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ハンセン病の解説集 U
ハンセン病のリンク集 > 用語の解説 > 解説集U



日本書紀 巻二十二


 
推古天皇の二〇年(612)に百済からの帰化人のうちの一人に、顔面に白斑のできた者があり、
 白癩と疑われて海中島へ島流しになろうとした。しかし、その人は庭造りの名人であったのでこれを許し、
 南庭に須弥山と呉橋をまねた庭を造らせた。この人は路子工あるいは「しこまろ」と呼ばれた 。
                                                  「日本らい史」より
 
 <原文>
 「是歳、自百済国有化来者。其面身皆斑白。若有白癩者乎。悪其異於人、欲棄海中島。
 然其人曰、若悪臣之斑皮者、白 斑牛馬、不可畜於国中。亦臣有小才。能構山岳之形。
 其留臣而用、則為国有利。何空之棄海島耶。於是、聴其辞以不  棄。
 仍令構須弥山形及呉橋於南庭。時人号其人、曰路子工。」 
 年表 日本のハンセン病へ                                                    戻る
        


令義解
(巻二戸令)

 悪疾いわゆる白癩(しらはた)なり。此の病人五臓の虫が食う。
 或いは眉・睫が落ち、或いは鼻柱が崩壊し、或いは言葉声が嘶なき、
 或いは関節ずれ落ち、亦能く傍らの人に伝染する

 『悪疾。謂。白癩也。此病。有虫食人五藏。或眉睫墮落也。或鼻柱崩壊。
 或語聲嘶變。或支節解落也。亦能注染於傍人。故不可與人同床也。』
             『国史体系』「令の義解」巻2 吉川弘文館(1969年)  

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西山御採用願(奈良薬師寺が明治新政府に提出した文書)

 人皇三十三代推古天皇の御宇(593〜628)、初メテ難病人(ハンセン病を含むと考えられる)ヲ
 憐レミ在シ病院ヲ立テ置カレ、ソノ後飛鳥清見原天皇(天武天皇を指す)ノ御宇(673〜686)、
 西山ヘ病院ヲ、高市郡岡本ヨリ移サレ給フ。ソノ後文武天皇ノ御時(697〜707)、
 難病ヲ深ク御憐アッテ、居住ノ土地ノ租税御免アッテ・・・   「日本らい史」より 

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施薬伝説(元亨釈書)


 
光明皇后は浴場を建て湯をわかして希望者に湯浴みさせ、千人の垢を落とそうと誓われた。
 既に九百九十九人を終えた時、最後の一人は全身が皮膚病で、その臭気が浴室に満ちた。
 光明皇后もさすがにへきえきされたが、これで千人の誓いが完成するのだと思い直して、
 我慢してその背中を洗った。すると病人は言った。「私はらいに罹り、
 長い間この皮膚病に悩んでいます。ある医者は、誰かに膿を吸ってもらえば治るだろうと言いました。
 しかしそのようなことをしてくれる人は今までありませんでした。皇后さまはそれをやってくれますか」。
 光明皇后は頼まれるままに、頭から足の先まで全ての傷口を吸っては膿を吐き出し、
 そして病人に言った。「これでみんな吸ってあげましたが、このことは誰にも話してはいけません」。
 するとその時、病人は大光明を放ち、「私は仏である。私がここへ来て湯浴みしたということを
 他人に洩らしてはならない」と言ったかと思うと天に登っていった。
 光明皇后は驚いてこれを見上げたが、その心は喜びでいっぱいだった。 「日本らい史」より

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今昔物語集
〈巻二十
「比叡山ノ僧侶心懐、嫉妬ニヨリテ現報ヲ感ジタル物語」〉

 比叡山東塔の僧侶心懐が嫉妬により白癩にかかり、皆から「穢ナム」と忌まれていた記述がある

 「厳シキ法会ヲ妨ゲ、ワガ身賤シクシテヤムゴトナキ僧ヲ嫉妬セルニヨリテ現報(現世の報い)ヲ
 新タニ感ゼルナリ」         『日本古典文学大系』「今昔物語集」4より    
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法華経


 「法華経義疏」(ほけきょうぎしょ)は聖徳太子が著わした「法華経」の注釈書で、日本最古の書物と言われている。

 「法華経」は鳩摩羅什(くまらじゅう―344〜413年)の訳(サンスクリット語→漢文)した「妙法蓮華経」がもっとも広く
 流布されている。その中の妙法蓮華経普賢菩薩勧発品第二十八」(参考)に以下の文言がある。

 
『若し復是の経典(法華経)を受持せん者を見て、其の過悪を出さんか、若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、
 此の人は現世に白癩の病を得ん。若し之(法華経の受持者)を軽笑すること有らん者は、当に世世に、牙歯疎欠、
 醜脣平鼻、手脚繚戻し、眼目角眸に、身体臭穢にして、悪瘡膿血、水腹短気、諸の悪重病あるべし』

 〈現代訳〉
 『もし、法華経を固く信じる人を見て、その人のあら探しをして世間に言いふらすような人がいたならば、
 それが本当のことであろうと誤解に基づくものであろうと、その人はこの世において白癩という病にかかるだろう。
 もしもある人が、法華経を信じる人を嘲笑すれば、その人は何度生まれ変わっても、いつも歯の間がすいていて、
 唇は醜く、鼻は低く、手脚はよじれ、斜視となり、身体が臭くてきたならしく、悪い出来ものができて血膿を持ち、
 腹は膨れ、息切れがして、種々の重い病気を背負い込むことになるだろう。』(宮坂道夫氏訳)

 この経文は山本俊一氏が著書「日本らい史」で指摘される通り、そもそもは法華経の受持者を批判することを
 厳しく戒めたもので、強調のために「白癩の病を得ん」という表現を用いたに過ぎないのであろう。
 また同氏が指摘されている通り「牙歯疎欠…」以降の叙述は古代・中世に出版されたどの医書に比較しても
 ひけを取らないとされている。                                         
                                                                   戻る


日本霊異記
〈上巻:第十九話「法華経を読む人を呰りて、現にゆがみて悪報を得る縁」の章〉

 「沙弥と俗人が囲碁をしているところに、乞食僧が法華経を読みながら物乞いにやって来た。
 それをその沙弥があざけったら口が曲がってしまった。」
 著者の景戒は最後に妙法蓮華経普賢菩薩勧発品第二十八の「若し之を軽笑すること有らん者は、
 当に世世に、牙歯疎欠・・・」と引き、「持経のひとをば誹謗するべからず、よく口業を護れ」と結んでいる

                                   新潮日本古典集成シリーズ(小泉道氏校注)より

 
 しかしこの時代では山本俊一氏が著書「日本らい史」で指摘される通り仏教の背信者の受けるべき
 現報(現世の報い)には らいはあげられておらず、らいの業病観は未だ成立していなかったとみられる。
                                                             
                                                                  
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頓醫鈔
〈巻三十四〉

 
「夫癩病ノ由來、五癩八風、或ハ一百三十種品アリ、或ハ又、先生(前世)ノ罪業ニヨリテ、
 佛ノ冥罸アリ、或ハ食物ニヨリ、或ハ四大(身体)不調ニ依ル、所詮善根ヲ修シ、懺悔ヲナシテ、善ヲ修スベシ。」
                                                 
