ハンセン病の闘いの歴史に学びともに考えるBBS
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[1791] 滝尾さんから。 投稿者:北風 投稿日:2008/09/29(Mon) 15:54  


明後日退院というお知らせがありました。
足のむくみも引いて調子いいそうです。

声に張りがあったので、だいぶいいように感じました。




[1790] 小さな 「こだわり」 か !? 投稿者:夕焼け 投稿日:2008/09/28(Sun) 13:58  

  「風化させないように懸命にがんばっている方々」
yoonglee さんの投稿の一文です。

[1735] ゆかりの人 投稿者:yoonglee 投稿日:2008/08/17(Sun) 17:10
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200808171058230

続いて、
エミさんの投稿…、「叫びたし寒満月の割れるほど」

[1738] 無題 投稿者:エミ 投稿日:2008/08/18(Mon) 03:38
http://blog.goo.ne.jp/fukuoka_jiken/e/0e0079ec6eeb58ead345e423a56bd00c


このお二方の投稿(「福岡事件」)は、私に自然と「F事件」を投影させてくださいました。

特に、
   「叫びたし寒満月の割れるほど」
この作品を眼にした時、M夫さんの、

「小さな望み」
押し鮨のように
狭っ苦しい箱の中に
閉じ込められて
消えかけた命を
今日もまた引き摺ってゆく・・・・
ああ・・・
わずかな空地でいい
腹の底から
(馬鹿野郎)と
大きな声が出せるところが欲しい

こちらの「叫び」も思い出され、エミさん貼り付けの「八尋光秀弁護士、2008年6・14講演原稿講演」を、瞬く間にに読ませていただきました。

読後の感想と、気になった点を、皆さんにも聞いていただきたくてこのBBSに書き込みはしたのですが…投稿できずに 没 にしてしまいました………。
大きな理由は、関原弁護士も関わっていた昨年の埼玉地裁川越支部での「上映差し止め申立訴訟」が暗黙の中で起こされ、そして、却下されていたという事実を昨年の8月「全療協ニュース」で初めて知らされたからです。
その後、遺族の強い意向もあり控訴・上告はしないという判断をされたことをお聞ききしました・・・。
苦渋の中での判断であったことを・・・、私は感じていますし、映画上映運動に対して、裁判まで起こしていたという事実の 重さ を、考え及ばなくてはならない事を知らされました!


公開(たとえBBS内でも)の中で、「F事件」を語ることは慎重さが要求されるようになったのはいうまでもありませんが、語り公になることで「害」が及んでしまうという現実にあまりにも無神経し過ぎた「正義」が私の中にもあったことは否めません。


しかし、書き込みはしたものの、投稿できずにいたその想いは、今になって「ハンセン病市民学会の一員」としてはどうしても提起しておきたくなったのです。

多くの皆様の善意ある協力がなければ「新・あつい壁」という映画は出来上がってはいなかったでしょう!!
その映画製作の目的・意図が、未だ私には理解されていないどころか、「なぜ?市民学会が後押しできたのか!?」がついて回っていますし・・・、一会員としての 責 もよぎっているのです。


市民学会、本年度も共同代表でもある九州大学刑法学教授の内田博文さん・・・。「検証会議」の副座長として、また最終報告書の起草委員長として、再発防止策の提言もまとめられた方です。

私は、彼がシンポを呼び掛け2005年3月19日に行われた西南学院大学での「『F事件』を検証するシンポジウム」に参加する事ができました。
彼がパネリストの一人として貴重な発言をされています。

「ハンセン病の隔離政策では法曹界も大きな過ちを犯したが、F事件はその象徴。真相を究明し、最高裁にも非を認めさせることが、少しでも法学者の責任を果たしたことになる」と、その意義を語ってくださっていることです。

その市民学会の共同代表もされている彼が、どうして映画製作の後押しに対して「沈黙の域」を貫いてきたのか・・・。

八尋講演録の中に、

「…<中略>…。この福岡事件再審請求を支援してくれています。死刑廃止とともに福岡事件の真相究明を求め、署名とキャンペーンに参加し行動をともにしてきました。
 また、九州大学刑法学教授の内田博文さんは、この再審請求手続きにおいて、刑事訴訟法学の立場から専門的な意見書を作成してくださいました。さらに、奈良女子大学心理学教授の浜田寿美男さんは供述心理学の立場から専門的な意見書を作成してくださいました。いずれも、私たちの国で望みうる最高度の専門性と責任性に裏打ちされた意見書となりました」。

yoongleeさんの投稿より、このこと(ゆかりの人)を知らされ、内田教授が考える「F事件」の将来像と、『ハンセン病市民学会』の執行部(共同代表・運営委員・事務局) 間 の意思の疎通や、執行部と我々学会員とのキャッチボールの積み上げ・・・、これからの「市民学会」の行く末を危惧しています。
未来への礎として目指す、市民学会としての組織強化は、互いに語り合える場の提供を、ネット上で行えるのか!?ということしか思いつきませんが、「組織強化は如何に!」は、常に念頭に置いておきたい思いです。

一学会員にも、そして、Fさんの遺族の方々にも納得・理解・・・信用される組織を時間を掛けて創り上げていく尊さが、それぞれの課題のように感じています!





[1789] 企画から。 投稿者:北風 投稿日:2008/09/23(Tue) 20:07  

夕焼けさん、ありがとう。
鶴見さんを核とするというだけで、細部はいまっていません。いろいろご意見ください。
実は、「新しき時代の新しき療養所」を書いた森幹郎さんにも参加していただきたかったのですが、京都では少し無理かもしれません。

九州では、星塚のイシガオサムや井藤道子さんにも触れたいと思うのですが、誰かイシガオサムさんや井藤さんを語ってくれる人はいないでしょうかね。





[1788] 鬼が笑うのかもしれませんが・・・ 投稿者:夕焼け 投稿日:2008/09/22(Mon) 20:19  

北風さん!

「第三回 セミナー」

いち早く参加希望であることお伝えしておきます・・・し、三月二一日、二二日は予定を確保しておきます。
京都行きの旅費は家族に迷惑掛けないよう小遣いを辛抱し今から貯めておきたいと思っています。

「島田 等」さん!「小田 実」さん!「鶴見 俊輔」さん!・・・、あわよくば「関原 勇」さんの思想に少しでも触れられればと、大きな欲を持ってセミナーに参加(参画)したく思っています・・・。参加費・・・諸々は決まり次第このHP上でお知らせを・・・よろしく!!


[1787] 第三回 セミナー 投稿者:北風 投稿日:2008/09/22(Mon) 17:36  


2006年、2007年と続いた夏季セミナーですが、今夏はとうとう出来ませんでした。

しかし、2008年度として開催できる見込みとなりました。
3月21日、22日京都の京大会館を会場に行う見込みとなりました。
テーマは、島田等さんの「知識人のらい参加」をめぐってですが、基調講演は鶴見俊輔さんです。現在、鶴見さんは来年の予定は一切入れていないということで、特別に入れてもらいました。
細部はまだ決まっていませんが、この時期、鶴見さんにお話をしていただく意義は大きいと思っています。



[1786] 『石器』創刊号 より  投稿者:エミ 投稿日:2008/09/21(Sun) 18:25  

POEM AND CRITIC石器 創刊号
国立療養所詩人連盟刊、1953年9月25日印刷、1953年10月1日発行 より

 創刊の言葉 〈厚木 叡〉
 全国の国立ハンゼン氏病療養所の詩人六十名が、こんど相集つて詩誌《石器》を創刊することになつた。誠に貧しい、ささやかな形ではあつても、ながい間僕たちが抱きつづけて来た希いの実現であり、何よりもうれしい。僕たちは日本列島を北から南に遠く散らばつた療園に病いを養つており、一堂に顔を合せて話し合う事など望むべくもない情況に置かれているが、深い生の親和感が僕たちを結びつけていることを知つており、その親和感の結晶としてここに詩誌《石器》の誕生を見た。
《石器》は、芸術上あるいは思想上の一つの立場、一つの主張によつて結合した同志的ギルドではなく、あくまで自由な、さまざまの傾向の詩人を包含した、すがすがと風の吹きとおる《場所》でありたい。《石器》はその名の通り、《はじめ》であり、混沌未分の《形象》であり、すべてのものが其処から出発してゆく《始源の器》でありたい。
 詩誌《石器》は、さしあたり僕たちハンゼン氏病療養所の詩人ばかりで形づくられたが、それのみに狭く限定するものでなく、あらゆる人の前に開かれ、詩による友情の手を待つていることを告げたい。そして又、療養所の中、僕たちの周囲にあつても、とりわけこれから《詩》に目を開き、手を染めようとする、若い人たちに参加してもらいたく希つている。歴史が嗣がれ、生命が更新してゆくのは常にそのような未知の、若々しい魂の、ためらいがちな手によつてであるから。
 現実の日本の情況は益々暗く閉され、いびつに傾動してゆくが、僕たちの《石器》は希望を喪うことなく、閉された壁に窓を掘り開ける《石の鑿》であり、また、傾動に抵抗し、人間の自由と生命と美を歌う《石の琴》でありたい。
・・・*・・・*・・・*・・・*・・・
 
 心象雑記 〈盾木 弘〉
     ○
 一九五三年八月十三日、八月三日より厚生省正門前と二階大臣室前に坐り込みを続けた「らい予防法粉砕全国患者陳情団怒りの坐り込み」が解かれる日の朝、街路樹のかげからアスファルトの上に降りた鳩が二羽、一瞬の心のよぎりではあつたが、私の胸にほのかな、心しみる感懐があつた。
     ○
 車の窓からの散見では――東京の街のまんなかに、たつたひとゝころ美しく整然とした処があつた。市ヶ谷の米軍司令部――(決して日本総督府ではない筈である)
     ○
 同情ほど、愛情に遠いものはない。北条民雄の述懐である。らい園のひとびとよ、この言葉をも一度強くかみしめよ。
     ○
 八重山吹、無花果、白樺、百日紅、萩、八ツ手、アジサイ、椿、沈丁花、アラヽギ、皐月、白ツツジ、石楠花、五葉松、桧葉、ヒマラヤ杉、小テマリ、アオキ、その他雑木二三、欲しいもの満天星、八汐、小米桜――ぼくの小天地の植込み。
     ○
 光田先生、もう十年は生きてください。
 いまゝでの五十年は、あなたのものでしたが、これからの十年は、わたしたちがいたゞきます。どうかもう十年は生きてください。
     ○
 雨にけむつたなかぞらに、けさもひとつの意志がつきさゝる。それがなんであるかは、わからぬまゝに、ゆうべの静謐がくるのだ。
     ○
 無着先生の童顔が
 モスコーの街を歩いている
 どこかでわんわん犬がほえたてる
 山彦学校のオルガンも聞えている
     ○
 ローゼンバーク夫妻「彼等は人間と真理と正義の名において死んだ。彼等二人の真の勇気は、何物よりも――生命そのものよりも――彼等が信ずる最もよき信念をもつて貴しとなしたのである」グレンディン・バートリッヂ。
     ○
 白衣につゝまれた端正な姿でもない
 まめに動くつゝましい所作でもない
 その女[ひと]の強い印象――
 どこか一点を凝視める杳かな瞳のいろ
     ○
 内灘はまだ斗つているだろうか!
 歴史を新しく書きかえるために!
     ○
「真実は壁を徹す」日のあることを、わたしの心は、いまも未来も確信しています。いのちある日の果まで、消えることのない燈火のごとく――。
   ・・・*・・・*・・・*・・・*・・・

 編集後記 〈国本(昭夫)〉
○私はすべての人々を愛する。それ故に又石器を愛する。私達人間の祖先は神秘観、宇宙観から石器を創造し現実に夢を実現した。人間は石器からたくましい意志と方向感を、もの静かな理性を、豊な知性を与えられた。原始の時、人々からこよなく愛されたように、石器は今もなお我々を永劫に愛しつづけるであろう。
○人生――それは斗いである。現実――生きる事である。社会――美化する事である。――宿命、天恵、感動、敬虔、呪縛、絶望、現在、未来は形而上学的接続詞に他ならぬ。最も現実的な夢、石器を私達は知らなければならぬし、近代の石器を築きあげねばならぬ。
○我いちにんに我ひざまずく、の存在はすでに可能性ある存在へと決定的に推移してゆく本質を、まず見る事であり、つかむ事である事を認知する故に、石器は更に主体性を明確にするであろう。
○主義主潮を問わず、あくまでも一人一党の石器であり、全国療養所の機関紙として発足する事の問題はない。巻頭に厚木氏がのべられている通りだ。だが詩壇の人々よ! 私達を特別視してはならぬ。特別視、それは貴方がた自らの畸型児を余儀なくされるであろうから。
○石器は誰のものでもない。みんなのものなのである。石器の今後の方針、編集について自由に積極的に意見をのべてもらいたい。より健全に、今後当然予想されるであろうあらゆる障害を打開して力一ぱいおし出そう。創刊号を一日も早くと思いながらこんなにもおくれた事、申訳がない。深くおわび申上げる。
○各支部毎に創刊号を討議し、意見をよくまとめて報告されるように望む。尚会計報告は次号に係の方から発表の予定。



[1785]  島田等著「らいにおける福祉の意味―杉村春三」 島田等著『病棄て―思想としての隔離 』 (ゆるみ出版) 『らい』誌・初掲載 より ;  「はしがき」(前文)                                                                                                                                                                                                                                                                                      投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/09/17(Wed) 11:45  


「らいにおける福祉の意味―杉村春三」島田等『病棄て―思想としての隔離』ゆみる出版、1985年12月20日発行 所収「U 知識人のらい参加」より                  


 はじめに(前文)

 親しいメル友である村井恵美さんから、上記の島田 等著『病棄て――思想としての隔離』(ゆるみ出版、1985年12月発行)が、メールに「添付」して滝尾宛に送られて来ました。この「らいにおける福祉の意味――杉村春三」は、らい詩人集団発行『らい』誌に掲載されたもので、いつか私の書いているホームページにも、紹介しようと思っておりました。


 私は、パソコンのキーをうつのが脳梗塞を二度して、右脳の梗塞の後遺症で、左半身(左手も指先まで)が痺れて難渋しています。だから右指先を使って、パソコンのキーを打っています。そのこともあって、パソコンを打つことが、遅滞しています。

 昨日の午前、広島市立安佐市民病院から連絡が入り、「ベッドがあいたので、明後日(9月18日)の午前10時に入院・入室を!」という連絡がありました。だから、当分、このホームページの投稿は出来なくなりました。私の投稿記事に期待されておられる方がたには、ご期待に添えないことをこころ苦しくおもっております。

