を振りかざした考え方でもある。それは昔から言う、大の虫を生かすためには小の虫を殺すこともやむをえないという考え方にも通ずるが、殺される小の虫の身にもなってみる必要があろう。いわば千人の人権を守るために一人の人権は無視されてもやむをえないという考え方でもあるが、人権の基本的な考え方は、一人の人権を無視しないということ、むしろ一人の人権を尊重するところにこそ人権の真の意義があるはずである。

 要するに、見せたがらず、隠したがる相手の身になることだ。そしてその相手の身になれば当然撮れない。そしてあえて撮るということは、相手の身にならないということでもある。

 しかし理由がなんであろうと、常に写真家としては、撮るかとらなかの二者択一しかない。そして撮らないことは写真家としての負けであり、失格である。それなら、相手の感情をどんなに傷つけようが、撮るべきか? つまり大の虫のために小の虫を殺す手段に出るべきか? ここでも写真家という職能と人間とが引き裂かれていることを感ずる。もし人間という言葉が大げさなら人情と言い直してもいい。すると、写真家魂とは、不人情と抱合わずには成立たないのか? ぼくは迷ったままだ。この二つを矛盾なく統一する道hあるのかないにか? ぼくはいまだに迷ったままだ。
           ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥


[1831] ベッタリ! 投稿者:エミ 投稿日:2008/10/17(Fri) 11:44  

「資料館だより」第61号(2008年10月1日)に、「大谷先生を名誉館長に推戴」という記事が掲載されている。
記事の冒頭には「九月十日、当館特別室内において前館長である大谷藤郎氏に対し、名誉館長の任命授与式が執り行われた」とあり、続けてこう書かれている。
「大谷氏は一九二四年生まれ。京都大学医学部進学の後には、ハンセン病患者の絶対隔離政策を批判した小笠原登博士の診療助手を務めた。その後、一九五九年厚生省に入り、国立療養所課長、公衆衛生局長、医務局長、大臣官房審議官等を務め、一九八三年、退官した。退官後も公衆衛生審議会会長や財団法人藤楓協会理事長、リハビリテーション振興会理事長、国際医療福祉大学総長等、医療福祉関係団体の多くの役職を歴任し、高松宮記念ハンセン病資料館設立時には館長に就任した。一九九三年にはこれまでの功績が認められ、WHOレオン・ベルナール賞を受賞した。
 今回の大谷氏への名誉館長への推戴については、氏が二〇〇七年三月に館長を退任されるまでの一四年に渡る長年の功績と当館の目的でもある人権啓発活動の重要性を説き、自ら積極的に行ったことへの高い評価によるものである。」

 (ここで、またどうして大谷藤郎氏を名誉館長に担ぐのか?
 まったく反省のない厚労省! に加えて、
 まったく反省のないふれあい福祉協会!
 国立ハンセン病資料館を、藤楓協会をそのまま継承しているふれあい福祉協会から解放せよ! と言いたくなりませんか?)

 藤野豊氏は、『ハンセン病 反省なき国家――『「いのち」の近代史』以後』(かもがわ出版、2008年5月10日初版第1刷発行)「第2章「救癩」思想と皇室――「御仁慈」の押し売りと過ちへの無反省」の中で、2003年3月の藤楓協会解散にあたって発行された『藤楓だより』最終号に掲載された「協会の思い出語る『五十年史』編纂に」という座談会について、その出席者の発言内容を紹介し、大谷氏発言、および、大谷氏発言に迎合し氏を持ち上げる全療協および自治会の代表等の発言内容にも触れ、こう言っている。

「平沢、佐川、曽我野各氏のような戦後ハンセン病療養所の自治活動に深く関わってきたひとびとが、なぜ、自らの主体性への誇りを棄て、ここまで藤楓協会と大谷藤郎氏に媚びねばならないのかと胸が詰まる」と。

 因みに、この座談会の出席者は、以下に挙げる7名;
○藤楓協会理事長・元厚生省医務局長:大谷藤郎
○国立療養所所長連盟会長・大島青松園長:井上慎三
○全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)会長・伊藤文男
○全療協事務局長・神美知宏
○多磨全生園入所者自治会長・平沢保治
○高松宮記念ハンセン病資料館運営委員・佐川修
○大島青松園入所者自治会長・曽我野一美

 このなかの数名は、ふれあい福祉協会の理事・評議員にお名前を連ねておられる!
 (このベッタリ体質、改善されるつもりはないのか?)