『日本医学史』富士川游著より 

 ハンセン病の病因の一つとして前世に犯した罪をあげ、治療法としては悔い改めて善行を積むことを勧めている。
                                             「日本らい史」より    

                                                                   戻る


島比呂志氏の手紙
(一部―1995年9月1日九州弁護士会連合会宛)

 らい予防法については、日本らい学会並びに所長連盟の「見解」発表もあり、
厚生省は現在
らい対策調査検討委員会の答申に基づき、らい予防法廃止に向けて新法作成の準備中であることは、
新聞報道などによってご承知のことと存じます。さて私は、過去十数年に亘り、
日本のらい対策の非人道性を批判し、らい予防法の廃止と優生保護法の改正を訴えてまいりました。
幸いらい予防法については、前述のように明るい方向へ進んでおりますが、ただ一つ気になるのは、
人権に最も深い関係を持つはずの法曹界が何らの見解も発表せず、傍観の姿勢を続けていることであります。

                                                                  戻る


大風子油
愛媛県HPから
出所不明
(Chaulmooga Oil)
(oil of chaulmoogra)

 江戸時代に中国から伝わったといわれています。大風子(Hydnocarpus Anthelmintica)というのは、
熱帯や亜熱帯地方に自生するイイギリ科の植物で、直径10センチほどの実をつけ、中には小さな種子が
たくさん詰まっています。この種子をしぼった油が大風子油です。これはハンセン病の唯一の治療薬として、
主に筋肉注射で投与されていました。大量に油性物質を注入するため痛みが強く、大人が涙を流すほど
痛かったといわれています。大風子油は江戸時代に中国から伝わったとも、明治12年堺の
岡村平兵衛によって精製された(岡山県HP:PDF)とも伝えられていますが、戦後プロミンが使われるまで
一般的に使用され、一部で効果があったものの、多くの場合、期待できるほどの効果はなかった
といわれています。太田明氏(菊池恵楓園)によれば、1953年頃まで、療養所では使われていたようです。


 プロミン以前の「大風子油時代に試みられた薬」で注目を集めたものとして、
「金オルガノゾール」
「セファランチン」「虹波」があげられています。
いずれも効果の裏付けはなく、とりわけセファランチンについては、「文献的に、セファランチンがらいに悪影響を与えたという報告はないが、このセファランチンの被験者となった患者たちは、今日でもその恐怖を語っており、らい施設における医師への、また新薬への根強い不信感を植付けたものとして記憶する必要がある」と記されています。『国立療養所史(らい編)厚生省医務局』から(この項「最終報告書」から)

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多剤併用療法
熊本地裁判決文から)

 1981(昭和五六)年には、WHO(世界保健機構)が、リファンピシンDDS及びクロファジミン(B663)による多剤併用療法を提唱した。
この多剤併用療法は、その卓越した治療効果だけでなく、再発率の低さ、患者に多大な苦痛と後遺症をもたらす経過中の急性症状(らい反応)の少なさ、
治療期間の短縮等の点で画期的な療法であり、わずか数日間の服薬で菌は感染力を喪失するとされている。
 そのため、現在では、ハンセン病は、早期発見と早期治療により、障害を残すことなく、外来治療によって完治する病気であり、
また、不幸にして発見が遅れ障害を残した場合でも、手術を含む現在のリハビリテーション医学の進歩により、
その障害を最小限に食い止めることができるとされている。

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十坪住宅
(とつぼじゅうたく)

十坪住宅は、1930(昭和5)年に定員4 00人で開設され、1931(昭和6)年から入園が始まった、国立療養所長島愛生園の光田初代園長の提唱によって始まった
「十坪住宅運動」によって建築された入所者の住宅のことです。
この運動は、開園の年に開始され、長島愛生園では翌1932(昭和7)年5月に第1号の住宅が竣工、主に所内結婚している入所者を入居させました。

〈定員四〇〇名で出発した愛生園は四カ月後にそれを超過した。予想を上回る早さであった。入所を乞う患者はその後も引き続き、断りきれないで入所させるケースも増えた。
こうした状態は絶対隔離論者である光田園長にとって放置できないことであったが、国からの予算の計上は容易に期待できなかった。一〇坪住宅運動はそうした背景から
生まれたものである。
一〇坪住宅運動とは、建築資金を民間の寄付に求め、患者作業で建築し、建築後は国に寄付して経常費の支出を受けるというものである。…〉

〈一〇坪住宅運動は医療救済運動としては戦前の日本において稀にみる国民的な広がりをみせた。この運動によって建てられた患者住宅は一四九棟にのぼり…〉

〈一〇坪住宅寄付は、昭和十三年以降次第に減少していったが、入所者は増加する一方で、昭和十六年度に三井報恩会から二五〇床の拡張寄付を受けて、
定員一、四五〇人の定員となったが、なお四〜 五〇〇人を超過する状態がつづき、苦慮した園は関係の県知事などにあてて病者建築費(金額明記)の助成を懇請し、
「大阪寮」その他を建てた。〉

( 『隔絶の里程 長島愛生園入園者五十年史』長島愛生園入園者自治会)


■ 十坪住宅運動とは・・・・
社會に悩む氣の毒な癩患者を、一人でも多く、一日も速やかに、療養所に入れるため、簡易な住宅を療養所に建てる運動である。
その資金は社会の同情に依り、その建築は入園者たる大工、左官等の奉仕による。而して相互の協力に依つて祖國日本より癩を潔めんとするものである。
■ 愛国献金
十坪住宅一棟は、五百圓で出來る。六畳敷二室と臺所、便所を備へた瀟洒な建物である。そこには、六人乃至八人の病者が住めるから五百圓あれば六人乃至八人の
病者が暗黒より救はれ、社會は六人乃至八人の癩者に依る傳染の危檢から免れることゝなる。即ちこの運動は、單に患者の保護だけでなく、健康なる一般國民の
保護である。愛国献金の名のつけられた所以である。

(「愛生パンフレット第三輯」1934( 昭和9 )年3月5日、長島愛生園慰安会 代表者光田健輔 『近現代日本ハンセン病問題資料集成<戦前編>』不二出版 収録)

                                                                             「大阪府ハンセン病実態調査報告書」より



 この建物は「十坪住宅」(とつぼ住宅)といわれる建物で、光田健輔愛生園初代園長の提唱によって始まった「十坪住宅運動」によって建築された愛生園の特徴ある建物です。 
 
 愛生園は設立当初から定員を無視してハンセン病患者をかき集め、国の無らい県運動に呼応して定員をはるかに超える人員を収容していきましたが、これを居住建物の観点
から可能にしたのがこの建物に代表される「十坪住宅」でした。
 
 十坪住宅」は昭和7年5月に第1号が建設され、その後昭和19年までに143棟、1047坪が建設されています。 当時の「十坪住宅運動」を宣伝する為に作られたパンフレット
には、「十坪住宅運動」とは「愛国献金」という項目が記載されています。要は、建設資金を民間の寄付に求め、建物は患者作業で建設し、建設後は国に寄付するという運動でした。