 糖尿病、腎炎、血流不全、動脈硬化(特に右脚)、腰部脊柱管狭窄症による両下肢歩行困難、老人性皮膚疾患などなどで、18種類の服薬をつづけていますが、加齢でかつての薬が身体に合わなくなり、9月1日の深更時には、低血糖で意識を失い救急車で入院という事態もおきています。


 この度の広島市立安佐市民病院はそうした加齢によって起きる種々の症状を再度、検討に直すという調査入院です。神谷美恵子さんがいうように、現在の医学は「専門化」「分化」がすすみ、高度な医療機械導入により、多種多様な数値が短時間にわかりはします。だけど、「専門分野での小さな部分的な過ち」はなくなるようですが、「人間の人格的な大きな過ち」は、かえって現在の医学はしているようだす。それが「後期高齢者医療保険制度」「介護保険制度」という現在の政策が、こうした諸問題の矛盾を拡大していると思います。

 年内に衆議院に解散・総選挙が行われるとのマスコミなどの情報です。その場合、「後期高齢者保険制度」などは最大の争点のひとつになると思います。


 今年は、私の心と研究と運動活動などの師である島田 等さんが亡くなって満十三年忌にあたります。その精神をさらに深めることは、大切であると思います。島田さんの絶筆となった著作の文末には、このように書かれてあります。


「日本のハンセン病政策の世界的にも類のない、“独自”な歩き方をさせた根底には、日本の近代化が負ったマイナスの課題と重なっているはずである。安易で無批判な肯定や、仕方がなかったという保留は、過ちを温存させ、繰り返させる養土となるだろう。

 “過去を直視できないものは真の将来はない” ―どこからであれ直視の作業の手がつけられなければならない。‥‥」


 この「前文」のみは、「ハンセン病の闘いの歴史に学びともに考えるBBS」の掲示板に投稿します。そして、武井恵美さんの提供の「らいにおける福祉の意味―杉村春三」島田等『病棄て―思想としての隔離』(ゆみる出版、1985年12月20日発行 所収)「U 知識人のらい参加」より、は滝尾のホームページの掲示板に掲載します。「〜ともに考えるBBS」の訪問者は、ご面倒でも、滝尾のホームページの掲示板でご覧ください。

 資料の提供者である武井恵美さんに感謝します。

                      人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                      ‘08年9月17日(水曜日) 10:30



[1784]  「島田 等さんを偲んで」(21)連載・私の履歴書、(12) きき書き しまだ ひとし「ノン」; 『らい』24号、第3回                                                                                                                                                                                  投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/09/17(Wed) 08:58  

「島田 等さんを偲んで」(21回) 連載・私の履歴書、(12) きき書き しまだ ひとし「ノ ン」(らいでないらい)(『らい』第24号、1979年4月発刊より) (その三)

               人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

               ‘08年09月17日(水曜日)08:38


 <入園生活はじまる>(承継)

 それから八日目ですが、なにが原因かわかりませんが、目がみえなくなり、おおかた盲人になりかけました。

 そのとき眼科医内田守先生の診察を受けますと、先生はこりゃ目にバイ菌が入っとるというので早速隔離(重病棟名)へ入室。一隔離病棟の廊下へ入れられ、時計のうつのを合図に一時間おきに罨法と目薬をしました。

 三日しますと屋外の電線が見えるようになり、これでやれやれと思って他の入室者と話をしておりますと、そこへその頃附添本看をしていた斉藤さんが、私に、「ケンドンの中にあるもの食わないとくさってしまうよ。」というのですが、それはその当時病棟入室者への慰問として配られた菓子とか、果物だったのです。私も四角い、かたい長いものがあるなと、一度はさわってみたのですが、当時よくあった棒石鹸だろうと思っていたのですが、それは慰問のういろうであったということで、にわか盲の笑い話でもありました。


 そして現在では園長のご回診という言葉はあまりききませんが、昔は月一回はあったようです。そしてその予告がありますと、看護婦さん、付添いさんたちが、病室の天井のすす払い、ガラス拭き、廊下のドアの把手の真鍮磨きと忙しくしておりました。

 いよいよ回診の日、医局の各科の先生方と一緒に園長が病室にきました。ある病人の前では笑ってみせたり、ある病人には怒ってみたり、またある病人の前では先生方になにか文句をいってみたり、私の前にきました。内田先生の説明をきいて、やあ、おめでとう。おめでとうと二回いって帰りました。それから二、三回して廊下の部屋へ退出しました。

 そして舎の生活に入りますと、舎の人はみんな作業に出ていましたから、私も作業をすることになりました。

 隣の部屋の人が石工部に出ておりましたから、石工部に入れてもらいました。その頃の石工部の仕事で記憶に残っておりますのは、グランドの上の貞明皇后の御歌碑の基礎工事、昔は望ヶ原浴場と言っておった様ですが東部浴場の排水溝、海岸道路の修理などしたことを憶えております。主任は「石を扱うことやから怪我をするなよ。怪我wするなよ。」といってくれておりました。


 <親のありがたさ>

 そして午前、午後作業に出ておりましたが、その年の九月一七日、親父が面会に来ました。いまのように全舎に放送設備がありませんので、よく通信部員が連絡してくれたことです。分館に行ってみますと、親父ははじめてのことで片山(備前市)で下りて山を越えてきたというようなことをいっておりました。

 早速分館を出まして光ヶ丘にのぼり、いまライトハウスのある位置に、赤い屋根瓦の作業センターがありましたが、その赤い瓦のむこうに住んでいるんだといいますと、親父は「まあええ所はええ所じゃけれど病気がのう」としみじみいっておりました。

 それから新良田海岸へ行きましたが、歩くみちみち、親父が「おまえ、あっちゃこっちゃから借金とりがきて困った。」といいました。その借金といいますのは、村の若い者と一緒に、元来甘党でしたから万頭や鯛やきやぜんざいなど、遊びに行っては、今日はオバさん一円二〇銭や、今日は一円六〇銭やといって、むこうの大福帳につけて帰っていました。その頃、三角のマークの“ノーリツ”とかいった自転車がありましたが、その新車かっ中古か忘れましたが、それもありました。

 それから、こんどは親父なにをいい出すのかと思いますと、「おまえの勤めていた役所で、おまえの取扱っていた書類を全部焼却したということをきいた。」といって涙ぐみました。それでおまえの部屋にあった物も、勿体ないと思った物もみんな石炭箱につめて、籾殻といっしょに焼いてしもうたといっておりました。

 親父がいちばん勿体ないと思うたのは、私が十年間対照継続日記というのをつけておりました。十年間が一目でわかる厚さ五センチの美濃版の日記でしたが、それも文房具や製図用具と一緒に焼いてしもうたといっておりました。

 新良田海岸について、砂浜に腰を下ろしますと、親父は金はどうかといいました。「金は全部使うてしもた。」「あれだけの金何に使うた。」その頃六百何十円は、あれだけの金という程の額だったものです。

 じつは先ほど分館で、親父は金をちょっと置いていこうかといったのですが、分館の先生方が後に立っていて、そこで金を受取ることはできませんので、一、二ヶ月はあるから、無くなったら手紙を出すといって分館から連れ出したのでした。「金をくれるんやったらここでくれにゃ。あんなところで金をもらったって手に入らん。」「そんなことかいな」といって親父は、「汽車賃だけおいといたらええから、みんな置いていく。」といってくれました。そのときは親というものは有難いものやとつくづく感じました。


 <“らいにあらず”しかし‥‥‥>

 それから毎日、午前午後作業に出ておりましたが、その年の十二月二三日、帰省することになりました。

 その頃、帰省するといえば、鼻汁検査、医者の面接、着て帰るものはフォルマリン消毒、帰る日には外科治療室の隅にあった消毒風呂に入るのですが、男は簡単ですが、女はせっかくきれいに化粧しておりますので、鳥の行水どころでなく、すっと入ってすっと出て、フォルマリンの匂いのきつい衣類に着替えておりました。

 乗せられるバスも、なんと刑務所の犯人護送用のような、車の後にドアのあるものでしたが、そのバスの中にもフォルマリンの鼻をつく匂いです。この匂いが早く消えんかなあと思っておるうちに東山(岡山市内)に着きます。そして東山の山の中で下ろされ、各自が思い思いの方法で駅へ着きます。


 私は近くですので割合早く着けます。帰ってみますと、私の本家でちょうど区長をしておりましたから、そこへ行っていろいろと話をしますと、叔父のいうには、「まあ病気が治ったとか、病気ではなかったとかの証明があったら、村の者にも話がしよいんだがのう」というのでした。

 そこで私は、そんなら何かもらってこようかということで、すぐ虫明まで来まして、虫明から内田先生を呼びまして、先生に「家へ帰りますとこういうわけですが、何か証明を書いて欲しいんですが」といいますと、先生は「そりゃ書かんでもないが、そっちで適当な文句を書いて、内田の判を買って押しておいたらよかろう。」ということでした。

 それならそうしましょうかといって帰りかけたんですが、それも面倒くさいし、又内田先生に迷惑をかけてもいけませんので、その足で京大の小笠原登先生のところへ行きました。年末でもあるし、先生がいられるかどうか心配でしたが、先生に会うことができました。

「あちらこちらの医者がらいだというんですが、一度先生の診察をおねがいしたいと思ってきました。」といいますと、よろしいといって一通り診察し、「心配せんでもよろしい。病気ではありません。」「それでは何か証明が欲しいんですが」といいますと、書いてあげましょうといって、その頃私は両方の耳にシミヤケをしておりましたので、「一つ病名、両耳殻凍傷第一度、ことにらい等の伝染性疾患の症状を認めず。小笠原登」。そこで小笠原という認印はすぐにおせるんですが、それでは証明者としてちっと物足りないんで、大学の割印が欲しいんだgといって、看護婦にもらえるかきいてくれといっておりましたが、できますということで割印をして、必要がありましたらこれを出して下さいといってくれました。

 その手数料は一円。それを持ち帰って本家の叔父に渡しまして、みんながもう正月だから、正月をゆっくりしていったらどうかといってくれましたが、私は正月に人が来て、ああだこうだと面倒くさいから、二九日に行くことにするといって、長年ね起きしていた部屋で新聞とか、雑誌キングなど読んでいますと、ふと状差しの中に親父宛の姉の封書がありました。中を見ますと、姉が私の名前を書いて、「あれももう長生きをようせんだろうから、できるだけのことはさしてやってくれ。私もできるだけのことはしてやろうと思っております。」と書かれていました。その姉んは昭和三五年十月二五日に会いましたが、以来音信不通、いまはあの世のものともこの世のものともわかりません。


 <再び愛生園へ>

 そして二十九日に家を出まして姫路で途中下車、土産を買いまして三個の小包にして姫路で一泊し、翌朝岡山へ着き、もう正月だからひとつ散髪でもしてやろうと理髪店をのぞくと20書く人以上の客でした。年末だからどこへ行っても同じだろうとおもって入りましたが、私の順番はなかなか廻ってきません。そのうち食事時になりなして、私は弁当を持っていましたので、理髪店のオバさんにお茶をもらって弁当を食べ散髪をしました。弁当持ちの散髪は生れて初めての終りです。

 そして市内で一日遊びまして駅前の旅館に泊りました。その頃年末にはよく臨検があrましたが、それにひっかかり、旅館の二階へ刑事が上ってきまして、住所、氏名、年齢、職業、今朝出た所、これからの行先をききましたので、今朝兵庫県から来て、高知へ行く予定だが、時間が半端なので明日の朝一番で行こうと思っていますといいますと、お邪魔しましたといって帰りました。

 翌日、高知に行く予定を変更しまして、虫明に来て虫明事務所に着きますと、私が送った小包が床に転がっておりました。下げて帰ろうかと思いましたが、まあ明日は配達してくれるだろうと思って帰ったのですが、それがなんと正月三日になって届き、みんなでお茶をのんだことを憶えています。


 それから二年半ほどしてこんどは作業を木工部に替りました。その頃の木工部は男女合せて一二、三名いたと思います。女子部員はガラスの入替、全日作業ですからお茶沸し、昼食の準備。私も昼食の準備、出勤簿、そして作業日誌というものをつけておりました。どこそくの修理に板が何枚、垂木を何本というように明細に記録して、患者事務所の作業部に出しておりました。

 その頃の木工部のいちばん大きな仕事といいますと、なんといっても恩賜道場(現在は恩賜記念館)の建設だったと思います。営繕のエライ人は石川さん、材料係が吉田源太郎さん。主任も三回くらい替ったように思います。患者の木工経験者が一日の作業賃五〇銭、私たち雑役が二〇銭でした。それから第二崇信寮あたりも木工部が建てたような気がします。

                           (未完です。=滝尾)



[1783] では、どう思い続けるているのか。それをリベルさんに問われているのだと思いますが。 投稿者:北風 投稿日:2008/09/16(Tue) 20:04  


10月20日は島田等さんの命日です。
滝尾さんは、島田さんの形見をその日に島田さんの故郷の海に流そうと、体調の不備を抱えながら旅の準備をしています。

ここに滝尾さんが書いているのは、一人で行くのではなくこの掲示板の仲間とその旅を計画しているからです。これは、必ずしも実際に旅を共にするという意味ではありません。

藤本さんのことは、忘れていません。
藤本さんの生と死は「好個の材料」というには重過ぎます。
私たちは、「記念日」ごとに人を思い出すのではなく、思い続けることが必要だと思います。
では、どう思い続けるているのか。それをリベルさんに問われているのだと思いますが。

注意を喚起してくださって感謝します。



[1782] 藤本事件 投稿者:リベル 投稿日:2008/09/16(Tue) 18:47  

46年前、1962年9月14日に藤本松夫さんが処刑されました。「ハンセン病の闘いの歴史に学びともに考える」好個の題材だと思いましたが、私を含めてどなたもここにお取り上げにならない。


手前味噌ですが昨年の今頃私のBBSに投稿された「夕焼けさん」の投稿の一つをご紹介します。


『「あ〜ぁ、「藤本事件」 投稿者:夕焼け 投稿日:2007年 9月14日(金)23時18分8秒   返信・引用
もし、本当に死刑囚でなく冤罪事件だとしたら・・・。

「贖罪」としてはどのようにすれば・・・、よいのでしょうか?