[1830]   棺の上に飾る写真  (土門 拳著『死ぬことと生きること』 築地書館; 1974年1月発行、33〜41ページ)より                                                                                                                                                                              投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/15(Wed) 22:31  

 棺の上に飾る写真  (土門 拳著『死ぬことと生きること』築地書館;1974年1月発行、33〜41ページ)<初出:『風貌』(一九五三年)より>


 先日、ホームページで滝尾がご紹介しました論楽社編集部編『病みすてられた人々―― 長島愛生園・棄民収容所』(論楽社ブックレット 第7号、1996年6月発行)に収録されている「長島は宝の島――私の旅日記」で“さようなら、島田等さん 一九九五年十月二十五日”をお書きになった上島聖好さん(論楽社編集部)は、論楽社代表・虫賀宗博さんに連絡しますと、昨年、亡くなられたそうです。

謹んでご逝去された上島聖好さんのご冥福をお祈りします。

 島田等さんの「満十三年忌」を来る10月20日に、島田さんの「ふるさと」の海上で行ないますが、論楽社の虫賀宗博さんと、上島聖好さんを電話で、お誘いしたところ、虫賀さんからそのことを、お聞きしました。まだ、お若い上島聖好さんのご逝去です。たいへんこころを痛めています。この「棺の上に飾る写真」(土門 拳著『死ぬことと生きること』築地書館)も上島聖好さんを偲んで書きました。(滝尾)


        人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二・謹写す

           2008年10月15日(火曜日)22:22

        ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 水たまり
 松の雪が映っている
 ぽとんと雫がおちて
 また
 松の雪が映えている

 これは、まるで、写真だ。いや、写真としも、非常に美しい写真だ。「雪の朝」と題する草野天平の詩である。

 その天平が死んだ。一昨年の夏、飄然と旅に出て、比叡山松禅院に滞在していたが、そこで肺病で寝込み、昭和二十七年 四月二十五日午前二時、ついに死んだ。享年四十三歳。この「雪の朝」など三十三篇の詩を集めた「ひとつの道」一冊が残った。

 旅へ出る前、別れに着たが、それが最後だった。丁度夏枯れで、文無しだったぼくは、選別もやらなかったように思う。比叡山に登ってからも、藁半紙何枚かに詩論を書いた長い手紙を貰ったが、それにも返事をやらなかったように思う。ところが、先日、天平の実兄草野心平氏から電話がかかって来て、天平の命はもはや時間の問題で、これから比叡山へ見舞に行くと言う。高橋錦吉からも追掛けるように電話がかかって来て、見舞金カンパに応じてくれと言う。その見舞金が、結局、香典になってしまった。


 人は死んでゆく
 また生れ
 また働いて
 死んでゆく
 やがて自分も死ぬだろう
 何も悲しむことはない
 力むこともない
 ただ此処に
 ぽつんといればいいのだ

 「宇宙の中の一つの点」と題する天平の詩である。そして、天平も死んで行った。
天平とは昭和十四年以来の親友である。天平は婦人画報の編集部にいた。ぼくの撮影の担当記者だったが、すぐに仕事の関係以上の仲良しになった。その頃結婚したばかりの天平を、中野あたりのアパートに訪ねたこともあった。ガランとした部屋の片隅に、蜜柑箱が一つあるだけで、飯茶碗が二組、布巾で覆ってあった。その時の奥さんも、戦争前に、男の子一人を残して死んでしまった。

 糸巻の糸は切るところで切り
 光った針が
 並んで針刺に刺してある
 そばに
 小さなにっぽんの鋏が
 そっとねかせてあった

 妻の針箱をあけて見たとき
 涙がながれた

 「妻の死」と題する天平の詩である。
 戦争中、天平はその男の子と福島県の田舎へ疎開した。百姓家の土蔵に住んでいた。その頃はもう詩に専念していた。文無しの天平がどうして生きているか心配だったが、こちらもどうして生きているのか不思議なような生活だったからどうすることも出来なかった。上京するたびに、ぼくの家に一晩か二晩泊っていったが、味噌汁一杯のおかずでも、大豆を茹でた代用食でもニコニコしている気のおけない食客だった。家の女たちからも天平は好かれ、大事にされた。
 最後に会ったころの想い出を三つ書いて置こう。


 ぼくが書きかけの原稿を天平に読ませたら、その中にあった「青い空」の「青い」を取って、ただ「空」と書いただけで、それが晴れた空であることがわかるようでなければならぬと言った。言われてみれば、なるほど、その通りだった。しかし、ぼくの下手な文章では、「青い」を取るわけにはいかなかった。「青い」を取れ、取らぬで議論になった。ぼくはとうとう取らぬことにした。それにしても、ぼくは、天平がいつのまにか言葉に対して詩人らしい潔癖さを持ったことに感心もし、嬉しくも思った。ぼくが詩というものを少しはわかるようになったとすれば、その議論以後である。

 ぼくは天平と銀座へ出かけた。天平と一緒に歩いていても、ぼくはせっかちだからどんどん歩く。フト気がつくと、天平は一丁もうしろを悠々と歩いている。ぼくは仕方なしに待っている。またかたを並べて歩いていると、天平がいない。いつのまにか一丁もうしろになっている。またぼくは仕方なしに待っている。「オイ、急いで歩けよ」と言うと、「急ぐと、詩のリズムが乱れる」と返事する。いまいましいことには、天平は決してぼくと歩調を合わせようとしなかった。