 典型的な「十坪住宅」は500円の寄付で建設され、6畳2間と台所・便所・玄関からなる建物でしたが、実際は4畳半2間というものも多かったようです。 

 「十坪住宅運動」は、らい根絶のため療養所に多くのハンセン病患者を収容しようという愛生園初代光田園長の考え方によって進められ、無らい県運動同様伝染性の強調
による患者の強制隔離の世論喚起に利用されました。

                                                                             長島愛生園入所者自治会HPより

                                                                                                      戻る


懲戒検束権


 療養所の入所者はかってひどい待遇を受けていたので、待遇の改善を求めて抗議活動を行うこともありました。これを封じるため、
政府は1916年に法律を一部改正して(「癩豫防ニ関スル件」改正案)各療養所の所長に入所者に対する懲戒検束権をあたえたのです。
これによって、30日以内の謹慎・監禁などの処分を所長の決裁で自由に行うことが出来るようになり、
各療養所にそのための監禁室(監房・重監房)が設置されました。政府のやり方が「浮浪者救済から懲罰に代わった」わけです。
 さらに1931年には「国立療養所患者懲戒検束規定」が出来て懲戒検束権が明文化され、公布されました。
これで裁判などの司法手続きが全く無しに、所長の一存で患者の人権を簡単に左右できるようになってしまいました
入院者心得にそむいた者、秩序を乱したり職員に反抗した者、逃走しようとした者だけでなく、無断外出や衣服を捨てたり、
草木を伐採した者まで監房に入れられました。 30日の監禁は2か月まで延長でき、療養所独自の罰則も設けることができるなど、
管理が著しく強化されたのです。

                                                                               戻る


園内通用券(園内通貨・園券・園金
写真は長島愛生園のものです
 

これは、1919年全生園で使用が開始されたもので、「園券」(多磨全生園、沖縄愛楽園)、「園金」(長島愛生園、大島青松園、星塚敬愛園)、「通知銭」(松丘保養園)、「コマ」(邑久光明園)、「札銭」(宮古南静園)などとも呼ばれました。日本銀行券の使用は許されず、入所した時の所持金や家族からの送金は、園側に「保管金」として取り上げられ、代わりに園内だけで通用するこの通貨を、施設の決めた額だけ渡されました。入所者の逃亡を防止するため所内でしか通用しない金券を作り流通させたのです。この制度は1955年邑久光明園を最後に無くなりました。
※菊池恵楓園では1916年 所内通用票(所内通貨)制度廃止とされています。2〜3年間のみ存在したようです。



                                                                                 戻る


乞食谷戸


 乞食谷戸(こじきやと)とは、明治時代から昭和時代初期まで現在の神奈川県横浜市南区の低地に存在した、
史上最大ともいわれる貧民街の名称ある。 豚谷戸(ぶたやと)とも呼ばれることがあった。いずれも正式な地名ではなく、通称である。
大規模な貧民街が東京ではなく当時の新興都市である横浜に存在したのは、元々この地域の貧民街として
乞食谷戸が相当な規模で存在し、横浜港開港後は東京の貧困層を受け入れるという形で拡大したためである。
明治期の東京発展による貧富の差の拡大にシンクロして貧民街はさらに拡大していったと考えられている。
大規模化に伴い朝鮮人やハンセン病罹患者などさまざまな社会的弱者がこの地区に住み着き、地区は密集度を増していった。
乞食谷戸は関東大震災を経て縮小し昭和期に解体された。(ウィキペディアより)
                                                 
 山王山から久保山に亘つて、森の中は静かではあるが、空気は冷たくない、森のを開けて入ると、
地形がおのづと幾つもの室を作つてゐる、森の茂つてゐるところは、大概高地で、そこから落ち窪んだところは、
池になり、畑になり、又谷戸にもなつてゐる、豚谷戸だの、乞食谷戸だのといふ綽名があつて、
特殊の部落も、その窪地にある、かういふ部落が、新開港場の横浜にあるのは、珍しい、
さうして下町の「文明人」よりは、彼等の方が、土地の草分けをした先入主人ではないかと思はれる。
                                                 (亡びゆく森/小島烏水著―青空文庫より)
 新横浜の隣駅の小机や菊名は安っぽい住宅と田畑しかないクソ田舎だよ。
特に小机のあたりは「乞食谷戸」と呼ばれた戦前の日本最大の朝鮮部落があったところだよ。(2chより)

参考
 (やと・やつ)
 (関東地方でいう。特に鎌倉辺に地名として多く現存。アイヌ語からか)低湿地。やち。(広辞苑)
 やと
 (方言)部落。神奈川県津久井郡。(大辞典)
                                                                            戻る


お召し列車


 
患者だけを乗せる専用車両で、患者以外は乗れない。皇族関係者だけが乗る貸し切り列車でもある
「お召し列車」と皮肉って称した。1940年(昭和15年)に乗せられたという記録がある。1963(昭和38)年まで存続する。
患者を強制収容するときや通学のとき(邑久高等学校定時制課程新良田教室)などに用いられた。
 
                                                                  戻る


ハンセン病訴訟で国に18億賠償命令

 ◆隔離継続は違憲、熊本地裁で初の判決  

国立ハンセン病療養所の元患者ら百二十七人が、らい予防法(一九九六年廃止)などによる約九十年に及ぶ隔離政策で人権を侵害されたとして、総額百四十六億五百万円(一人当たり一億千五百万円)の賠償を国に求めた「ハンセン病国家賠償請求訴訟」西日本訴訟第一陣の判決が十一日、熊本地裁で言い渡された。

 杉山正士裁判長(異動で永松健幹裁判長代読)は「一九六〇年以降、隔離規定の違憲性は明白」として、国の責任を認め、原告全員に総額十八億二千三百八十万円を支払うよう命じた。同国賠訴訟では初の判決。東京、岡山を含めた三地裁で審理が続いており、国の隔離政策を違法とした判断は、今後の審理に影響を与え、国は元患者の生活保障、社会復帰に向けた施策の充実を迫られそうだ。  