やはり真実の追究なのか・・・、それとも、せめて無罪を証明することの努力に関わる事なのか?
45年の時が、今こうして語りかけているような錯覚すらおぼえます。

(リベル) 私は、自分が藤本事件について、積極的に何も役に立てなかったことを、「罪」と言う風には思っていません。

ですから、その人その人が、自分の情熱と体力に応じて、出来ることを力一杯行えば、それで良いと思っています。

それでは自分自身が許せないという場合は、本を書くとか、その為に関原弁護士や、徳田弁護士や、ご遺族に会って、取材するという活動にはいるとか、その人によって、為すべき事、為し得ることは幅広く有ると思います。夕焼けさん、頑張って下さい。(2007.9.15 01:14」』


いま「ハンセン病の闘いの歴史に学びともに考える」趣旨が失われていないか、昨年あれほど熱意を篭めて語られた「藤本事件」はどこへ雲散霧消したのでしょうか。それを痛切に憂うものです。

ノーテンキなことばかり発言しているお前さんにそんなことを言う資格があるのかと言われれば、「さあ、どうでしょう」と平然と答えます。私は少なくともアルコールランプは灯し続けて居ます。HPで「藤本氏の処刑から46年経ちました」とお知らせしたのは、私だけだったような気がします・・・。


ここは本来「ハンセン病の闘いの歴史に学びともに考える」場所であったはずです。今は90%が滝尾さんの「第二サイト」と化しています。滝尾さんも「闘いの歴史」をお書きになっています。しかし、滝尾さんはそのURLをお教えくだされば十分だと思うのです。私などは先ずここhttp://takio-kokoro-2.hp.infoseek.co.jp/pg08/pg0803.htmlを読んでから、こちらへ来ますから、何か新しいことが追加されていないかと、結局同じ文章を二度読むことになってしまいます。

これは滝尾さん、異常な状態だと思います。ご自分のサイトがありながら、(これは私はこちらhttp://www.eonet.ne.jp/~libell/13keijiban.htmでキチントご紹介申し上げているれっきとした独立した堂々たるBBSではないですか)もう一度同文を他のBBSへコピペなさる、これは他の人が真似をし始めると、まさに奇妙な事態を招きかねません。


先輩に対して生意気なことを申し上げました。またこれは運営者である北風さんに対するお願いとも取れます。いろいろな反論もお有りになろうかと存じますが、しかし、疑問を感じながら沈黙を保っているのも、潔くないと思って、この機会に思い切って書きました。

大方のご意見をお待ちしております。


[1781]  「島田 等さんを偲んで」(20回)連載・私の履歴書、(12) きき書き しまだ ひとし「ノ ン」 『らい』24号 【その2】 より                                                                                                                投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/09/15(Mon) 22:14  


「島田 等さんを偲んで」(20回) 連載・私の履歴書、(12) きき書き しまだ ひとし「ノ ン」(らいでないらい) (『らい』第24号、1979年4月発刊より) (その二)

               人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

               ‘08年09月15日(月曜日)22:05


 <家を出る>(承継)

 桜井先生が、私がいっぺん診察するということで、専門の方のらいの特別診察治療室にいきましたて、診察を受けました。どうもその気があるように思うという診断でした。
 そこでは長椅子に八人づつ並んで手をつないで、尻に注射をうってもらっておりました。私もその列に入れられて、尻にプスッと注射をうたれましたが、その注射の痛かったこと――三日間はどうしても便所でしゃがむことができませんでした。

 そしていろいろ話をしておりますと、らいとすれば所轄警察署へ連絡しますというようなことをいっておりました。私はこの藪医者!なにをとbけるかと思って家に帰り、親父にその話をしますと、親父も、まさかそんなことはなかろうと思うが、たとえヤブでもなんでも医者のいうことであれば、今後どうするかということで、夜を徹して話しあいました。

 その結果、農家では月々に現金収入というものはありませんが、親父がいま手許に七百円あるから、これをもってまあひとつ気分転換に、どこかへ行って遊んでこいということで、そしてその頃私は、役場勤めをしながらいろいろと農事の研究をしていました。たとえば水稲の蜜植、粗植あるいは品種の改良などを研究しておりましたが、sの結果を見ずして、昭和一四年一〇月二八日、家をでました。

 そして神戸の叔父の家へ行きましたが、叔父の家も商売をしておりますので、栄町ホテルで一泊一円二〇銭で三ヶ月の予約をしました。


 朝の映画の早朝サービスから晩まで映画を見たり、あるときは大阪、あるときは京都へ、あるときは高知に姉がおりましたので高知へと、遊びまわっておりました。そしてその三ヶ月も過ぎまして、ちょっとふところがさみしくありかけて、百円あったはずじゃがと思って探してみますと、腹巻の後の方に三つ折にした百円紙幣がありまして、これでやれやれまた二ヶ月は遊べると思っておりましたが、その二ヶ月も過ぎて、財布には三〇円ばかり。そこで私は当時金側の腕時計をもっておりましたので、それを時計店に売ることにしました。

 時計店では二〇円で買ってくれました。その二〇円をにぎって時計屋を出るのと、時計の盗難があったとかで刑事が入ってくるのとすれちがいました。そこで刑事に「あんたにちょっとおたずねすることがあるから交番まできてくれませんか」といわれ、交番に行きますと、住所、氏名、年齢、職業、所持品の検査などありまして、私の手さげカバンの中に父から届いた一通の封書がありましたが、それは神戸や大阪で遊んでおると、親戚もあるし、友達も多いから、どこか高知の方へでも遊んだ方がよかろうという意味のことが書いてありました。


 それを刑事が見まして、顔色をかえて、「あんたなんか悪いことをしたんじゃないか」といいますから、私は殺人とか強盗とかということも家族に迷惑がかかりますが、それ以上に重要問題です」といいますと、「なんですか。」「ある藪医者がらいだというので、いま困っているのです。」「あんたがらい、そんなバカな。」「信用しませんのか」というと「どうも信用ならんなあ。」「そんなら阪大に桜井方策という医者がおるから、電話で問い合わせてみたらどうですか。」「いやそうまでせんでもいい。それに岡山に病院があるということをきいておるが、治って帰る人もあるらしい。そういうところへ行ってみたらどうですか。」「まあ、いずれは行ってみようと思っていますが、まだお金があるうちは遊んでいこうと思う。」「いや、どこへ行っても金が要るもんじゃ。金があるうちに行った方がいいんじゃがなあ。」「まあ考えときましょう。」といって交番を出ました。

 そしてそれから二四、五日たった頃、私が新開地で夜店――手相、生命判断、詰将棋、連珠、薬売などがおりましたが、その薬売りの前にたっていますと、まむしで作った薬のようでしたが、「四百四病のうちこの薬で治らん病気はひとつもない。いや、ちょっと待てよ。この薬でも治らん病気が二つある。結核の四期とらい病は絶対に治らん。えらいこといいよるなあと思って、次をひやかしておりますと、例の刑事にパッタリ会いました。「あんたまだ行っておらんか。まだ金はあるか。」といっておりましたが、その頃財布には二〇円あまり。いよいよみこしをあげようかと思いまして、その日の最終列車で岡山に行きました。


 <三十年の“しばらく”>

 岡山に着いたのは朝の四時半頃でしたが、冷たい駅弁の残りを買いまして待合室へ。そして駅前の広場へ出かけてみますと小雨が降っていました。一台の屋台が店じまいをしており、もう腰かけを屋台にしばりつけておりましたが、うどんを二玉、熱うsyてもらって立食をして待合室へ帰り、夜の明けるのを待って駅前の交番で愛生園のことをたずねましたが、新米の巡査でしょうかいっこうに要領を得ません。


 そこでタクシーをとめて、虫明までの運賃をきくと、「十円です。十円ですが雨は降るし、帰りはないし」と断わられました。そこで仕方なく西大寺へ、西大寺から虫明行のバスに乗りました。

 隣の席の青年といろいろ話しながら行きましたが。どうやらその青年は京大の学生らしく、愛生園の園長に会いに行くというようなことをいっておりました。私も園長に面接に行くんだといって話をしながら愛生園の桟橋に着きました。ときに昭和十五年、紀元二六〇〇年四月一日、満三二歳ではじめて愛生園の土を踏みました。

 例の青年は一足先に船からおりて本館に入りました。私はタバコを買いまして本館に入り、受付の女の子に園長に面会だといいますと、しばらくして白衣の背の高い、医者らしい人がきまして、園長は留守ですがご用件はといいますので、ちょっと診察をおねがいしたいんですがといいますと、診察ならぼくでもやりますということで、一通りの診察をしまして、「なんともよういわんけど、虫明にも旅館があるが、ここの収容所というところへ一晩泊って、あすの朝園長の診察を受けて下さい。」ということで収容所へ案内されました。

 そしてその翌日、光田園長の診察を受けましたが園長から「あなたは麻痺で来たんですか。しばらく治療しなさい。」といわれましたがそのしばらくが三十年を越えようとは思いませんでした。


 そうして三日目でしたか、昼食に大きい瀬戸びきの金盤に草餅が九つ出ました。私はこれは何事かといいますと、先輩たちは、これは昔の古い患者がいろいろと行事を作って、それがいまなおつづいておるという意味の説明をしてくれました。

 それを四つ食べまして、先輩たちと一般社会のこと、ここのことをいろいろ話しておりましたが、私は先生といえばまあ一般には学校の教員とか、医者ぐらいに思っていましたが、ここでは事務をとる職員も先生といわんゃいかん、人事係は横山先生でした。


 そうすておりますと、園内放送で分館へ来いという呼び出しがありました。私は早速分館に行きまして「横山先生、今日は」といいますと、横山先生なんと思ったか、先生といわれるほどのバカでなしと思ったかどうか、私にも先生づけで呼んでから、「ところで金をなんぼ持ってきたかな。」「金は二円九五銭渡しましたよ。」「それだけか。他にはないんか。」「他には一文もありません、」

 その二円九五銭がその当時の一ヶ月の作業に匹敵した金額でした。その頃“園内通用票”というのが発行されていました。五銭や十銭は、ブリキで作った吹けば飛ぶようなものでしたが、一円になるとちょっと重みのある金色の小判でした。そういうわけで、園内に正金を入れるのに、みんな相当苦労していたようです。たとえ太軸の万年筆に十円札を巻きこんでくる人、着物の襟に縫いこむ人、靴の敷皮の下や、繃帯の中に巻きこむ人と、いろいろ苦労したようです。

 そのあくる日、又分館から呼び出されまして、横山先生、こんにちはと行くと、あんなり先生先生というてくれるなよといって、「あんたは診察に来たようだが、もういっぺん家の方の整理もあろうから帰ったらどうかや。ここへ入ったら半年は出られんから。」横山先生おかしなことをいうなと思ったんですが、「半年ほどで出られるのなら居ります。」ということをいって、二、三日たってから雁寮下の三号室に入りました。

                   (この項は未完。つづく=滝尾)

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[1780]  死の棘」生んだ島尾敏雄の家、解体へ 奄美大島   この島尾敏雄の住んだ奄美分館長宅の解体に反対します!                                                                                                                 投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/09/15(Mon) 12:46  


【「死の棘」生んだ島尾敏雄の家、解体へ 奄美大島(1/2ページ)】
                                          2008年9月15日12:42


島尾敏雄が家族とともに10年間暮らした鹿児島県立図書館奄美分館長住宅=鹿児島県奄美市名瀬小俣町


鹿児島県立図書館奄美分館長住宅の屋内。島尾敏雄は奥の6畳間や手前の4畳半間を書斎とし、数々の代表作を執筆した=鹿児島県奄美市名瀬小俣町


島尾敏雄:

 戦後の日本文学を代表する作家の一人、島尾敏雄(1917〜86)が暮らしていた鹿児島県・奄美大島の県立図書館奄美分館長住宅が、近く解体される。島尾が代表作「死の棘(とげ)」を執筆した家屋だ。研究者らは「島尾文学をしのぶ貴重な文化遺産」と主張し、住宅の存続を要望しているが、所有する奄美市は「維持管理が難しい」として解体方針を崩していない。

 島尾は、精神的な病を患った奄美・加計呂麻(かけろま)島出身の妻ミホさん(故人)の療養のため、1955年10月、首都圏から、ミホさんの親類が住む名瀬市(現奄美市)に移った。作家活動をしながら58年から初代分館長を務め、65年に県立図書館奄美分館の敷地内に新築された木造平屋建て60平方メートルの分館長住宅に入居。75年に分館長を退職し、同県指宿市に引っ越すまでの10年間を過ごした。その後、歴代の分館長や同補佐らが今年3月まで住んでいた。

 間取りは6畳間1室、書斎を含む4畳半2室。島尾はここで、実体験に基づく夫婦のすさまじい愛憎を描いた「死の棘」を執筆。「気鬱(きうつ)」に悩まされながら妻とのやりとりなどをつづった日記風の作品「日の移ろい」には、この家での場面が数多く含まれている。さらに南方の島々「琉球弧」から日本の歴史や文化をとらえ直す独自の文化論「ヤポネシア論」も、この住宅の書斎で書き記していった。

 解体方針は03年に決まった。県は老朽化した分館に代わり、近くに新図書館を建てる。その敷地を所有する奄美市から土地を譲り受ける代わりに、分館長住宅を取り壊して更地にしたうえで市に譲る契約を交わした。県は来年4月に完成する新図書館1階の島尾敏雄記念室に分館長宅の床柱を移し、往時の書斎をしのべるようにし、奄美市は跡地に道路や避難所をつくる。


滝尾:註 島尾敏雄は、戦争末期は沖縄の水上特攻隊員(特攻艇・震洋の乗り組み隊員)であり、その島の娘であるミホさんと恋し合い、敗戦後、ふたりは結婚しました。そういう意味から平和を希求する私たちの平和の史跡でもあります。是非、この県立図書館奄美分館の敷地内に新築された木造平屋建ての奄美分館長宅の保存を関係者にお願いします。

 広島市安佐北区口田南三丁目5−15 滝尾英二; 電話番号: 082−842−0710 

            (9月15日の“アサヒコム”から)

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 【参考記事】(“アサヒコム”から)

島尾敏雄『死の棘』 桐野夏生(下)
[掲載]2008年6月22日
■愛は際限のないエゴ 死をも自分のものに

 最近、加計呂麻(かけろま)島の島尾敏雄文学碑の奥に墓碑が建てられ、夫妻と娘のマヤさんの遺骨が納められた、という記事を読んだ。三人の納骨は、昨年亡くなったミホさんのご遺志であったらしい。文学碑・墓碑は、特攻艇・震洋の基地跡に立ち、呑之浦(のみのうら)を見下ろしているのだそうだ。

 とうとう家族がまた一緒になったのだ、とまるで自分に縁のある人々のことのようにほっとする半面、墓碑が島尾敏雄とミホ夫人が出会って恋に落ちた場所を見据えていることに、いささかの戦(おのの)きも感じるのだった。縁がある、とする妄想に縛られること。これも愛のひとつのバージョンではあるまいか。