 銀座四丁目の交差点で横断の青信号を待っていた時、フト天平は「月が出ている」とつぶやいた。カンカン日が照っている真昼間である。「ヘェ、月が出ている?」とぼくは空を仰いだが、もちろんどこにも月などは見えなかった。すると、天平はまた「潮騒が聴える」とつぶやくのだった。

 銀座四四丁目から築地の方へ十丁も行けば、東京湾があることは確かである。しかし、波の音など聴えるはずはなかった。ただブゥブゥという自動車の警笛と人の足音などが一緒になった都会的な雑音が、さわがしばかりである。しかし、ジーッと耳を澄ましていると、その騒然たる雑音の底に、何だか潮騒が聴えて来るような気がしなくもない。天平の言葉から、ぼくは自己暗示にかかったのかも知れなかった。そういえば、キラキラと銀粉を撒いたようなに晴れた空の底に、月がのどかにかかっているような気も気もして来るのだった。


 さて、天平が死んだと報られて、ぼくにハッとしたことがあった。天平の写真である。家の女たちにも訊いてみた。誰も天平の写真を憶えていない。すると、ぼくは一度も天平を撮ったことがないのだろうか。ぼくはあわてた。気を落着けて、付合って以来の記憶をたどってみた。やっぱり、一度も撮った記憶がぼくにもなかった。

付合って丸々十五年、ぼくはライカも持っていたし、ローライも持っていた。戸外で一枚パチリとやることなど、造作もない話である。それなのに、ついに一枚も撮ったことがないなどとは、これは一体どういうことだろうか。

 ぼくのほかに田村茂も親友だったし、藤本四八、光墨弘、若松不二夫、越寿雄なども付合いがあったはずである。その中で誰かが天平を撮っていないだろうか。田村が撮っていてくれていればいいのだが、田村もぼくと同じように気楽にカメラを取出す男ではない。とすると、少なくとも、天平が詩人として立った以後の写真は、この世に一枚もないということになりかねない。

 写真家を大勢友達に持ちながら、十五年もの長い間に一枚の写真も撮って貰えないことは、こんな友達甲斐のない話があるだろうか。葬式が数日後に迫っているというのに、棺の上に飾る写真がないなどとは、誰よりもぼくは、天平の霊に慙愧しなければならない。


 本当に今後は生きているということを、本人も周囲の者も、お互いに仇やおろそかにしないことにしよう。昔から老少不定という通り、今日生きているということは、必ずしも明日も生きているということを保証しはしないのである。それはわかり切ったことである。しかし、誰もが忘れているのである。明日も、そして来年の今日も当然生きているつもりでいる。だから、誰も棺の上に飾る写真を用意しようなどという気を起さないのである。そして本人がまだまだ長生きするつもりでいるのだから、周囲の者も葬式用の写真を撮って置こうなどということは、言い出しにくいわけである。

 しかし、人間は誰しも死ぬ。しかも、思いがけずに死んだりする。残された家族があわてて写真を捜す。大抵、手札判かカビネ判ぐらいの写真はある。しかし、棺の上に飾るには小さすぎる。引伸したいと思っても、何年も前に撮ったのでは、よしんば撮った写真館がわかっていたとしても、原版がない場合の方が多く、大急ぎで複写して貰うという騒ぎになる。

 しかし、手札判にせよ、晩年の一人写しの肖像写真があればいい方で、何かの記念写真で、豆粒ほどに大勢写っている中から、この人だけを抜いて、四切判に引伸ばしてくれないという無理な注文がよく来るものだ。

 死んでしまったら、写真は撮れない。生きているうちにこそ、出来れば、その生涯の最も油の乗った時代にこそ、写真は撮って置くべきものだ。そして、四切判ぐらいに引伸ばして、額仕立にして置くべきものだ。今後、生きているということをいとおしむ人権尊重の立場は、写真の上にまで瞭然と延長さるべきである。
       ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥



[1829] 感動と怒り 投稿者:北風 投稿日:2008/10/15(Wed) 11:48  

己の問題としてとらえる誠実さと、作品の不出来を他人のせいにするあざとさ。

> 処刑後の再審活動に触れたとたん「必死なまでの関原弁護士の問いかけに対し 活動から運動 への転換をできなかった原因は・・・私たちにあった、関原さんには本当に申し訳ない・・・!」と、冷静な章子さんが声を荒げた事には・・・驚かされました。

> 「私も映画が何を訴えているのかが、少しぼかされていると思いましたが、何でも、ご遺族の方々の反対がありあのような映画にせざるを得なかったと、聞き及んでいます」




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