◆「国会も法改正怠った」  裁判では、国が政策として、ハンセン病患者を療養所に強制的に隔離したことの是非が最大の争点となった。杉山裁判長は判決で、「ハンセン病予防という公衆衛生上の見地から、患者の隔離は許されるべきだ」として、隔離政策については一定の理解を示した。  しかし、「当時の医学的知見を総合すると、遅くとも六〇年以降は、ハンセン病は隔離しなければならないほど特別な疾患ではなくなっており、隔離規定の違憲性は明白になっていた」として、個人の尊重を定めた憲法一三条に違反するとした。  その上で国の責任について、「厚生省(当時)は、六〇年の時点で隔離政策の抜本的な変換を行う必要があったが、(九六年の)法廃止までこれを怠った」と指摘。また、国会議員が国会で、らい予防法の改定や廃止を行わなかったことについても「過失があった」と判断し、「遅くとも(患者団体が法改正の陳情などを行った)六五年以降に隔離規定を改廃しなかった立法上の不作為があった」と認定した。  国側は、提訴から二十年以上前の不法行為は賠償責任が問われないとした「除斥期間」の適用を求めていたが、杉山裁判長は「除斥期間の起算点は違法行為の終了した(九六年の)法廃止時と解するのが相当」として、国側の主張を退けた。  国側が支払う慰謝料額については、療養所への入所の時期と期間に応じて、一人当たり千四百万―八百万円の四段階とした。  裁判で、原告側は国の責任について▽戦後は化学療法で治る病気になっており、一九五三年にらい予防法を制定し、隔離を続ける必要はなかった▽断種・堕胎の優生手術を行い、社会の差別と偏見を助長し、基本的人権を侵害した――などと主張。  一方、国側は▽隔離政策は、医学的知見に基づく適正な施策。治療法が確立し、外来治療が可能になったのは八一年以降だった▽優生手術は同意を得て行い、弾力的にらい予防法を運用し、遅くとも七八年以降は外出制限もなくなった――などと反論していた。  熊本地裁では十三人が九八年七月に初提訴。十五次までで原告数は、元患者や遺族ら計五百八十九人、請求額は計約六百七十四億六千万円に上る。最初の提訴から判決まで約二年十か月で、原告側は「国賠訴訟の審理としては、通常の三倍の速さだった」とし、裁判所が原告の高齢化に配慮したとみられる。  

◆大変厳しい判決  厚生労働省の篠崎英夫健康局長のコメント「国側にとって大変厳しい判決。内容を詳しく検討し、関係省庁とも協議の上、対応を決めたい」  

◆全面勝訴といえる
 八尋光秀・西日本訴訟弁護団代表の話「実質的には原告側の主張が100%認められ、全面勝訴といってよい画期的判決。判決をてこに全面解決を目指し、前に進んでいきたい。国は元患者に、政策の誤りをきちんと謝罪すべきだ」                      (讀賣新聞2001年5月11日)

                                                                                        戻る


韓国・台湾ハンセン病訴訟 と ハンセン病補償法
「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」


【ことば】韓国・台湾ハンセン病訴訟(毎日新聞 2005年11月9日から) 

 
朝鮮総督府が開設した「小鹿島(ソロクト)慈恵医院」(現・小鹿島病院)の入所者117人と台湾総督府が開いた「楽生院」(現・楽生療養院)の25人が、
ハンセン病補償法に基づく補償を日本政府に求めた。東京地裁は10月25日「補償法は広く入所者を救済する特別な立法で、国外施設というだけで
補償対象から外すのは違法」として、台湾訴訟だけを原告勝訴とした。韓国と台湾の入所経験者で補償対象となるのは400人余で、補償額は最大でも
約40億円と原告側は主張している。



【ニュース百科】韓台ハンセン病訴訟(東奥日報 2005年11月8日から)

 
ハンセン病補償法に基づき補償金を申請したが認められなかった台湾の「楽生院」(現楽生療養院)の入所者ら25人と韓国の「小鹿島(ソロクト)更生園」
(現韓国国立小鹿島病院)の117人が提訴。法や告示で明示されていない総督府の下にあった2施設が補償対象かどうかが争点となった。
東京地裁は10月25日、台湾訴訟は「平等取り扱いの原則上好ましくない」と請求を認め、韓国訴訟は「国会の審議過程などから、外地療養所の入所者が
補償の対象になることは認識されていない」と退けた。




【ニュースな言葉】
ハンセン病補償法
毎日新聞 2005年10月25日 東京夕刊から

 らい予防法(1996年廃止)に基づく国の隔離政策を人権侵害と認めたハンセン病国賠訴訟熊本地裁判決(2001年5月)を受け、
元患者の被害回復のため2001年6月に施行。戦前・戦後の時期や国籍、現在の居住地を問わず、一度でもハンセン病療養所への
入所経験があれば補償対象、入所時期に応じて1400万〜800万円が支給され、今年1月1日までに3445人が支給を受けている。



【ニュース百科】ハンセン病補償法東奥日報 2005年11月5日から

 国の隔離政策でハンセン病療養所に入所した元患者に対する補償金支給を定めた法律。2001年5月の熊本地裁判決を受け、議員立法で同年6月に施行された。
受給者は国籍、居住地、入所時期を問わず「国立ハンセン病療養所その他の厚生労働大臣が定めるハンセン病療養所(国立ハンセン病療養所等)に
入所していた者」と規定。同法に具体的な施設名はなく、厚労省の告示に全国の国立ハンセン病療養所や国に移管されるまでの沖縄県立の施設、
私立療養所などが列挙されているが、韓国と台湾の2施設は記載されていない。補償金額は療養所への入所期間に応じ、800万―1400万円。
請求期限は施行日から5年以内。


 【讀賣新聞子供のニュースウィークリー
 【更に詳しいことは・・・
 【韓国・台湾のハンセン病補償訴訟の経緯は次項↓です】
                                                                                         戻る


韓国・台湾のハンセン病補償訴訟の経緯
 (補償法の簡単な解説はこちらです

 2001年5月11日、熊本地裁は「ハンセン病違憲国賠訴訟「『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」)の判決で国の隔離政策の継続は違憲であると判断しました。
これを受けて小泉首相は5月23日、控訴しないことを決定し、6月22日には直ちにハンセン病補償法ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に
関する法律
)が成立しました。対象とされる元患者らには800万〜1400万円の賠償金が支払われることになったのです。

 しかしこの補償法は、補償の対象についての細かいことは「厚労省告示厚生労働省告示第二百二十四号)」に定めることにしていました。その告示には、
日本国内の国立・私立の療養所や、米軍占領下の琉球政府が設置した施設は列挙してありますが、韓国と台湾の二つの施設(韓国小鹿島更生園・台湾楽生院
―現・楽生療養院)は明示してなかったのです。(明示しなかっただけで、実質は国内の療養所と全く同様に厚生省の管轄下に有ったことは史料からも明らかなのです。)

 しかし、戦前に日本の植民地であった韓国・台湾に、政府は国内と同様の療養所を作り、同じ強制隔離によって、強制労働や断種を初めとする残酷な被害を
与え続けていたのです。

 そこで、この二つの療養所の入所者(以後「原告側」と略します)はハンセン病補償法による補償をするようにと日本政府に請求しました(2003年12月25日に
ソロクト厚生園・合計117名、2004年8月23日に台湾楽生院25名)。ところが日本政府(厚生労働大臣)は「ソロクトや楽生院は補償法の言う国立療養所には
当たらない」として、その補償請求を全て棄却しました(ソロクトは2004年8月16日、楽生院は同年10月26日)。

 そこで、原告側はこの棄却処分(不支給決定)の取り消しを求めて相次いで(ソロクトは2004年8月23日に、楽生院は同年12月17日に)東京地裁に
提訴したのです。そしてその判決が2005年10月25日言い渡されたのですが、驚いたことに判決は二つに分かれたのです。ソロクトは棄却処分を取り消さない
(訴えを認めない=補償法による補償はしません)、楽生院は棄却処分を取り消す(訴えを認める=補償法による補償をします)、ということになったのです。

  これを受けてソロクトの原告らは10月26日、棄却処分を取り消さないとした25日の東京地裁判決を不服として東京高裁に控訴しました。
また川崎厚生労働相は2005年11月8日の会見で、棄却処分を取り消すとしたした台湾訴訟について東京高裁に控訴することを正式に表明しました。