 『死の棘(とげ)』を、何度読み返しただろうか。最初に読んだのは二十代だった。その頃は、狂ったと言われたミホさんがかわいそうでならなかった。が、今はただ、愛が怖いと思う。

 愛に生きることは、加害者や被害者を作ることではない。誰も悪くはないのだ。が、あるきっかけから、確実に互いを蝕(むしば)むものがどっかと根を下ろし、関係を捩(よじ)らせていく。これで終わり、と底を打つこともなく、収まったように見えても、またぶり返し、延々と棘が心を刺し続けて、いつしか現実を変える。あるきっかけとは、「不信」である。

 「あなたはどこまで恥知らずなのでしょう。あたしの名前が平気でよべるの。あなたさま、と言いなさい」「あなたさま、どうしても死ぬつもりか」「死にますとも。そうすればあなたには都合がいいでしょ。すぐその女のところに行きなさい(中略)」

 形を変えて、繰り出される言葉。怖(おそ)ろしいのは、際限がないことだ。愛は底なしのエゴでもある。だから、すべての人間を平等に愛することを、愛とは言わないのである。そして、激しい愛は、相手の死をも含めたすべてを得たい、とする営みなのだ。『死の棘』は、そのことを教えてくれる、誠に怖ろしい小説である。(作家)

    ◇

 60年に講談社から冒頭の一部が刊行、77年に完成版が新潮社から出版された。新潮文庫で刊行中。



[1779]  島田 等さんを偲んで」(19回)連載・私の履歴書(12) 、きき書き しまだ ひとし「ノン」 (『らい』24号 )  【その一】                                                                                                                                    投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/09/15(Mon) 03:48  

「島田 等さんを偲んで」(19回)連載・私の履歴書<12> 、きき書き しまだ ひとし「ノン」(らいでないらい)(『らい』第24号、1979年4月発刊より)【その一】

               人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

               ‘08年09月15日(日曜日)22:00


 島田等遺稿集『花』(手帖社、1996年4月発行)の宇佐美 治さんの書いた「あとがき」(139〜142ページ)によると、つぎのようになっています。

「この遺稿集『花』の著者、島田等は、一九九五年十月二十日の夕方、多くの友人に見守られて、六十九年の生涯を静かに閉じました。死因は膵臓ガンでした。
 彼は、一九二六年五月、三重県で生まれました。若くして病を得て、草津の湯の沢に一年ほど療養生活をしたことがありました。

 一九四七年九月、三重県から二十九名の人々と共に、長島愛生園に収容されました。っ収容された中には、ノン(非らい)の人が四名も含まれています。」(139ページ)


 『らい』第24号、1979年4月発刊の1〜9ページには、連載・私の履歴書(一二) きき書き しまだ ひとし「ノン」(らいでないらい)が、収録されています。長文ですので何回かに分けて、その全文を紹介したいと思います。島田さんは、こうして無名な収容者たちにも「きき書き・私の履歴書」の連載をらい詩人集団発行『らい』誌の中で、取り上げておられます。ハンセン病問題を問題とする風潮の中には「有名人・著名人」ばかり追っている方が多くいらっしゃる中で、この無名の人たちを書き残していただいたことは、貴重です。

 私が、最晩年の研究として「近・現代歌謡曲・流行歌の社会史」を書こうとして、可能な限り「カラオケ喫茶」へ通い歌謡曲をならい、また歌謡曲のCD,DVDそして、テープを収集しているのと、なにかつながるものがあるような気がします。

 歌とは「訴える」ということだそうです。文字を持たない旧石器の時代から、何万年以前から「歌」はこの地にも存在しました。文学としての「歌」は、せいぜいここ千数百年から、やまとに文字が伝わってからのことでしょう。長い「歌」の歴史の中では、つい最近に、文字文化をもってからの「歌の世界」です。有限的である人間の「歌」文化など実は、私には余り関心が薄いのです。


 そう考えながら、『らい』誌の「きき書き 連載・私の履歴書」をこれから、紹介しようと思います。最初に『らい』第24号に掲載された「ノン」(らいでないらい)、きき書き:しまだ ひとしの紹介から始めたいと思います。

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 私は明治四一年四月八日、兵庫県の片田舎の農家に生まれまして当年六八歳。人間の一生涯というものを各時期について話しますと、相当長時間かかりますので、今日はそのうちの壮年期 ― 三一歳から五一歳までのことをふりかえってみたいと思います。

 ところで現代の農業経営、農作業は、すべてが機械化されまして、私たちがまず不可能に近いのだはないかと思っておりました田植機の出現によって、昔のような早乙女姿がだんだん見られなくなりつつあるということをきいております。昔の農作業は農耕用の牛、あるいは馬が一頭、機械と名のつくものは除草機、足踏脱穀機、選米機程度で、村に一台動力籾摺機がありまして、申込順によって籾摺をしてもらっておりました。

 あらゆる農産物の乾燥もすべて天日乾燥で、たとえば牛馬の飼料の千草、脱穀した籾、麦、大豆、小豆、竹の皮は農家の副収入というよりも、むしろ子供たちの小遣い稼ぎになっていたようです。この他もろもろの農作物の乾燥するために、家の前に三〇畳ないし40畳敷の広い土間がありました。

 これを私たちの方ではカドといっておりましたが、その広い土地も一年使いますと相当土が減りまして、あちらこちらに水溜りができるようになります。そこ年に一度は必ず土入れをしておりました。

 私は昭和一四年の九月のある日、牛をつれて近くの山に土取りに行きました。帰り途が少し下りで、急カーブもありまして、牛がちょっと早廻りをいたために、牛は難をのがれましたが、私と土を積んだ車は二メートルの深さの溝に頭から突込みました。そのとき右肩を強く打ちまして、その怪我が私の一生を台なしにするとは思いませんでした。


 <その人に会わざりしかば>

 一日、二日たって、ものすごい、針で刺すような神経痛がするようになりまして、あちらこちらの医者、鍼とか灸の治療をしましたがいっこうに治りません。

 そこで京都に友だちがおりました関係で、京都の大学病院へ診察に行きました。診察の結果、今はそんな原始的な医療器具はないと思いますが、直径三〇センチあまりの円筒形の中に電燈がいくつもついていておりまして、その中に腕を入れる治療です。それを電光浴と呼んでおりましたが、コップに四分の一くらいの汗が出たと思います。

 その治療費が一回二〇銭、往復の旅費が五円、これではとても経済的にやっていけないと思いまして、今もあるようですが京大から道路一つへだてたところに播磨館という旅館がありました。そこで一泊二食一円五〇銭で二週間の予約をしまして、毎日、電光浴の治療に通っておりました。

 そして二週間治療をしますと錐でもむような神経痛も、うそのように治りまして、まあこれでやれやれと思って家に帰りました。

 私はその頃ある役所に出ておりまして、その頃ある役場に出ておりまして、その余暇に農作業をしておりましたが、それから一ヶ月もたった頃に役所で事務をとっておりますと、どうしても思うような字が書けなくなりまして、これはおかしいと思っておりますうちに、右肩から指先まで完全に麻痺しました。麻痺というよりも、ちょうど電燈のソケットに入れとるような感じでした。ジンジンジン、それはいまなお続いておりま。

 そこでまた、あちらこちらの医者に行きましたが、どうにも原因がわからない。そこで神戸に叔父がおりましたから、そこへ行きましていろいろ相談しましたが、まず神戸の市民病院へ行ってみたらということになりまして、市民病院に診察に行きました。

 若い医師でして名前も覚えていますが、ここではA医師としておきましょう。A医師の診察では、ちょっと首をかしげておりましたが、らいではないだろうかということでした。私は親戚にも、家族にも先祖にも、らいというような病気の者はおりませんので、これはなにかの間違いだろうと思いまして市民病院を出ました。

 ところが何だか気にかかりますのでその足で大阪の大学病院に行きました。大学病院のB医師の診察では、「私は絶対にらいとは思いません」という診断でした。

 そこで二、三日して市民病院へ行きましてA医師に、大学病院の診断はこうですがと申しますと、A医師は「大学の方が権威も上なら、医者も上です。阪大のいうとおりにしておいましょう。誤診と思います。」といって一札入れてくれました。

 それから四、五日してからまた阪大に行きましたて、B医師といろいろ治療上の相談をしてりますと、そこへ全身を完全に包んだ、そして目だけギョロつかせた人が入ってきました。私は一見この人は全身熱湯の重症患者だろうかと思っておりましたが、その人が昨年暮亡くなられたご存知の桜井先生(注)でした。

(注)、桜井方策氏、吹田市生、M二七〜S五〇、全生病院、外島保養院医師、阪大教授を至て松丘保養園、長島愛生園に勤務。

                   (「ノン」の項は未完です=滝尾)



[1778]  島田 等さんを偲んで(18) 雑感を書く ; 広島青丘文庫  滝尾英二より                                                                                                                                                                      投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/09/14(Sun) 11:49  




 <島田 等さんを偲んで(18)> 雑感を書く

               人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

               ‘08年09月14日(日曜日) 11:44

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 私より一つ年上の1930年生まれの草津在住の沢田五郎さんが、水本静香さんに「書きたい事を書くのが文学ではなく、書かねばならないものが文学だ」と簡潔に言われたといいます(『菊池野』2008年9月号、29ページ)。私が生まれた1931年4月2日は、「癩予防法」(旧法)が制定された年月です。その年の9月18日には、「関東軍参謀ら、満州占領を企てて奉天郊外柳条湖の満鉄線路を爆破。関東軍司令部本庄繁、これを中国軍の行為として総攻撃を命令。満州事変はじまる。」 と『近代日本総合年表・第二版』(岩波書店)には、書かれています。

 それから七十七年の歳月がたちました。そして私自身でいえば、悲惨な戦争を広島の地でいやというほど体験しました。また、敗戦後は、若い力で私は、数多くの人民の戦列に加わり、国家権力などと闘ってきました。そして、歴史研究者として、今まで多くの文章を書いたのは、否、書き続けたのは、何故か、それを沢田五郎さんの言葉をお借りすれば、「書きたい事を書くのが歴史ではなく、書かねばならないものが歴史だ」という同じ心情・信念で今なお日夜、歴史記録を書いています。そして後世の人たちに少しでも伝え残したいという願いがあります。


 卓越した歴史家であるE.・H・カーは、「歴史は、現代と過去との対話である」と、『歴史とは何か』(岩波新書、1962年3月発行)で幾度も繰り返しています。同書の訳者である清水幾太郎は、「はしがき」で、「これは、彼の歴史哲学の精神である。一方、過去は、過去のゆえに問題とのではなく、私たちが生きる現在にとつて意味のゆえに問題になるのであり、他方、現在というものの意味は、孤立した現在においてでなく、過去との関係を通じて明らかになるものである。‥‥‥E.・H・カーの歴史哲学は、私たちを遠い過去へ連れ戻すのではなく、過去を語りながら、現在が未来へ食い込んで行く、その尖端に私たちを立たせる。」と述べています。


 今年8月30日の「ハンセン病の闘いの歴史にともに考えるBBS」の〔1756〕投稿文に、

「‥‥1980年の詩は1980年の時代の中の詩としていつまでも輝いていると思います」とし、また

 「島田 等さんたち「らい詩人集団」の「宣言」(1964年8月)でいう「自己のらい体験を追及し、また詩をつうじて他者のらい体験を自己の課題とする」こと。「日本の社会と歴史が背負いつづけた課題」である「私たちじしんの苦痛をはねなれて‥‥私たちの生の本質と全体性としてのらい、との対決への志向」は、現在も変わることなく、必要であり、「自己につながる病根を摘発することから、私たちは出発するだろう」という「宣言」は、現在なお、いささかも色あせてはいないと思う。」という拙文に対しては、

「滝尾さんのコンセプトで当時の詩を読まれるときそれは、変わらず輝きを持つものだと思います。」というご批評をいただきましたが、しかし、歴史を「現代と過去との対話として語ろう」としている私には、この一節は、とても違和感がありました、ということを述べておきたいと思います。

 歴史家であるE.・H・カーは、「歴史は、現代と過去との対話である」とし、「過去を語りながら、現在が未来へ食い込んで行く、その尖端に私たちを立たせる」という視点にたてば、この批評は私(=滝尾)の本意とは程遠いものを感じたこともまた、事実です。それは、沢田五郎さんのことばを借りれば「ぶざまな生き方はできない」ということでもあるのです。


 座右の書として私の敬愛しる石母田 正先生著『歴史と民族の発見〜歴史学の課題と方法』(1952年3月、東京大学出版会発行)の表紙裏に書いた若いころの書き込みがあります。紹介します。その気持ちは七十七歳になり、病んでいる私の現在でもいささかも変わっていません。

「人間にあってもっとも貴重なもの――それは生命である。それは人間に一度だけあたえられる。あてもなく過ぎた年月だったと胸をいためることのないように、卑しい、そして、くだらない過去だったという恥に身をやくことのないように、この生命を生きぬかなければならぬ。死にのぞんで、全生涯が、そしてすべての力が世界で最も美しいこと――すなわち人類の解放のためのたたかいに、捧げられたと言い得るように、生きなければならぬ。

 このような考えにとらわれて、(パーヴェル)コルチャーギンはなつかしい墓地を去った。」 つづけて、

「わたしは生活というものを形式的に見るようなことはしません。個人関係において、ごくまれには例外を設けることがゆるされると思います。でもそれは、その個人関係が大きな深い感情によって、呼びおこされた場合のことです。あなたは、それにふさわしいひとでした。‥‥パーヴェル、自分自身にあまりきびしい態度をとってはいけません‥‥
 わたくしたちの生活のなかには、たたかいだけがあるのでは、あるのではありません。やさしい感情の喜びもあります。 ― リーダ ― (『鋼鉄はいかに鍛えられたか』)

                    1953年5月3日に

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 今から、55年余前の二十二歳のとき、書き写したものです。昨日、親しい友人からメールで、つぎの五行歌が送られて来ました。「死への準備」をしている私には、示唆の富む五行歌だったので、早速、ご本人の了解を「返信」でもらい、ご紹介します。

血と骨と肉より生(な)れる

永遠(とわ)のいのちは神のものなれば
死の息は
汝に翼をあたえたり



[1777]  「島田 等さんを偲んで」(17回) 神谷美恵子著『新版・人間をみつめて』、朝日選書第17:(1974年8月発刊)より                                                                                                                                                                 投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/09/12(Fri) 20:42  