 その後原告側は台湾訴訟の控訴の取り下げを求めると共に、両訴訟の政治的判断による早期解決を求める活動を進めました。この間にも
高齢の原告団の方々の中には、亡くなられる方が続出していて、一刻も早い解決が必要な状態でした。

 その後、与党では補償額を国内入所者の水準に合わせて「一人800万円」とするハンセン病補償法の改正案を、1月20日からの通常国会に提出する方針を決め
一方、厚生労働省は(韓国、台湾の)ほかにパラオ、サイパン(米国)、ヤップ(ミクロネシア連邦)、ヤルート(マーシャル諸島)の4地域についても調査をし、
必要に応じて追加するという可能性も考えられる状態になりました。

 原告側弁護団は上記与党の改正案を受け入れる旨の声明を発表、政府の迅速な対応を求めていましたが、同年1月31日改正案は衆院本会議で可決、
続いて2月3日参院本会議で全会一致の可決され、2月10日改正ハンセン病補償法(ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律
―平成18年2月10日法律第2号)」が遂に成立するにいたりました。 

 なお厚労省は2月10日、「国外ハンセン病療養所入所者に対する補償金」についてのお知らせ-楽生院・小鹿島更生園に入所していた皆様へ
と題しこのような書類を省のサイトに掲載しました (PDF:163KB)


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ハンセン病を正しく理解する週間
(「癩予防デー」から現在まで)

 日本では1931年から「ハンセン病の日」の形のものが有りました。その移り変わりを見てみましょう。
 
 1931年6月25日(大正天皇の后、貞明皇后の誕生日)を 「癩予防デー」と定め、
「らい予防週間」を設けることになりました。これは貞明皇后が御手許金(内帑金)248,000円をハンセン病医療のため
下賜するなど救済事業に力を注がれたからです。
しかし、実際はこれにより @「皇恩」の力説 A伝染の恐怖心を煽って隔離強化を正当化 B無らい県運動の推進 
の三つを図ろうとしたのです。

 1951年、貞明皇后死去に伴い「癩予防デー」を「救らいの日」と改めました。

 
1963年6月25日、藤楓協会は「救らいの日」を「らいを正しく理解する日」と改めました。

 1964年6月25日、6月25日を含む1週間を「ハンセン病を正しく理解する週間」と定めました。(参考
 この週間では、ハンセン病に対する正しい知識の普及と、ハンセン病療養所入所者等の福祉の増進を
目的として、様々な行事や活動がなされています。

※なお世界では「世界ハンセン病の日」が1月の最終日曜日と定められています。

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世界ハンセン病の日(世界ハンセン病デー)
(World Leprosy Day)

 フランスの著述家、ラウル・フォレロ氏(1903‐1977年)が1954年1月31日にスタートさせました。
毎年1月の最終日曜日がその日と定められており(参考:日本財団HP)、
ハンセン病に対する正しい啓発と患者の幸せを願って、世界の多くの国で様々な行事が行われます。
日本ではほとんど知られていませんが、広く世界で行われています。

日本では、別に6月25日を含む一週間を「ハンセン病を正しく理解する週間」としています。
                                                             戻る


全療協
全国ハンセン病療養所入所者協議会

 1907年の「癩予防ニ関スル件」の施行、1931年の「癩予防法」の施行と、国は患者の強制隔離政策を強化し続けていました。

1943年にプロミンの有効性が明らかになり、ハンセン病は治る病気、普通の病気となりました。1945年第二次世界戦争が終わり1947年には
新憲法が施行されて基本的人権が確立しました。

 ところが国は「第二次無らい県運動」(1947年)、「優生保護法」(1948年)、「第二次増床計画」(1950年)、「三園長証言」(1951年)というように
医学的知見や国際的趨勢に逆行する政策や行動を次々と打ち出します。

 そこで遂に、患者自らが立ち上がらざるを得なくなりました。自治会活動を通じて、療養所・園側と対立する力を獲得し始めたのです。
そして「栗生特別室事件」(1947年)、「プロミン獲得委員会」(1948年)、「藤本事件」(1950年)、「全生園の不正糾明患者大会」(1952年)などを
経るにつれ、さらに全国規模の患者組織の必要性が生じてきました。

 先ず1948年に星塚・菊池・駿河・栗生・松丘の五療養所に「患者連盟」が結成され、それが全国的組織にまとめられて、ついに1951年1月
「全国国立癩療養所患者協議会」(全癩患協⇒全患協=現在の全療協)として結実したのです。

 その後、1952年の「らい予防法闘争」を初めとして、1996年の「らい予防法廃止」の活動、2001年の「熊本判決」の際の活動など
様々な場面で患者、入所者の意見を主張する機関として重要な役割を担いながら現在に至っています。

                                                                   (参考「名称の変遷」「略年表」

                                                                                 戻る


「癩予防ニ関スル意見」


 光田健輔が、1915年2月13日、内務省にこれを提出し、ハンセン病予防の第1案として全患者の離島隔離をあげている。

 この中で光田は、「論者或ハ人権問題ヲ云為シテ患者ノ絶対的隔離ハ困難ナラント云フ者アレドモ今日迄ノ経験ニヨレバ
一旦患者療養所ニ来リタル者ハ決シテ再ビ家郷ニ復スルモノアラズ、譬ヘ或ル事情ノ為メ一旦逃走スルコトアルモ
必ズ再ビ帰院スルカ若クハ他ノ療養所ヘ入院スル者ノ如シ、故ニ人権ヲ云為スル者極メテ少数ニ過ギザルベシ」と述べ、
光田は全患者を離島隔離しても、人権問題とはならないと豪語する。

 また光田は、この意見書のなかで、ハンセン病予防の第2 案として、連合道府県立療養所の拡張・新設をあげているが、
「無籍乞丐癩」は「絶海ノ孤島ニ送リテ逃走ノ念ヲ絶ツニ如クハナシ」とも述べている。
放浪する患者を「絶海ノ孤島」に隔離せよということで、光田はその「絶海ノ孤島」の例として小笠原諸島をあげていた。

                                                                            
                                                                            戻る


保健衛生調査会
検証会議最終報告書より)

 1916年6月27日、第2次大隈内閣は、内務省に保健衛生調査会を設置、新たな衛生政策の指針を求めた。

 当初、調査会は各部会に編成され調査をおこなうこととされ、調査項目は第1 部「乳児、幼児、学齢児童及青年」、
第2 部「結核」、第3 部「花柳病」、第4 部「癩」、第5 部「精神病」、第6 部「衣食住」、第7 部「農村衛生状態」、第8 部「統計」であった。
 
 調査項目を一覧してわかるように、これまでの防疫中心の衛生政策から国民の体力強化を軸にした衛生政策への転換が図られていた。

 結核や「花柳病」=性病、そしてハンセン病という慢性の感染症対策が重視され、さらに精神障害への
新たな対策の提示も求められていた。長期的に心身ともに優秀な国民を培養するうえで、これらの疾病の予防は不可欠とされ、
また、乳幼児・青少年の健康管理や兵士の供給源とされた農村の衛生状態の改善は、将来の優秀な人口確保のために不可欠とされた。
第4 部の主査委員は山根正次で光田健輔も委員に名を連ねた(『保健衛生調査会第一回報告書』、1917 年)。

                                                                            戻る



ハンセン病市民学会
 毎日新聞(2006年5月13日)より 

 2005年5月、回復者を中心に市民レベルでハンセン病問題への理解を深めようと、
熊本県の国立ハンセン病療養所・菊池恵楓園で設立総会を開催。講演会や年報発行のほか、
宗教界や家族などの関係者が各部会を立ち上げ、残された課題を検証している。

 市民学会HP
                                                          戻る



検証会議
(ハンセン病問題に関する検証会議)


1)ハンセン病患者への隔離政策が90年間も続いた原因や隔離被害の実態を究明する第三者機関。
隔離政策を違憲と断じた熊本地裁判決後、国が有識者らに委託して02年に設置された。
昨年3月、厚労相に提出した最終報告書では、厚生省(当時)が療養所の予算を維持するため隔離政策を続けたことを挙げ、
医療界や法曹界、マスコミなど多方面に人権侵害を助長する要因があったと指摘した。(毎日新聞 2006.5.12)

2)国の隔離政策の誤りを認めた2001年5月の熊本地裁判決を受け、原因解明のため厚生労働省が設置した第三者機関。学者経験者や
弁護士らがメンバー。旧厚生省担当者への聞き取りを実施した昨年4月の中間報告では、法改正を先送りした国と、誤った医学知識を
広めた専門医の責任を指摘。7月に発表した入所者への聞き取り調査では、8割が自殺を見聞きした経験を持つことなどが明らかにされた。
東奥日報 2005.1.27)

 検証会議の設置と活動について2004.7.1発行JLF NEWSから)
 詳細⇒「ハンセン病問題に関する検証会議」(当サイト内)
                                                                               戻る


「胎児標本問題」 新聞解説
                                               「胎児標本問題の推移」

1)ハンセン病患者の隔離政策を検証していた厚生労働省の第三者機関「ハンセン病問題に関する検証会議」が平成17年1月、国立感染症研究所
ハンセン病研究センターと全国5カ所の療養所で計114体(後に115体と判明:リベル注、以下同じ)の胎児標本が存在すると公表した。
作製時期は大正13〜昭和31年ごろで、16体は妊娠9カ月以後だった。検証会議は、人工妊娠中絶などによるもののほか、
出産後に療養所職員らに殺害された可能性にも言及した。入所者が死亡後に解剖された2000体以上の病理標本も見つかっている。
(産経新聞) 2)誤った国の隔離政策の原因を追及した第三者機関「ハンセン病問題検証会議」が1月、国立感染症研究所ハンセン病研究センターと
療養所の計6施設で114体(後に115体と判明)の胎児標本が存在する、と公表。発見されなかった療養所でも過去に存在したとされる。29体は
妊娠8カ月をすぎ、うち16体は9カ月以後のため、妊娠中絶ではなく出産後に療養所職員らに殺された可能性が高い。検証会議は「医学的常識を著しく
逸脱しており、生命の尊厳をいたく冒涜(ぼうとく)するもの」と医師ら関係者を断罪した。胎児以外にも、入所者が死亡後に解剖された2千体以上もの
標本が見つかった。
(東奥日報 2005.6.3)

3)
ハンセン病患者を隔離していた国の誤った政策を検証していた厚生労働省の第三者機関「ハンセン病問題検証会議」が2005年1月、
国立感染症研究所ハンセン病研究センターと全国5カ所の療養所で計114体(後に115体と判明)の胎児標本が存在する、と公表した。
作製時期は1924―56年ごろで、16体は妊娠9カ月以後だった。検証会議は、人工妊娠中絶などによるもののほか、出産後に療養所職員らに
殺害された可能性にも言及した。胎児以外にも、入所者が死亡後に解剖された2千体以上もの病理標本が見つかった。
(東奥日報 2006.6.14)

4)ハンセン病患者を隔離していた国の誤った政策を検証していた厚生労働省の第三者機関「ハンセン病問題検証会議」が2005年1月、
国立感染症研究所ハンセン病研究センターと全国5カ所の療養所で計114体(後に115体と判明)の胎児標本が存在する、と公表した。
作製時期は1924―56年ごろで、16体は妊娠9カ月以後だった。検証会議は、人工妊娠中絶などによるもののほか、
出産後に療養所職員らに殺害された可能性にも言及。胎児以外にも入所者が死亡後に解剖された2000体以上もの病理標本が見つかった。
(西日本新聞)

5)療養所では長く、患者の隔離を政策の基本にしていた。原則として出産、子育ては許されなかった。結婚すると男性は断種手術を施され、
妊娠した女性は中絶させられた。楽泉園では入園者の子どもの保育施設が隣接し、入園の時点で子どもがいたり、気づかれずに出産した場合などに、
そこで育てられる例もあった。
 厚労省が設置した第三者機関「ハンセン病問題に関する検証会議」は05年1月、中絶された胎児・新生児をホルマリン漬けにした標本が
療養所など6施設に114体(後に115体と判明)残されているという調査結果をまとめ、正常に生まれた後に殺されたこともあると指摘した。
調査後も新たな標本が見つかり、数は増えている
(朝日新聞・群馬 2006.7.13)                                                         「胎児標本問題の推移」

                                                                       新聞・テレビ報道2006年2月〜6月

                                                                                   戻る
                                                                                              


ノルウェー方式


 19 世紀後半の世界では、ハワイで行われた強制隔離政策と、ノルウェーでハンセンが実践した患者
の権利に配慮した緩やかな隔離政策の2 つのハンセン病対策が並立していたが、1897 年ベルリン
で開かれた第1 回国際らい会議では、ノルウェー方式と呼ばれる限定的な隔離が、医学的に正しい
ハンセン病対策として承認された。「ノルウェー方式」は、次の4 つの柱から成っている。

 1.ハンセン病は一般的清潔法の普及で予防できる。
 2.ハンセン病の隔離は故郷(家庭―リベル注)において十分行われうる。
 3.貧民で自宅隔離が不完全なときは国立病院に救護隔離する。
 4.浮浪患者は絶対隔離とし、他は任意でよい。


なお、これに対しハワイや日本で行われた強制隔離方式は「ハワイ方式」と呼ばれる。

検証会議最終報告書より)

                                                       戻る


人権擁護法

人権擁護法は日本の法律案(2006年12月現在)です。日本では初の包括的な人権擁護を目的とする法律案です。ただ、その法制度や運用方法、必要性などを巡って賛否両論があるのが現状です。
この法案は、2002年の第154回国会に提出され、2003年の衆議院解散の際に廃案となりましたが、2005年2月、突然政府・与党が一部修正を加えた上で再提出する方針を固めました。しかし、自民党内で反対意見が噴出し、自民党執行部は、2005年7月に第162回通常国会での法案提出を断念しました。しかし、自民党の中川秀直国対委員長は2005年9月18日に放送されたサンデープロジェクトで法案が再提出されるであろうと言う見通しを示し、同年9月29日の参議院本会議では民主党の神本美恵子議員の人権侵害の問題に関する質問に対して、小泉純一郎内閣総理大臣が「人権擁護法案を、出来るだけ早期に、提出出来るように努めて参ります」と答弁して法案成立に意欲を見せました。