 「島田 等さんを偲んで」(17回) 神谷美恵子著『新版・人間をみつめて』、朝日選書第17:(1974年8月発刊)より

                     人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                         ‘08年9月12日(金曜日) 22:47


 神谷美恵子『新版・人間をみつめて』(1980年1月6刷・発刊)の記載された中から、島田 等さん著の「臨床における価値の問題知識人のらい参加(その二)神谷美恵子 (『らい』第21号、1973年9月発刊) と関連している箇所を幾箇所か、紹介してみようと思います。


<資料@> ‥‥‥ところが、その後間もなく、結核にかかっていることが発見された。万事休す。家族への感染の問題を考え、ひとりで山へ行くことを願い出て、療養生活を送った。地元の夫妻が階下にいて食事を作ってくれたが、感染を恐れていたから、窓ごしに食事を出してくれるとき、簡単なあいさつを交わす程度の接触しかない。よい薬もない時代で、治るみこみはほとんどない、と主治医の寺尾殿治先生から聞かされていた。二階にじっとねたまま、本台にぶらさげた書を読む日々の心境にはまさに「死への準備」のような面があった。‥‥‥この時にめぐりあった本たちは心の奥底にしみ透り、その後の一生を支えてくれたように思う。

 たとえばマルクス・アウレリウスの『自省録』はそうした本の一つだが、彼の宇宙的視野に立ってみるとき、自分が医者になれるかなれないか、病気が治るか治らないか、などはどうでもいいことにしか思われなくなってくる。地上の一生のことは大いなる摂理にまかせておけばいいのだ、と心から思えっとき、大きな安らぎにつつまれるのであった。(134ページ)。


<資料A> 「人間を越えるもの」

  慈悲となさけと和らぎと愛とに、
  あらゆる者は苦しいとき祈り、
  これらの喜ばしい徳に
  感謝の心をささげる。
    …………………
  慈悲は人の心にやどり
  なさけは人の顔にあらわれ、
  愛はこうごうしい人の姿、
  和らぎは人のまとう着物。

  あらゆる国のあらゆる人の
  くるしい時に祈る神は
  こうごうしい人の姿をもたぬか、
  愛と慈悲となさけと和らぎの。

  人の姿を愛せねばならぬ、
  異教びと トルコびと ユダヤ人も、
  慈悲と愛となさけのすむところ、
  そこに神おわします故。

(W・ブレイク作・土居光知訳「神様の姿」、『世界文学全集』河出書房、一九六九年、一一六ページ)

 右は英国のブレイクの詩である。至高者を思い浮べるとき、人間が普遍的に抱く心をあらわしたものであろう。こうした普遍的宗教心をたいせつにしたい。

 人間はいつの世にも人間を越えるものの存在を考えてきた。自分の有限性はあまりにも明らかであり、そのことを知るだけ、人間のあたまが発達しているからである。そのことは科学が発達するに従ってますますはっきりしてきた。


<資料B> 「島との出会い ― らいの人に」

 しかし、やっぱり、私の「初めての愛」はらい(二字は傍点あり、以下同様=滝尾)であったらしい。その証拠に、卒業の一年前、つまり昭和十八年に、瀬戸内海にある国立療養所長島愛生園に十二日間ほど見学に行っている。その当時の日記の一部が本書の第U部に入れてある。(中略)それとともに、らいの臨床にじかにたずさわって触れた患者さんたちの姿は、以前の、いわばかりそめの、観念的な出会いよりは、はるかに具体的な体験を心にきざみつけた。当時の見学日記に記してある、稚拙な詩を次に載せておこう。

        「らいの人に」

  光うしないたるまなこうつろに
  肢(あし)うしないたるからだになわれて
  診察台(だい)の上にどさりとのせられた人よ
  私はあなたの前にこうべをたれる

  あなたはだまっている
  かすかにほほえんでさえいる
  ああ しかし その沈黙は ほほえみは
  長い戦いの後にかちとられたものだ

  運命とすれすれに生きているあなたよ
  のがれようとて放さぬその鉄の手に
  朝も昼も夜もつかまえられて
  十年、二十年、と生きてきたあなたよ

  なぜ私たちでなくてあなたが?
  あなたは代って下さったのだ
  代って人としてあらゆるものを奪われ
  地獄の責苦(せめく)を悩みぬいて下さったのだ

  ゆるして下さい らいの人よ
  浅く、かろく、生の海の面(おも)に浮びただよい
  そこはかとなく 神だの霊魂だのと
  きこえよいことばをあやつる私たちを

  ことばもなくこうべたれれば
  あなたはただだなっている
  そしていたましくも歪められた面に
  かすかなほほえみさえ浮べている。

 いかにもセンチメンタルで気はずかしいが、当時の愛生園の状況は、たしかに地獄を連想させるものがあった。まだらいの治療法もほとんどなく、戦時中のこととて、二千人余の患者さんたちは栄養失調である上、むりな畑しごとをしなければならなかった。らいは悪化の一路をたどり、ほとんど毎日のように死亡者が出た。 (137〜139ページ)。


<資料C> 「うつわの歌」〜人間がみな「愛へのかわき」を持っていること〜

 「人間を越えるもの」が宇宙全体を支えるものだとすれば、そのものから人間に注がれる「配慮」を、「愛」とか「慈悲」とか人間的なことばで表現するのも、ずいぶんこれを矮小化したことかもしれない。しかし人間はほかにことばを知らないのだ。ということは、ほんとうにはその実体が私たちにはごくおぼろにしかわからない、ということを意味する。その認識能力が、私たちのあたまには、まったくそなわっていないのだ。

 しかし、まぎれもないことは、人間がみな「愛へのかわき」を持っていることである。その大いなる実体がわからないにせよ、人間を越えたものの絶対的な愛を信じることが、このかわきをみたすのに十分であることを、昔から古今東西の多くの偉大な人や無名な人びとが証明してきた。このかわきがみたされてこそ、初めて人間の心はいのちにみたされ、それが外にもあふれ出ずにはおかない。そのことをある人は歌った。題して「うつわの歌」という。

  私はうつわ
  愛をうけるための。
  うつわはまるで腐れ木だ、
  いつこわれるか わからない。

  でも愛はいのちの水
  大いなる泉のものだから。
  あとからあとから湧き出でて
  つきることもない。

  愛は降りつづける
  時には春雨のように
  時には夕立のように
  どの日にもやむことはない。

    ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

  うつわはじきに溢れてしまう
  そしてまわりにこぼれて行く
  こぼれてどこへ行くのだろう。
  ――そんなこと、私は知らない。

  私はうつわ
  愛をうけるための。
  私はただのうつわ、
  いつもうけるだけ。

 これを歌った人は、人の忌みきらう病をわずらい、一般社会から疎外されてもいた。それでもなお、この人には、いきいきしたものがあふれていた。私はそれをこの眼でみたから、うたがうことはできない。
                          (同書 116〜118ページ)


<資料D> 「看護婦 ― 女性の良さはまさにここにある」

 一九五九年七月十九日
 看護婦 ― それもまだうら若く、ほっおりした、未熟なくだもののような看護婦が、あの海千山千の、ふてくされたAを世話する姿。泣いて拒絶する彼女をなだめすかして、一口でも食べさせようとする姿をみて考えた。女性の良さはまさにここにある、と。本能的とでも言いたいようなやさしさ。看護婦の姿に私はいつも感動する。女性の持っている善いものの精髄(エッセンス)がそこに現れていると思う。
                           (同書 214ページ)


<資料E> 「ただの人間、ただの求道者」 神谷美恵子

 ‥‥‥「これは君の宿命だ」とN(夫=滝尾)はおどけたように言った。この理解のありがたさ。こうして皆から自分をむしりとるようにして、けさ早く、いつものように、ひとり出てきた。

  まっくらな道には
  もう春のやわらかい風が流れている。
  その流れに乗って
  べつの世界にすべり出る。
  だれもいない駅に
  ひとり腰かけて光をあび
  闇をみすえている者。
  それは女でもなく男でもない。
  主婦でも教師でも医師でもない。
  ただの人間、ただの求道者
  たえず別の世界にすべり出て
  人間を、人生を、世界を
  もう一度みつめ直そうとする
  一個の人間にすぎないのだ。
                              (同書 231ページ)

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

*予告* 次回の「島田 等さんを偲んで(18回)は、連載 私の履歴書(一二) きき書き しまだ ひとし 「ノ ン」(らいでないらい)を掲載します。らい詩人集団『らい』24号=1979年4月発行に掲載された文章です。長文ですので、何回に分けて掲載します。(滝尾)



[1776] 「島田 等さんを偲んで」(16回) 〜臨床における価値の問題〜 知識人のらい参加(その二)神谷美恵子 (『らい』第21号、1973年9月発刊)より (下); 神谷美恵子著『新版・人間をみつめて』(1974年8月発刊)より;序章 投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/09/11(Thu) 23:03  


 「島田 等さんを偲んで」(16回) 〜臨床における価値の問題〜 知識人のらい参加(その二)神谷美恵子 (『らい』第21号、1973年9月発刊)より (下); 神谷美恵子著『新版・人間をみつめて』(1974年8月発刊)より;序章

               人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                ‘08年9月11日(木曜日) 22:47


 神谷美恵子『新版・人間をみつめて』(1980年1月6刷・発刊)の奥付によると、「神谷美恵子(かみや・えみこ) 1914年、岡山県生まれ。津田英文塾卒。元津田塾大学教授。著書『生きがいについて』ほか。1979年10月、急性心不全のため死去」と書かれてあります。この『新版・人間をみつめて』の1刷発行は1974年8月で、「改訂版へのあとがき」によると、「旧版V部の他の人物論は廃し、そこへ「島日記から」をおさめた。」(258ページ)

 「島日記から」のなかで神谷美恵子さんは、同書の199ページに、<まえがき>として、つぎのように書いています。<「島日記」とは長島愛生園へ行くたびに官舎や舟や汽車の中で小さな手帖に書きつけていた日録のことである。正確には一九五七年四月七日の島滞在の時から書き始めているが、一九五六年半ばごろから島へ行く準備が始まっているので、平生の日記から関係事項だけ拾いあげておこう>と。

 だが、『新版・人間をみつめて』での実際では、一九五六年六月一日から始まり、かなりとびとびにこの「島日記」は記録かされています。最後の日記は、一九七〇年二月十九日で終っています。約60ページの内容です。神谷美恵子さんの「あとがき」によると、<「島日記」は一九七〇年春から夏にかけて渡米したときからぷっつり切れている。しかし仕事は多忙になるばかりだった」と書かれています。「島日記」は、精神科医として長島愛生園にかよい精神科の医療にあたった誠実なひとりの医師の「記録・資料」として、ハンセン病患者の実態・歴史などを知る上で、極めて貴重であると思います。

     ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 本編である臨床における価値の問題〜 知識人のらい参加(その二)神谷美恵子 (『らい』第21号、1973年9月発刊)のつづきから紹介することにします。

 <人間復帰の治療的意味> (しまだ ひとし)

 神谷氏が愛生園で考えさせられ、七年余にわたって書きとめられたことが(註一一)、“生きがい”という形をめぐるものであったことは、らいの医療もまた人間を対象にする行為であることを、この上もなくしめしている。

 らいばかりでなく、一般に慢性的な経過をとる疾病においては、多かれ少なかれ人間関係に痛手をうけることは普通のことである。ことにらいの場合にそれはひどいことは、あらためて例をしめすまでもないであろう。

 らい(発病)のショックというとき、私は人格の形成と表裏して形成されてきた人間関係の崩壊を考える。生きがいということもそれぞれの人々の人間関係を離れては考えられないからである。らいの深刻な恥辱感とか、人間疎外感、罪障感や「家」に対する責任感といわれるものもまた人間関係を前提にしている。

 神谷氏は“同じ条件”の中にいながら、生きがい感をめぐって患者の生き方にみられる大きな」ちがいに関心をもたれたと書かれているが(註一二)、患者のだれもが体験するところの既得の人間関係の崩壊も、その同じ条件の一つにあたるだろう。このような崩壊を永続させるならば、自我そのものの解消をもまねくにちがいない。

  「危機的状況におかれた人間は、……あらゆるエネルギーは自己を防衛することだけ
  に集中して用いられる。したがって自由はうしなわれ、個性はちっ息し、もはや人格
  とはいえない存在になる。急激な生きがい喪失の状態に陥ったひとが、みなおどろく
  ほど似た姿を示すのはそのためであろう。」(註一三)

       (中略)

 終生隔離をたてまえにしてきた療養所内での人間関係の再生は、もともとそれに代わりうるものではなかった。神谷氏があきらかにした愛生園の精神医学的な調査による、きわだった「無意味感」の存在(註一六)に、私はくずされたままの人間関係のなかにおかれている患者たちの姿をみる。

 このようななかでの生の獲得は、とりわけ文化的な課題であろう。しかし私たちはここでも発生(発病)における(疫学的状況における)非文化性をひきずっている。悲惨を悲惨とするにも、一定の文化的達成がいるのである。

 状況がそのようであれば、患者たちに生(気)をとりもどさせることは、その崩壊がもともと発病にともなうだけに、すぐれて医療的な行為といわなければならない。人間の心の世界のくみかえをとげさせることこそ、人間復帰の治療的意味であり、人間関係回復(再建)への助力もまた医療行為でなければならないであろう。自己の生への積極的な肯定(たんなる適応でなく、生の獲得の過程)を失なったままの状況で、人間が癒されるとは考えられない。


 <宗 教 論>

 神谷氏はみずからを求道者ともいわれる(註一七)。
 医者でもある氏が求道者というようなことばを使われると、私などは急に遠のきを感じてしまうのだが、氏にとってそれは個を越えるひろがりへの、謙虚と思いをこめられているのであろう。

 しかし求道者にたいして伝道者ということばをおくと、私はまた急に距離感をなくするのであるが、人間には伝道者的な生き方をする人と、求道者的な生き方をする人の二通りがあるように思う。

 はじめの方で伝道者と医師との立場のちがいについてふれられた神谷氏のことばを紹介したいのだが、あのちがいはまた伝道者と求道者のちがいでもあったと思う。そして重要なことは、現代においては求道的生き方(の方)が、その周囲(の人格)に治療的な効果を及ぼしていることである。たとえば次のような場面には、医師のかわりに伝道者がいても少しもおかしくない。

 「ともかく、失明直前の人やガンにかかっている人たちまで『往診』をたのんでくる
のである。決して薬が欲しいからではない。薬はいやです、と前もってことわる人もあるくらいである。『ただ苦しみを聞いてもらうだけでいいのです。吐き出すだけでも心がらくになります。』こうはっきりいった人が昨年あった。」(註一八)