この法律案により設置される行政機関である人権委員会(仮称)に対して、その権限の大きさ、委員の選出過程の不透明さなどが批判の対象となっています。これについては国連人権小委員会から提案された「国内人権機構の地位に関する原則(パリ原則)」に沿ったものとなることが求められています。

                                                                             (Wikipediaから、一部改変)

                                                                                        戻る


らいの現状に対する考え方」

 厚生省公衆衛生局結核予防課は、1964(昭和39)年3月、「らいの現状に対する考え方」をまとめており、これには、この当時までの医学的知見及び厚生省の認識が端的に現れている。
 
これによれば、

「従来の医学においては、らいは全治はきわめて困難であり、隔離以外に積極的な予防手段はないとされていたので、患者の隔離収容に重点をおいてきたのであるが、最近におけるらい医学の進歩は目覚ましいものであり、細部においては未だ不明な点は多々あるものの、らいは治ゆするものであること、らいが治ゆした後に遺る変型は、らいの後遺症にすぎないこと、らい患者それ自体にも病型により他にらいを感染させるおそれがあるものと、感染させるおそれがないものとがあること、らいの伝染力は極めて微弱であって、乳幼児期に感染したもの以外には、発病の可能性は極めて少ないことという見解が支配的となりつつあり(中略)らい治療薬の発達により、早期治療を行なったものについては、変型に至るものが少く、又菌陰性になるまでの期間も随分短縮されてきた。」、

「こうした医学の進歩に即応したらい予防制度の再検討を行なう必要があるが、その検討の方向としては、第一に患者の社会復帰に関する対策であり、第二は他にらいを感染させるおそれのない患者に対する医療体制の問題であり、第三は現行法についての再検討であろう」、

「本病についての特性として、社会一般のらいに対する恐怖心は今なお極めて深刻なものがあるので、まずこれについて強力な啓蒙活動を先行的に行わなければ、上記各検討結果による措置も実を結ぶことは困難である」

とされている。
                                                                              (熊本地裁判決から)

                                                                                       戻る


ハンセン病問題対策協議会と統一交渉団

ハンセン病問題対策協議会は、熊本地裁判決直後の首相談話を受け、厚生労働副大臣を座長として開かれる、厚生労働省と「統一交渉団」との協議交渉機関です。

統一交渉団
とは、

(1)
原告団(ハンセン病違憲国家賠償訴訟全国原告団協議会)、
(2)全療協(全国ハンセン病療養所入所者協議会)
(3)弁護団(ハンセン病違憲国家賠償訴訟全国弁護団連絡会)

の3団体で組織されています。

ハンセン病問題対策協議会においては、両者が事前に議題設定された事項について要求と回答を行い、さらなる摺り合わせを実施し、政策立案・実施に向けた作業を協同して実施する、という形式で議事がなされています。
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声明書(藤本松夫の死刑執行に対する抗議声明)
  
私たちは第7会全国ハンセン氏病療養所患者協議会支部長会議を開き、患者の権利を守り、生活の向上をかちとるための会議の席上、藤本松夫氏の死刑執行の報に接し
深い悲しみといきどおりを感ずるものであります。藤本氏に対する死刑の判決は、まつたくハンセン氏病なるが故の偏見と予断にもとづく不当きわまるものであります。
その裁判も世間の目にふれず暗やみでおこなわれたものでありました。私たちは、守る会、国民救援会、その他国民各層の支援にまもられて再審の斗いをつづけてまいりました。
犯行時のアリバイも明らかになり無罪をかちとる日も近いと確信していたや先、ひそかに死刑執行したことは、人権を無視し、人命を軽んずる検察、法務の反動性を
バクロしたものであります。私たちは、この人命軽視と、人権の侵害をてつてい的に追及し、無実の人命をうばつたものに対する斗いを、さらにおし進める決意であります。
                                                                       1962年9月16日    
                                                                                     全国ハンセン氏病患者協議会
                                                                                          第7回臨時支部長会議


                                                                                  (「全患協ニュース」1962年10月15日号より)

                                                                                                       戻る



藤本事件を報じる、当時の「全患協ニュース」

◇遺書かく時間も与えず真実の叫びを圧殺
  ―関原勇主任弁護士談―
 藤本氏の処刑はまつたく抜きうちのむちやくちやなやり方だ。家族にも兄弟にも弁護人にも、そして本人にも知らせず、ヤミからヤミに ほうむつたのだ。
真実の叫びを一こともいわせぬように圧殺してしまつたのだ。
福岡刑務所の豊田教育部長は、三回“お別れ”を言つたとき、はじめて藤本氏が“死”を知つたようだというが、無実であり、再審の申立てをし、
無罪を確信している人が、“お別れですね”といわれてピンとこないのはあたりまえだ。遺書を書く時間も、心の余裕を与えず、殺してしまつたのだ。
藤本氏の処刑は、きわめて計画的に綿密におぜん立てをしたとしか思えない。人を殺すために官憲が一体となり、極端な秘密主義と官僚主義のなかで
事を進め、殺したあとも事実をかくそうとしている真実をおしつぶそうとする黒い意図が裏に働いているのだ。

◇“再審請求中でも処刑”
  ―国民救援会・日患・救う会抗議に当局が暴言―
国民救援会と日本患者同盟、藤本松夫を救う会の三団体の代表七名は、九月十八日午後三時、法務省を訪れ、当局に厳重な抗議を申し入れた。
勝尾秘書課長はまず「死刑執行命令にいつだれが、押印したかはいえない」と責任回避したうえで、@最高裁判決後は一回目の再審申し立て中であつても
二回目であつても死刑は執行する。A処刑の決定は法務当局が資料を検討したうえで再審事由なしと認定した場合に行なう。B藤本氏の場合、熊本地裁が
再審請求を却下することを確信していた。C減刑助命嘆願の却下や再審却下の通知を受刑者に通知する必要はない。D裁判で決まつたものをいつまでも
ずるずる処刑延期することは妥当でない、藤本氏は判決から五年もたつているとのべた。
各代表は、課長の発言は従来会見のたびに当局がいつてきた「再審の請求があるときは処刑しない」との言明とまつたく違う点を注目「最高裁の判決が
あつても、このような死刑にあたつては、当人は勿論のこと、当人を取りまく善意のひと、国民全部が充分納得、理解し得るだけの審理をつくし、
処刑にあたつてはその説明と根拠が明らかでなくてはならない」「無実と信ずるから再審を申し立てるのだ、殺されてから真実が発見されても無意味だ。
尊い人命を尊重する立場から慎重すぎるほど慎重に対処すべきだ」と要求した。
                                                             (「全患協ニュース」No.201(1962年10月15日発行)より


                                                                                          戻る


癩の根絶策
(編集中)