 「昔、宗教が扱っていた問題が精神科医のところに持ちこまれることが少なくない」のは、文明の一般的傾向でもあるらしい(註一九)のだが、それにしても“ただ苦しみをきいてもらうため”に精神神経科をおとずれる患者の姿は、伝道者(そしてまた宗教)の在り方にかなり深刻な反省をなげかけているといえるであろう。

 「丘あれば寺あり」と、私は以前にらい療養所のさかんな宗教活動を詩したことがあるが、お通夜や葬いの席できく伝道者たちの説教は、教理を死者の過去にあわせてあまりにそつけなく、私にはむしろさむざむとしたものを、そしてことばの上でそれぞれ別々の生にくりかえされる共感きいていると、聖職というものの非情さに同情させられることが少なくないだけに、精神科医をおとずれる患者の気持はわかる気がするのである。

 共感(や受容)はなによりも生きている人にむけられなければならない。そのさかい目の自覚の所在が、求道者的生き方と伝道者的生き方を分けるように思う。

      (中略)

 氏のまなざしは、私たち患者の日常生活の自然な応接のなかや、いわゆる「壮健さん」(非患者)との壁を感じさせない態度をとれることのなかにも、宗教的な生の特徴を見出していられるのだが、(註二六)、そこにはとらわれのない人間性探求の真実がある。人間の存在が「経験の価値属性」から離れえない以上、それを宗教(的)といおうというまいと、それらは欠くことのできないものであろう。そうした説得性がそこにはある。


 <「初 め の 愛」>

 なぜ私たちでなくてあなたが?
 あなたは代って下さったのだ(註二七)

 『人間をみつめて』のなかに、「らいの人の」という神谷氏の詩がみられるが、それにしても氏の「初めての愛」(註二八)がなぜらいであったのか。氏の私たちにしめされる受容の深さはどこで、どのようにして用意されたのか。

 『生きがいについて』と『人間をみつめて』の二著や、らい園の雑誌に発表された数々の文章から、そのことについてこれというものを私は見出せなかった。もともと一つの原因にそれを見出したがることじたい、人間理解の不毛性をしめすものかもしれない。

 「自分より永続するものと自分とを交換する」(註二九)という“交換”の思想を、私たちのうえに架けさせたであろうものは、なによりも神谷美恵子氏の人間性に根ざしていることはいうまでもないであろう。その人間性が、どこでどのように形成されたとしても、“永続するもの”を求めるこころを介して私たちが触れあえるのは幸いである。

                             (一九七三、五月)

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 註

一一、神谷美恵子 「出版うらばなし」 『愛生』一九六六年一〇月号
一二、神谷『生きがいについて』九頁
一三、同右 八五頁
一六、高橋幸彦「らい病学の臨床V精神状態」 『らい医学の手引き』一六四頁 克誠堂出版 一九七〇年
一七、神谷 「出版うらばなし」 前出
一八、神谷 『人間をみつめて』 一六二頁
一九、同右 一六三頁
二六、『生きがいについて』 一六八頁  『人間をみつめて』 一七〇頁
二七、神谷 『人間をみつめて』 一三八頁
二八、同右 一三七頁
二九、同右 一七〇頁

                    (この論考は未完です。)

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥



[1775]  「島田 等さんを偲んで」(15回) 〜臨床における価値の問題〜 知識人のらい参加(その二)神谷美恵子 (中)                                                                                                                                         投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/09/09(Tue) 21:07  

 
「島田 等さんを偲んで」(15回) 〜臨床における価値の問題〜 知識人のらい参加(その二)神谷美恵子 (『らい』第21号、1973年9月発刊より) (中)

               人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                ‘08年9月9日(火曜日) 21:00


 今朝は、自宅の近くにある整形外科医院で脚腰のリハビリを受けて、歩行運動をして、お昼過ぎに帰宅したら菊池恵楓園入所者自治会機関誌『菊池野』第639号(2008年9月10日発刊)が送られていました。

真っ先に、水本静香さん(埼玉県在住・恵楓園退所者)の「身辺雑記(三)」を読みました。『泥えびす』・『その土の上で』・『野ざらし』・『とがなくて死す』・『風荒き中を』・『その木は這わず』・『青蛙物語』などの作品がある私(滝尾)より一つ年上の一九三〇年生まれの沢田五郎さんを水本静香さんは、草津の楽泉園に訪ねる。そのことが、「身辺雑記(三)」に書かれていました。その水本静香さんの「身辺雑記(三)」の文末に近い部分を紹介したいと思います。


 「‥‥五郎さんは簡潔に言われる。「書きたい事を書くのが文学ではなく書かねばならないものが文学だ」と。そして私達はもはや絶滅の貴種だ、多くの人に見られている、ぶざまな生き方はできない、私はせっかく癩者になったのだから、そして失明までしたのだから、何か得る所もなければという思いを貫きたい。氏の言葉の片々を記録する。

 沢田五郎さんは、一九三〇年(昭和五年)生まれ、アジア太平洋戦争の最中、十一歳で入園されている。つまり戦前戦中戦後、プロミン獲得運動、人権闘争などハンセン病の歴史の中で一番しんどかった時代をすべて体験されている。しかも二十五歳にして完全失明。病気になったショックよりも失明の衝撃の方がより大きかったという記録を何度か読んだ事がある。同じ病をもっていたとはえ事の当事者と非当事者との乖離は絶対的な相違があろう。

 後日、氏の本の中に「病が自分を鍛えた」という一行を認めた時、思わず粛然となった。この病のいわば最深部におられる方の言葉の成分の一滴は、怠情な自分のみぞおちを打つ。

  性根据えてらいの一生を生きるべし
    嘆きの日々は空白に似る

 腰の座った信念の声明の作品にはウーンとうなるしかない。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 「前文」は、これまでとして、「本論」の島田 等さん著の「臨床における価値の問題知識人のらい参加(その二)神谷美恵子(『らい』第21号、1973年9月発刊より)の昨日のつづきを紹介することにします。


<らいの医療の第三の段階>

 日本のらい患者はいまなにを病んでいるのか。
 プロミンなど化学療法剤の開発は、らいの非伝染性化(菌陰性化)に見とおしをつけた(註一〇)。またリハビリテイション医学の適用は、一般にらいによる後遺症といわれる身体障害への対策(防止と回復)を体系化させる方向をひらいている。
 しかしそれでも患者は病んでいる。

 少なくとも患者の多くは病んでいる思いから解放されていない。

 このような事情にたいして、精神科医としての方法論に個人的な素質を加えて、早くから注目された一人は神谷氏であった。私はその分野をらいの医療の第三の段階(または側面)としたい。

 医療者は、分化し、専門化した自己のフィールドで、むろんせいいっぱい“科学的”にやっているであろう。しかしそれにもかかわらず進行する欠陥(上記)を埋めることができぬままに、それを医療といい通すのかどうか。

 『生きがいについて』という神谷氏の著作は、ここ何年間かの生きがい論流行の先駆的な位置づけをすでにあたえられているが、一般社会への波及はともかく、その論考の土台となった私たちじしんにとって、それはさらに端的な問いかけを返されているものであった。人間の残酷さということが、ほかならぬ私たちの存在をつうじて普遍化されるとき、私たちは、私たちの悲惨をどううけとるべきか。(未完)



一〇、「難治らい」(菌の薬剤抵抗性の問題)はのこされているが、これは結核においても「難治結核」がいわれているように、らい特有のことではない。

(滝尾から:明日は早朝より、広島市立安佐市民病院へ診断を受けにいきます。そのため、早く就寝します。<人間復帰の治療的意味>、<「初めの愛>、及び神谷美恵子著『新版・人間をみつめて』(朝日選書17)の中の記述の紹介は、(下)で、致します。」

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥



[1774]  「島田 等さんを偲んで」(14回) 〜臨床における価値の問題〜 知識人のらい参加(その二)神谷美恵子                           (滝尾)                                                                                                             投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/09/08(Mon) 22:26  


 「島田 等さんを偲んで」(14回) 〜臨床における価値の問題〜 知識人のらい参加(その二)神谷美恵子 (『らい』第21号、1973年9月発刊より) (上)

               人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                ‘08年9月8日(月曜日)22:20


 『らい』第21号の「あとがき」で『らい』誌の編集・発行者である島田 等さんは、つぎのように書いています。

「‥‥先号(第20号=滝尾)の記事『知識人のらい参加―永丘智郎―』のなかに、事実についての誤りがあり先生よりおたよりをいただいた。それにもとずいて訂正記事を出しましたが、誤記をおわびし、先生のご指摘にお礼申します。

 今号の『知識人のらい参加』では、神谷美恵子先生について書かせていただきましたが、実質的に先生の医学上の論文(原著)ぬきにしてこういうものを書くのは、冒険のようでもあり、気がひけますが、しかし“患者による医療論”というものもあった方がよいように思います。

 医療という行為、関係の、一方における当事者でもある患者からの発言が、出版物や学会などにおいてもほとんどないということの方が、問題をふくんでいるように感じるのです。最近は患者にかんする発言も、また患者からの発言も、また患者からの発言も増えてきているようですが、それらにしても医療内容というところの手前で立ちすくんでいるのではないでしょうか。

 らい療養所の中にしても、患者運動は活発なところとして受けとられている面もありますが、その活発さは必ずしも医療(効果)とうまくからみあっているとはいえません。」


 「臨床における価値の問題 知識人もらい参加(その二)神谷美恵子」 しまだ ひとし

「‥‥トラブルはらい療養所における患者の日常と切り離せない。その契機の個別性、瑣末性とはうらはらに、それはしばしば患者の“全人格的”な振幅をしめす。またそれに対応する医療の側の“拒絶反応”もおだやかなものとはいえない。<日常>といい、<人格>といい、日本の医療が体質的にきらいなものであるからである。

 「精神科医の立場は伝道者のそれとはちがい、こちらの考えを説教するのではなく、相手の心の世界を知り、できればそれに通じることばを発見しようとするのが第一の任務である。」(註二)と、医師と伝道者との立場のちがいについて神谷氏はふれていられるが、患者としてはその前に、同じ医師のあいだにみられるちがいについて考えさせられる。

 ここ何年か前からか、新任される医師の挨拶の中で、「患者さんとは医師である前に、人間として接したい」ということばをきくようになったが、医療の場において人間的であることの課題がどんなに重く、今日的なものであることかを、それらのことばは担われているのかどうか。


<医療の近代化とはなにか>

 人間が病むということも、あらためて考えようとするとなかなか厄介な問題らしい(註三)。何人もの学究が著書をかさねてもつきるところがない様子なのは、理解の角度が多様にとれるだけでなく、曖昧であるためという。病気を病気とする(また健康とはなにかという)基準はなかなか設定できないという。学問的な認識はむつかしいかも知れないが、私たちが病んでいるという実感はそんなに曖昧ではない。そしてその感覚はなによりも“人格的”である。人間には“部分的に”病むことはできないのだ。指が指だけで病んでくれたらと、滅多に思いつくこともないほどそれは中枢的である。

 患者は病めば病むほど“全人格的”になるのに、医療は近代化を進めれば進めるほど“反人格的”になるところがあるらしい。『分化』と『専門化』をすすめてきた医療は、いまや『人体部分修理術』といわれ(註四)、『区別された各部分の病気については責任をとれるが、患者全体については責任をもちえない(註五)といわれ、『専門家』とは『小さな誤りはしないが、大きな誤りに近づいていることを知らない人種』(註六)という声もきかれるほど、人間といのちを忘れることで医療は成り立つものでもあるかのようにいわれてきているとき、患者は『生命全体に対する配慮』(註七)をだれに期待したらよいのか。

 いまのらい療養所にそのような配慮が制度化されているとはいえない。逆にそうした配慮への責任を転化し、分散することで、問題解決を図ろうという意図はみられるが、しかし個々断片的にはそのような意志の存在はたしかめられよう。(未完)

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥



二、神谷美恵子『人間をみつめて』280頁 朝日新聞社 1971年
三、中川米造『医学概要』(2・病気とは)、『健康会議』1972年12月号
四、大段智亮『看護のなかの人間』59頁 川島書房 1972年
五、中川米造『医学概要』 大段 前掲書59頁所収
六、マルクーハン 大段 前掲書59頁所収
七、大段 前掲書58頁



[1773] 二三日 投稿者:北風 投稿日:2008/09/07(Sun) 20:24  

留守します。



[1772]  らい詩人集団発行『らい』の同人である小泉まさじさんの詩を紹介します。〜『らい』編集・発行者・島田 等さんを偲んで(13)〜                                                                                                         (滝尾)                                                                                                                                                                                     投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/09/07(Sun) 17:35  

 らい詩人集団発行『らい』の同人である小泉まさじさんの詩を紹介します。〜『らい』編集・発行者・島田 等さんを偲んで(13)〜


             人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

              ‘08年 9月7日(日曜日) 17:25


『小泉雅二詩集』の序文は、永瀬清子さんが書いています。現代詩工房から発行された「小泉さんの詩のこと」を永瀬清子さんは「‥‥こんど亡くなられて、目がみえんようになられて書かれたものが、やつぱり小泉さんでならんというものを書いていられたと、書いていられたと、非常に私はうたれたわけです。」と愛生園での文芸講演会の講演記録で1969年11月3日に話しておられます。

 これは、らい(季刊)第17号の表2で(新刊紹介)でお書きになっています。さらに永瀬清子さんは、つぎのようにも書いておられます。

 「‥‥その中で、<誰のためにも生きないこと。誰のためにも死なないこと。ひとひとりを救おうなどと考えないこと>というようなことでも、小泉さんでなければいえないことだつたと。

 それで、愛がね、『志保子抄』に書れていられるけれど、<ほんとうに愛していないのかもしれない。自活できないのだから>といつていられるのが、ほんとうに可愛そうで……私もそういうことがいえることは、あなた方にたいして、ほんとうになにか、いうにいえないつらさを、私はそこに感じたのです。

 で、生活できないということは、みなさん方にはね、いろいろな病気の苦労以上に、つらいことになつているんじやないかと思つていたんですが、やはり小泉さんがこんなに書いてくれるとね、やはり言つてくれるとるなと思つたですね。」(昭和四四年十一月三日、愛生園での文芸講演会の講演記録から)。

 「小泉さんの詩」である『志保子抄』は、『らい』第19号;1972年5月発刊の24〜25ページで、書評『志保子抄』が遠藤一夫さんは(『油紋』十六号)を紹介しています。『らい』第19号の編集・発行人は「しまだひとし(島田 等)」さんです。


 遠藤一夫さんが書かれておられる書評『志保子抄』には、つぎのような一文があります。

「‥‥志保子(非らい者)の来訪は、小泉雅二にとって、らいを識るてだてとして意味があった。処女のもつ自我球のまぶしい程の輝きにらいは陰をいっそう明確にする。らい者と非らい者との断層を相愛によって埋めようとする努力程、虚しい行為があるだろうか。少女のふくよかな未来がらい者の暗みを浮出させる。志保子は一夜の悪夢ではなかった。不存者共有の持てない希いであり祈りでもあったろう志保子をめぐるトラブル(詩作)が続く限り小泉雅二は、一握の生を確認出来たろう。そして志保子は不死身であり小泉雅二は逝った。

   病まない者たちの世界で
   病むことは異常だけれど
   病む者たちの世界では
   病まないことは異常ではない
         「らい民族の存在」

 識ることは逃げない事である。書くことは自らを裁く事である。らいがらいで在り続ける世界にひかれた矢に射たれた私である。」(部分)。



「志保子抄」小泉まさじ( 『らい』第3号、1965年3月発刊、14〜15ページ掲載より)

       <1>

  霧のある日 渡し船から身軽く ぴょんと
  らい園の桟橋に飛び移つた スラックスにセーターの少女がいた

  少女はらいを知りはしなかつた

  ただ一人で瀬戸内海の 一月の寒風を断ち切つた 少女

  赤いネッカチーフの 十七才の冒険だ

  カモシカのような 少年のような強靭さがあつて 明るく ほがらかな笑いが 潮風にのつて らい園を包んだ

  少女はらいを怖がりはしなかつた

  それで らい園の若者たちは 少女の周囲に群がるつた
    語り合い 唄つた
    けれど みんな らいの本当の怖わさを知られたくはなかつた
    少女もそれは怖わかつた

  少女はうたうように一篇の詩をそらんじた
    ぼくは それがぼくの詩であることにおどろいた
    少女がそれを誰のものかとたずねたが みんな知りはしなかつた

  少女がぼくに会いたいと言うので
    ぼくは少女ののために大声でぼくをさがしてやつた
    みんなが ぼくのお道化をうれしがり
    少女は やつとぼくに気づいてはしやいだ が
    ぼくがじつとみつめたら 恥ずかしそうにきれいな十本の指で顔を覆つた

  指間から きらりと瞳が覗いていた

  ぼくの視線にはらい菌がいた
  少女の視線はそれをみた

  「わたし志保子です」と少女は戸惑の眼を笑ませて会釈した
    ぼくはぼくの躰の何処かで 凍てつく音をきいていた

  少女の会いたいと願つていた たくまし美男の詩人は不在であつた

  うろたえかくすように ぼくに笑顔をふるまいながら
  少女は 再び ぼくの詩にリズムをつけた。

       <2>

  らいを知らずにいれば らいの苦しみを知らずにすんだ

  らいは酷い
  らいは怖い
  らいは惨めすぎる
  らいは悲しい

  らいにそつぽをむけて通り過ぎればよかつた

  志保子

  他人の不幸事にかかわらなければ
  いつも苦しみを知らずにいられるだろうか
  氷のような世の中を逃げまわつてさえいれば
  幸福だろうか

  「志保子に現実を突きつける 残酷な一枚の鏡があなただ」
  「あなたにえぐられた心は 堅く閉じて 犯罪者のように惨めだ」
  「あなたを慰めようとした 志保子の優越感がきりきりとうずく」

  「あなたは夢のなかにいなければよかつたのに」
  十七才の気どりを 泣き崩した 志保子

       <3>

  昼間は働らく 高校二年生の 志保子

  春の 青空に 街路の にせあかしやの白い花びらが 一勢に飛び散ると
  宣伝カーのなかで みぞおちの深くに 海の白波をかきたてていた

  空と 海の 十七才の青さ

  らい園を訪れる志保子

  ひと月に一度はやつてきた にせあかしやの花が好きだといつた
  沢山の詩を書いて一冊だけの詩集を出したいと言い
  そんな考えは子供かしら……と言う

  ぼくに追いつき 追い越すのだ! とはしやぐ

  ――ある日 帰りの桟橋に急ぎながら
  「わたし患者さんと恋をしてはいけない?」
  と つぶやく 視線がこたえを待つていた
  「らいに苦しんでいるのは 人間だよ」
  ぼくに
  志保子はこつくりとうなずいてみせた

  志保子はぼくを鏡にした

  らいに育くまれているぼくが鏡だ

  鏡をみがいているのはらい菌だ

  らいが鏡だ

  鏡のまえでうろたえる志保子 鏡を砕け!

  桟橋を離れる船上で 斜陽にはねかえる 波――志保子。

       <4>

  着飾つた晴着に このうえもない汚物がついて 人々の眼が集まつたら
    年頃の娘でなくても 窒息しそうになつて 逃げ走つてしまうはずだ

  <らいは汚物だ――>とぼくは考えていた

  坐れずにいる 志保子とぼくの旅に 車輛の視線で 逃げ場はない
    とじた瞼に 十字架の キリストの苦悩を背負つていた志保子

  志保子が処刑されている

  罪名はなに?
  被害者はだれ?
  処刑執行人は……?
     <志保子を汚しているのはぼくだ>

  ぼくはいらだつ心で煙草をくわえる
  「もうじきに着くわ――」
  志保子が落ち着いた声でマッチをする

  車窓で 絵のような風景が次々とうしろへ倒れて
    瞬時が過去になつていた。

     ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥


[1771]   今日、広島赤十字・原爆病院を退院し、再度、病院を変えて、安佐市民病院へ再入院する予定です。                                                                                                                       (滝尾)  投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/09/07(Sun) 00:21  

 
今日、広島赤十字・原爆病院を退院し、再度、病院を変えて、安佐市民病院へ再入院する予定です。9月1の深夜、体も手足も全く動かなくなり、その上、発言も不能となり、ぐるぐると天井が廻り、やがて意識は朦朧とし、意識が定かでなくなってきました。

 ともあれ、119番に妻が電話し、救急車で広島赤十字・原爆病院の救急病棟へ運ばれ、頭部のCTを撮り、また、血糖値を測定しました。頭部のCTには異常はありませんでしたが、血糖値は「32」で、症状は「低血糖性意識障害」と診断されました。家で口に入れて「飴玉」をしゃぶったので、救急車に乗せられた時の血糖値は「20代」ではなかったかと思います。

 症状の「低血糖性意識障害」が起きた理由は、簡単です。広島赤十字・原爆病院の内分泌科の主治医の指示で「糖尿病用薬・アマリール錠3mg」を朝食前と昼食の30分前に、各1錠づつ、計6ミリグラムを服用したことと、それに、相互作用として、「血糖降下剤・グリコラン錠250mg」及び、「グリコバイ100mg」を朝・昼・夕と各1錠を毎日、服薬するよう主治医から指示され、それを忠実に守ったことです。

 その「糖尿病用薬・アマリール錠3mg」を朝食前と昼食の30分前に、各1錠づつ、計6ミリグラムを服用しと、「血糖降下剤・グリコラン錠250mg」、「グリコバイ100mg」の自宅での服薬は、2002年5月以降、ずーっとつづけました。ところが、加齢のともなう体力の衰え、食生活の減少などは、この「糖尿病用薬・アマリール錠」一日、6グラムなどどの3薬の服薬する老齢になった私にとって無理があつたといわざるを得ませんでした。幻覚・幻聴が最近、しばしば起きるようになったのも、低血糖時に起きていたわけです。

 今年の6月に2週間、広島赤十字・原爆病院の内分泌科へ入院の際も、たびたび「低血糖」が起きて、その度に「ぶどう糖」を飲んで、血糖を上げていたという教訓が、私自身も、さらになぜ、その後の広島赤十字・原爆病院の内分泌科の医師ものれを生かして、「糖尿病用薬・アマリール錠」などの服薬をチェック出来なかったのだろうか、疑問を感じています。

 確かに、月平均血糖値(A1c)は6・0と低くはなっても、その裏側には「低血糖」という症状が常時起きていたということを忘れていたのです。私は気が付かなかったのです。もちろん、医師の多忙があり、患者と医師が話し合う機会が少なく、予約時間を午後1時30分だと決めても、実際の診察は3時30分まで待ち、それがまた「3〜5分間診察」が広島赤十字・原爆病院の内分泌科では日常化しいています。医師も休みなく診察しています。午後4時ころには、もう医師はくたくただ、ということが、私には分るだけに、訴えたいことも、言いたいことも言えないのが、待っておられつ患者さんのことを思って、午前中の血液検査・尿検査のデーターだけを見せてもらって、薬の処方箋を書いてもらって帰るというのが実情です。


 広島赤十字・原爆病院にパンフレットには、「人道・博愛の赤十字精神のもと、人々の愛され信頼される病院を目指して‥‥」とその理念として書き、「基本方針」として「○患者さまの人権を尊重し、納得と同意に基づいた医療を提供します。」と書いても、それは絵空事に過ぎません。どこに「患者の納得と同意に基づいた医療を提供」があるのか、はなはだ疑問です。この度、広島赤十字・原爆病院の加療するのを変えようと思ったのは、以上のことからです。この問題は、今日の「日本の医療制度」に根ざしているだけに、その変更はなかなか困難だと思います。

 ながながと私の愚痴話しを読んでいただいて、感謝します。


 福留範昭先生から、「韓国の過去問題に関する4記事」が送られてきました。この4記事は『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。また、『滝尾英二的こころ』などには、「前文」と、「韓国の過去問題に関する4記事」の見出しを投稿します。福留範昭先生、と「聨合ニュース」を訳された森川静子先生に感謝します。

             人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

             ‘08年09月06日(土曜日)23:58

  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

  福留です。韓国の過去問題に関する記事を紹介いたします。

1) 尹靜慕、歴史童話 『鳳仙花が咲く頃』 (聯合ニュース)
2) 日本ドキュメンタリー特別展、20日からソウルで (聯合ニュース)
3) 日本の次期総理 有力な麻生幹事長 (聯合ニュース)
4) 「妄言」麻生、日本の後任総理に有力‥‥韓日関係への影響に「触角」 (クッキーニュース)



[1770] 知識人に限らない。 投稿者:ルリカケス 投稿日:2008/09/05(Fri) 20:04  

>そういう中で、大江さんや村松さんなど、そういう匂いのしない人たちに導かれたのは、幸運というか有難いことであった。
この際、「本当にハンセン病患者(元患者)と親しくする」ということはどういうことかを考えてみたい。

>この際「本当にハンセン病患者(元患者)と親しくする」ということはどういうことかを考えてみたい。

実際にそうですね!難しい面もあり、また旨く付き合える人もおります。

私などは、裁判時代の支援者は、退所いたし、殆んど縁は切れ掛かっています。入所者と退所者の違いあるのか?




[1769] 知識人に限らない Re:[1767] 知識人のらい参加 投稿者:北風 投稿日:2008/09/05(Fri) 19:15  

>
> 問題意識としては、極論すれば、最近の「知識人」は迎合するか、調査対象としか見ていないのではないかという懸念がある。
>

そういうご指摘があった。
ハンセン病の世界は、なぜか付き合いの長さ、だれそれとの親しさを競う風潮がある。これは不思議なことに、ほとんど例外がない。もちろん、親しいのは悪いことではない。しかし、親しさを売りに猿山の猿の順位付けめいたことに使わないことだ。それは、とりもなおさず、相手を利用していることに他ならない。

そういう中で、大江さんや村松さんなど、そういう匂いのしない人たちに導かれたのは、幸運というか有難いことであった。
この際、「本当にハンセン病患者(元患者)と親しくする」ということはどういうことかを考えてみたい。




[1768] Re:[1767] 知識人のらい参加 投稿者:北風 投稿日:2008/09/05(Fri) 12:11  

>
> 問題意識としては、極論すれば、最近の「知識人」は迎合するか、調査対象としか見ていないのではないかという懸念がある。
>

鶴見さんのお返事を待って、部会に正式に諮り準備を始めたいと思います。
事前の勉強会無しでいきなりでは、(このテーマに限らないでしょうが)成果は薄いし、せっかくの機会を生かせないですから。



[1767] 知識人のらい参加 投稿者:北風 投稿日:2008/09/05(Fri) 10:25  


問題意識としては、極論すれば、最近の「知識人」は迎合するか、調査対象としか見ていないのではないかという懸念がある。




[1766] Re:[1765] セミナー 投稿者:エミ 投稿日:2008/09/04(Thu) 10:46  

> 「らい」誌の連載に、島田等さんの「知識人のらい参加」という連続評論がある。とリあげているのは、神谷美恵子、永丘智郎だが、(…略…)
・・・・・・・・・・・・・・・

『癩と社会福祉』の杉村春三氏も勉強したい。
『病棄て 思想としての隔離』(ゆみる出版、1985年)「U 知識人のらい参加」「らいにおける福祉の意味―杉村春三」




[1765] セミナー 投稿者:北風 投稿日:2008/09/04(Thu) 09:43  

「らい」誌の連載に、島田等さんの「知識人のらい参加」という連続評論がある。とリあげているのは、神谷美恵子、永丘智郎だが、このテーマで、いしが・おさむ、森幹郎、大江満雄、村松武司らのかかわりもふくめて勉強したい。
鶴見さんに、話をしていただけないか打診したら、今年はいっぱいだが「来年生きているとすればお引き受けします」というお返事をいただいた。
森さんも多分お話していただけるような気がする。

最近、大月書店から『癩者の憲章―大江満雄ハンセン病論集』という本が出た。この本を編集したのは、木村哲也という若い人だが、このひとの話を聞くのもいいかもしれない。



[1764] お大事にしてください。 投稿者:ルリカケス 投稿日:2008/09/02(Tue) 19:41  

北風さんありがとうございます。

大分疲れが出たのでしょう?夏の。私も今頃気候不順で身体の調子今一です。

滝尾様ゆっくり静養されて下さい。遅い夏休みと思って、では大事にして下さい。


[1763] お知らせです 投稿者:滝尾さんから 投稿日:2008/09/02(Tue) 16:19  


滝尾さんからの連絡です。

午後4時ごろご本人からの電話で、昨晩、血糖値の急な変動で緊急入院されたとのこと。

しばらくの間、執筆はお休みになります。

お読みいただいている方々にご心配をかけても、ということで、取り急ぎお知らせいたします。

電話の声では落ち着いておられる様子でした。




[1762] 『あきの蝶』より 投稿者:エミ 投稿日:2008/08/31(Sun) 14:06  

『あきの蝶 近藤宏一詩集』(編集・発行:ハンセン病問題を考えるネットワーク泉北、2007年7月7日発行)より1篇

  あらし     (1978年「裸形」)