 1930(昭和5)年10月1日、内相安達謙蔵の命により、内務省衛生局は「癩の根絶策」として3案を発表する。日本のハンセン病患者数を1万5000 人と推定し、そのうち、5000人を従来の公立療養所と新設の国立療養所とに収容し、残った1万人について、20年・30年・50年の3とおりの「根絶計画」を提示した。第1案の「二十年根絶計画」は、新たに1万人を収容する施設をつくり、10年後に全患者隔離を達成し、のち10年で患者がほぼいなくなるというもの、第2案の「三十年根絶計画」は毎年500人分ずつ療養所定員を拡大して20年後には全患者隔離を達成し、のち10年で患者がほぼいなくなるというもの、第3 案の「五十年根絶計画」が新たに5000人収容の施設を10か年で完成し、その後30年間で全患者隔離を達成し、のち10年で患者がほぼいなくなるというものであった(内務省衛生局編『癩の根絶』、1930年)。いずれも、隔離収容後、患者は10年以内に死亡するという前提である。結局、1936(昭和11)年度より第1案が実施されることになるが、絶対隔離に向けて内務省は動き出していた。
 そして、1931(昭和6)年、日本のハンセン病対策に大きな転換が訪れる。1月21日、内相官邸において癩予防協会の創立総会が開かれ、3月27日には前11月に園長に光田健輔を迎え、岡山県長島に開園した最初の国立療養所長島愛生園で患者の隔離収容が開始され、そして、第59回帝国議会に浜口雄幸内閣から提出された法律「癩予防ニ関スル件」の大幅な改正案が可決、同年8月1日より施行されたのである。このとき、法律の名称も「癩予防法」と変わる。「癩予防法」の成立後、その施行を前に、内務省衛生局予防課長高野六郎は「癩予防法」と国立療養所と癩予防協会の三者による「癩の根絶」の展望を示している(高野六郎「癩の根絶」、『公衆衛生』49巻8号、1931年8月)。「癩予防法」には、患者が「業態上病毒伝播ノ虞アル職業」に従事することの禁止、隔離収容された患者の家族への救護、患者の使用物の消毒、「病毒伝播ノ虞アル」患者の国公立療養所への収容、ハンセン病に関係する公務員の守秘義務などの規定が加えられ、それまでの「療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノ」という隔離収容の条件を削除した。すなわち、隔離収容の対象は全患者となった。
 これにより、患者は就業する自由を失い、周囲を消毒され、もはや隔離に応じるしか道を選べなくなる。患者の隔離への不安を改称するために残された家族への救護や守秘義務が法に明記された。まさに、「癩予防法」は絶対隔離に対応する法である。


 1930(昭和5)年10 月、内務省によって発表された「癩の根絶策」(20 年根絶計画、30 年根絶計画、50年根絶計画)は、「癩予防法」の制定(1931(昭和6)年4月公布)によって根拠法を得た。ただし、同計画が実施に向けて大きく動きだしたのは、制定からしばらく経った後の昭和10年頃からで、1936(昭和11)年2月、官公立「らい療養所」所長並びに所属府県衛生課長会議は「らい根絶20 年計画」を公表し、その第1段階として昭和11年度から10年間に患者1万人の収容施設整備拡充を決定した。
 もちろん、これには、日中全面戦争に突入(1937(昭和12)年7月)、太平洋戦争の勃発(1941(昭和16)年12 月)というような戦時体制の進行が大きく関わっていた。これらにより、1 万人収容(療養所の収容定員8000 床)が実現されることになった。しかし、それは、光田らが主張した「全患者」収容の達成を意味するものではなかった。1950(昭和25)年8月に実施された厚生省全国らい調査によれば、推定患者数1万5000人のうち入所患者数は1万100人、未収容患者数は2526人という結果であった。また、1951(昭和26)年11月、参議院厚生委員会「らい小委員会」において参考人として証言した林多磨全生園長も、「まだ約6千名の患者が療養所以外に未収容のまま散在しておるように思われます。」と述べているからである。
 むしろ逆に、敗戦の混乱により、「現住患者」は戦前よりも戦後の方が増加したのではないか。このような指摘も存在した。たとえば、愛知県『らいの話』(昭和25)年は、次のように記している。「本県が無らい県運動を展開したのは昭和二十二年であった。らい関係事務が警察部から新設の衛生部に移管された昭和二十二年、県内に於けるらいの全貌を知るため台帳に依って整理をして見ると、・・現住患者四八四人という数字が出て来た。この数字は・・昭和十四年の三六○人よりは一二四人も多く、前月の救護月報よりは二○七名も多い。」
 そこで、1950年頃、厚生省は「全患者」収容の方針を打ち立て、これに基づき、「全患者」収容を前提とした増床を行い、患者を次々と入所させていった。昭和24年度から昭和28年度までに5500床の増床が実現し、療養所の収容定員は1万3500 人となった。1953年(昭和28)年の調査によれば、推定患者数は約1万3800 人とされたので、この時点でほぼ全患者の収容が可能となり、増床が終了したことになる。

                                                                (ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書第三・第四から)

                                                                                                    戻る


太平洋地域のハンセン病とナウル島

日本は、1919(大正八)年以降、マリアナマーシャルパラオカロリン諸島を国際連盟の委任統治として事実上、植民地支配し、1928(昭和3)年にヤルート島に、1929(昭和4)年にサイパン島に、1930(昭和5)年にヤップ島に、1931(昭和6)年にパラオ島に、南洋庁がそれぞれ小規模なハンセン病療養所を設置していたが、1941(昭和16)年12月の対米英開戦以降、太平洋地域の島嶼の占領を拡大した。こうしたなか、1942(昭和17)年8月25 日、海軍はオーストラリアの委任統治下にあったナウル島を占領した。ナウル島にはナウル行政府が設置したハンセン病専門病院(Leper Station)があり、日本軍占領時、39人の患者が入院していた。敗戦後の1948(昭和23)年、ナウルの行政官マーク・リッジウエィは、占領から1年後、「日本軍は彼らを1隻のボートに追い集め、そのボートは海に向かって曳航され、銃撃により破壊された。ひとりの生存者の痕跡もない」という衝撃的な証言をおこなった(NEWSITEMS, International Jou nal ofLepro y,Vol16,No.4,1948)。


さらに、1952(昭和27)年に発表されたレオナード・ウッド記念研究所のH・W・ウエイドとナウル政府医官ウラジミル・レドウスキーの共同研究も、次のように記している。日本の占領はナウル島のハンセン病患者に激烈な変化をもたらした。1943 年6月頃、隔離施設のすべての入院患者はどこか他の場所に移送するという口実のもとに穴の空いたボートに乗せられ、ランチに曳航されていった。たった3人の者だけが見送ることを許された。これらの患者の運命についてはまったく不明である。しかし、彼らのうちひとりとて2 度と姿を見せることはなかった(H.W.Wade & Vladimir Ledowsky, The Leprosy Epidemic at Nauru; AReview with Date on The Status since 1937, International Journal of Leprosy,Vol.20,No.1,1952)。1943(昭和18)年の夏、ナウル島のハンセン病患者は日本軍により虐殺されたことは疑い得ない。ナウルの事例は、占領地における隔離政策の帰結として記憶しておくべきであろう。

                                                                  (検証会議最終報告書から)

                                                                               戻る

































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