雨がはげしくしぶいている
風が吹き荒れている
ぼく等は練習をつづけている

ぼく等の練習は三時間をこえた
いやすでに四時間目にはいっているかもしれない
夜は更ける
嵐はますますはげしくなる
ぼく等は練習をやめない

吹きとばされそうなガラス戸
たたきつける雨しぶき
建物ぜんたいがごうごうとうなりをたてる
どこかで物の壊れる音
庭の樹木の狂ったようなざわめき
天地はまさに大きく揺れ動いている
ぼく等もまた大きく揺れ動いている

自分に与えられたメロディーを何回も繰り返しながら
脳裏に刻みつけ
ゆきつ もどりつ
ぐるぐる回転しながらしだいに進んでいく
この嵐も南方の空からぐるぐる回転しながら進んできたのだ
そしていまぼく等の頭上にとどまり、そのもてる力を放出し
地上のあらゆる夾雑物を吹きとばし、洗い流しているのだ
ぼく等も洗われている

ときおりハーモニカの音が掻き消されそうになる
ぼく等は疲れてきた
体のふしぶしがいたんでいる
だが合奏はしだいにかたちをととのえ鮮明になってきた
いまやめてはならない
もう少しだ
そして今宵はぼく等の心にとりついたはげしいものを
ぼく等はみんなはっきりと感じとっている

渦をまきもつれあい
はげしくぶつかりあう熱いものを・・・
嵐はつづいている
ぼく等の練習もなおつづいていく




[1761]   らい詩人集団発行『らい』の同人・近藤宏一さんの詩を五篇 〜島田 等さんを偲んで(12)〜                                               (滝尾) 投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/08/31(Sun) 10:09  

らい詩人集団発行『らい』の同人・近藤宏一さんの詩を五篇 〜島田 等さんを偲んで(12)〜


              人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

              ‘08年8月31日(日曜日) 10:00


(1)「僕のお父さん」、高一 近藤宏一(長島愛生園慰安会発行『愛生』第九巻・第十号、37ページ、1939年10月発刊)

  お父さんは
  オートバイの運転手
  毎日大阪市内を走らせて
  働いてい居られる
  お父さん
  仕事に出られる時
  お母さんは心配さうに言うはれる
  「気をつけて行つていらつしやい」
  その度に「大丈夫だ」と
  力んで言ふお父さん
  仕事服は何時も油のにほひ
  していたつけ

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(2)「望ケ丘の少年少女寮跡を訪ねて」、 近藤宏一 (らい詩人集団発行『らい』第25号、1〜2ページ、1980年2月発刊)

    (一) ブランコ

  誰もいない広場
  岬の端の小さな校舎
  かすかな海鳴りの底に沈んでいるのは
  遠い日の古びたオルガンの音
  ああ らい児の日のままにブランコをこぐ
  錆ついた時間をこぐ


    (二) い も 畑

  いつも爪の先に血をにじませながら
  にぶい目の色をして
  らい児はこのいも畑をひらいた
  たたかいの日、飢えた日、枯木のように大勢が死んでいった歳月
  ああ あれは夢ではなかった
  たしかな、たしかならい児たちの歴史の一齣
  いまは草茫茫の
  誰もいなくなったこの丘を
  私たちは望ケ丘といまも呼んでいる


    (三) 楠

  空を指し、枝を張り
  思い出の楠はもう見上げるばかり
  あの日竹とんぼの好きなサーちゃんが赤痢で死んだ
  丸い目をしていたあの少女は
  あの日に故郷へ帰ったまま、
  丘の上でいつまでも
  私がハーモニカを吹いたのもあの日であつた
   「○月○日
   アメリカ艦隊沖縄を砲撃……」
  重苦しいラジオの臨時ニュース
  濁った大風子油の
  いつまれも消えない注射の痛み
  あの日、みんなで植えた楠の苗木に
  私たちは何を祈ったのだろう


    (四) 夕陽の庭

  崩れはてた廃屋の庭に
  こうろぎが過ぎ去った時間をかぞている
  瓦礫の間に枝をはり
  蔓草が白い花を風にふるわせている

  ああ この丘にらい児は絶えた
  ひとつのうたが終った
  しかし私は見た
  はたしえなかった無数の幼い祈りが
  いつまでも夕陽の庭に深い影をとどめているのを

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(3)「無 題」、 近藤宏一 (らい詩人集団発行『らい』第16号、8ページ、1969月11発刊)

  摘出された眼球の空洞に
  風が細い糸を引く。

  私は季節をなくした。

  光が
  闇のむこうで乱反射し、
  追いつめられた生命の粒子が
  無数の金の星座を編む。

  癩が私なのか、
  私が癩なのか、

     癩と私との間の
     にがいにがい生への欲求――
     蝶になる毛虫の夢――

  摘出された眼球の空洞に
  風が細い糸を引く。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(4)「冬 の 朝」、近藤宏一(らい詩人集団発行『らい』第20号、6ページ、1972月9発刊)

  赫土の土堤に霜柱が
  魚の骨のようにぼろぼろとくずれ落ち
  冬の朝はすすりないていますね。

  牛乳配達夫の白い息が
  昨夜の遊戯の疲れを木立ちの間にはき捨て
  冬の朝はやはりすすりないていますね。

  朝という名のけだるさが
  今日一日の重さをたずさえて来て
  僕はやっぱり
  暖めたベッドが一番恋しいのだ。

  看護婦よ
  窓から見える海面に
  真黒な濃汁が滲み出てはいないか
  天から無数の羽のしずくがこぼれ落ちてはいないか
  天も地も
  海も
  今正直の恐れおののいて
  冬の朝はやはりないていますね。

  母よ
  神よ
  あなた方は涙ぐみながら
  はるかな季節の脈搏のむこうから
  僕を見つめて
  冬の朝はやはりすすりないていますね。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(5)「明日への道は遠い」、近藤宏一(らい詩人集団発行『らい』第17号、5ページ、1970月4発刊)

  健やかな指と、
  なえた指とが
  一つの薔薇をさす……その角度。

  明日への道は遠い。

  肌をなくした土色の想念と、
  つぶらな少女の瞳とは
  いつまでも結ばれ得ないか。

  明日への道は遠い。

  あなたが私になり得ないように、
  私があなたになり得ないように、
  癩者と、
  非癩者との、
  鋭敏な鋭敏な拒否反応。

  個人では既にいえ、
  社会では猶いやされない。
  あゝ
  癩の鋭敏な拒否反応。
  そうして屈曲した指が
  その心のまゝの方向を指していない間に、
  薔薇は
  風の中でそのまゝ化石となる。

  明日への道は猶遠い。


 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥


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  島田 等さんを偲んで(11) 「母について」(らい詩人集団発行『らい』21号(1973年9月)など島田さんの詩を三篇 投稿者:  滝尾 英二 投稿日:2008年 8月30日(土)07時38分15秒

 島田 等さんを偲んで(11)「母について」(らい詩人集団発行『らい』第21号、1973年9月発刊)など島田さんの詩を三篇



                   人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                      ‘08年8月29日(金曜日) 16:21


(1) 「母について」しまだ ひとし(らい詩人集団発行『らい』第21号、表2、1973年9月発刊)

  祈りがききとどけられるなら神はない
  ききとどけられぬから祈るのである。

  かかえこんでいた地動説、
  いつとはなく天地の中心にいたのは
  おごりでも蒙昧でもなく
  かけめぐる静止のなかの
  それは生きることでしかなかった。

  親でもない子でもないわたし
  わたしからはなれはなれ
  はや、わがために祈れ。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(2) 「穴があいているから」しまだ ひとし(らい詩人集団発行『らい』第21号、表2、1973年9月発刊)

  穴があいているからお金とはかぎらぬ、
  鎖かも知れぬ。

  鼻がない者がかったいとはかぎらぬ、
  かったいのかさうらみ。

  腹がへるからといって働いているわけではない、
  手はなんと年ごとにやせること。

  嫌われるからといって盛りつけがへるわけでなし、
  いくらでも生きとったらええわ。

  おおわがサナトルアム、
  頭かずだけそろっているかマイ・ライフ。

    “死ぬとき以外はろくでなし”

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(3) 「プロミン以後〜私のらい政策詩論<五>〜」 しまだ ひとし (らい詩人集団発行『らい』第16号、10ぺーじ、1969年11月発刊)

  何世紀も着ていると
  偏見の着心地も捨てがたい。

  死のうと、治ろうと、どつちみち
  世間はわれわれを必要としない。

  “沈黙は金”
  という時期が過ぎ去ることも
  ありうるばあいのむかしから

  できるだけえらいえらい(6字傍点=滝尾)と呻くことが
  病人生きのびる基本である。

  生きることすべてに幸あれ!

  それにしても
  いまや皺だらけの百病の王よ
  落ち目の権威よ
  鏡はいつまで重いか。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥




[1760] Re:[1759] [1758] [1757] [1751] 裁判史観 投稿者:しゅう 投稿日:2008/08/31(Sun) 10:09  

> >
> > ですので、北風さんの裁判史観と境さんを結びつけられているのは、わたくしにはよく分かりません。
> >
>
> そういうことではありません。
>
> しゅうさん自身が、境さんの「変化」を裁判によってといっています。(風見さんの発言も挙げています)
>
> 小生は、「裁判勝利」を時代区分としてみたり、「らい詩人集団」時代の詩をその時代の時代性の中に限定するかのような読み方〔1980年の詩は1980年の時代の中の詩としていつまでも輝いていると思います〕、あるいは特定の個人の読み方(滝尾さんのコンセプトで当時の詩を読まれるときそれは、変わらず輝きを持つものだと思います)に限定し、現在の詩を、石原吉郎まで引き合いに出して「普遍性」に昇華しているかのような読み方、関わり方に疑義を呈しています。

この裁判の受け取り、裁判史観の違いですね。

> > 単純に裁判以前は「暗黒時代」で裁判以後は「希望の時代」とするのは、「明治維新」にも似て何かを見失う。
> > 判決とともに、裁判というものの本質をかんがえて、過大評価すべきではないのではなかろうか?

わたくしは、上記、北風さんが何を仰りたいのかよく分かりません。
過大評価なのか?、らい予防法が違憲とされ国の誤りの賠償がなされたことは、患者さんの闘いが稔ったもので、一定の区切りと一般的に見られていると思います。

また、これ以上、北風さんと論じ合うほど、私はしっかりとした言葉を持ち得ていないので、いまは違いとして受け取っておきます。私の方からはこれで終わります。


[1759] Re:[1758] [1757] [1751] 裁判史観 投稿者:北風 投稿日:2008/08/31(Sun) 08:30  

>
> ですので、北風さんの裁判史観と境さんを結びつけられているのは、わたくしにはよく分かりません。
>

そういうことではありません。

しゅうさん自身が、境さんの「変化」を裁判によってといっています。(風見さんの発言も挙げています)

小生は、「裁判勝利」を時代区分としてみたり、「らい詩人集団」時代の詩をその時代の時代性の中に限定するかのような読み方〔1980年の詩は1980年の時代の中の詩としていつまでも輝いていると思います〕、あるいは特定の個人の読み方(滝尾さんのコンセプトで当時の詩を読まれるときそれは、変わらず輝きを持つものだと思います)に限定し、現在の詩を、石原吉郎まで引き合いに出して「普遍性」に昇華しているかのような読み方、関わり方に疑義を呈しています。




[1758] Re:[1757] [1751] 裁判史観 投稿者:しゅう 投稿日:2008/08/31(Sun) 06:02  

> >
> > 「裁判以前」と「裁判以後」はなにが変わったんだろうか。
> > この検証が必要だ。何の検証もなしに、裁判をもって「時代区分」とするのは、安直に過ぎるのではないか。
> >
> > 単純に裁判以前は「暗黒時代」で裁判以後は「希望の時代」とするのは、「明治維新」にも似て何かを見失う。
> > 判決とともに、裁判というものの本質をかんがえて、過大評価すべきではないのではなかろうか?
> >
>
> ここで言いたいのは、「詩」そのものではなく、その読み方というか関わり方である。
>
> しゅうさん紹介の境登志朗の詩は明らかに、甘い情緒の中に埋没し、「らい詩人集団」時代の鋭さは見られない。

人間は、「変わる」ことはそうたやすいことではないと思うので、「甘い情緒に埋没」とは受け取れません。親族との新しい一歩を踏み出そうとされている境さん、ハンセン病の問題は、親族の問題が一番難しいのではないでしょうか。

ですので、北風さんの裁判史観と境さんを結びつけられているのは、わたくしにはよく分かりません。




[1757] Re:[1751] 裁判史観 投稿者:北風 投稿日:2008/08/30(Sat) 20:53  

>
> 「裁判以前」と「裁判以後」はなにが変わったんだろうか。
> この検証が必要だ。何の検証もなしに、裁判をもって「時代区分」とするのは、安直に過ぎるのではないか。
>
> 単純に裁判以前は「暗黒時代」で裁判以後は「希望の時代」とするのは、「明治維新」にも似て何かを見失う。
> 判決とともに、裁判というものの本質をかんがえて、過大評価すべきではないのではなかろうか?
>

ここで言いたいのは、「詩」そのものではなく、その読み方というか関わり方である。

しゅうさん紹介の境登志朗の詩は明らかに、甘い情緒の中に埋没し、「らい詩人集団」時代の鋭さは見られない。

裁判によってかつて提起した問題が解決したから、変わったのだろうか。戦って勝利を得た戦士の休息の達成感は感じられない。その変わり方には一種の悲哀をさえ感じる。
なぜかわったのかをいうことは、はばかられるし境さんの問題ではある。

しかし、その甘い情緒をさらにすっぽりと包み込むことは、本当の意味で境さんを勇気づけることになるのだろうか。

いま、本当に闘うことが必要がなくなっているのだろうか。そして、闘いつづけるということは、決して何かをあげつらう「告発の姿勢」と同義ではない。告発というのは、問題を被害者と加害者に二分し、全てを加害者の責に帰すという姿勢であって、既に「らい詩人集団」そのような姿勢を越えている。
石原吉郎の〈告発の姿勢からの離脱〉ということに触れて、石原と現在の境さんを同列に並べていたが、それは糞も味噌も一緒というものである。石原は、現在の境さんのように痛々しく甘くない。

滝尾さんが「らい詩人集団の「宣言」の思想と内容は、現在の社会でもなお、不変である!」というのはそういうことであろうと思う。



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