ハンセン病の闘いの歴史に学びともに考えるBBS
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[2057] あけまして 投稿者:ET 投稿日:2010/01/02(Sat) 20:29  

おめでとうございます♪

「ハンセン病市民学会」、いやしくも“学会”を標榜しているのであるからして、真実を追究してほしいものである。

>「隔離の100年」は同時に闘いの100年でもあった入所者の歩んだ跡を確認する。

という謳い文句――これはすでに事実に基づく歴史認識から逸れているのではないだろうか。というか、一般市民を誤った認識へと誤誘導するもののように思われる。
島の生活も歴史もまったく知らないので、島の場合の当事者運動についてはなんとも言えないが、少なくとも多磨の「隔離の100年」を眺めた場合、「隔離の100年」は必ずしも闘いの100年であったわけではなく、むしろ長期にわたって“闘わなかった”期間があり、あるいは後期にみられるように、むしろ予防法を楯にとっての経済闘争に明け暮れた期間があったという側面があることは否めないであろう。にもかかわらず、隔離の100年が闘いの100年であったという市民学会のこのような認識は、いったいどこから生まれたのか? 疑問を呈しておこう。
「隔離の100年」を機に、何故隔離が100年にも及んだかを究明しようというのならともかく、100年にのっかって“人権闘争”の100年神話を構築しようというのなら、それは誤りのうえに誤りを構築することにしかならないだろう。(言い過ぎか?)




[2055] どうぞ良いお年を・・・ 投稿者:リベル 投稿日:2009/12/31(Thu) 12:11  

今年も一年お世話になりました。

来年も何卒よろしくお願い致します・・・m(_ _)m


[2053] 年末の挨拶 投稿者:ルリカケス 投稿日:2009/12/31(Thu) 11:31  

昨年はいろいろとお世話になりました。

ありがとうございます。

来春も宜しくお願い申しあげます。

では良い年をお迎え下さいませ。


[2052] あはは 投稿者:ET 投稿日:2009/12/27(Sun) 22:47  

キメラといえば、人間てーのは、天使と悪魔のキメラかも。
怪物らしく見えなくても、けっこう怪物だったりするではないか。

>狐の胴体に驢馬の頭、尻尾は狸である。

 ↑これって、立派な怪物じゃないの?



[2051] 年末の教訓 投稿者:北風 投稿日:2009/12/27(Sun) 15:43  

普通、キメラといえば、ライオンの胴体にヤギの頭、尻尾が蛇の怪物らしいが、丸善の場合は、狐の胴体に驢馬の頭、尻尾は狸である。

何を考えているのか、どういう性格をしているのか、とんとわからない。こういう多重人格とは付き合ってはいけない。
谷内君がかわいくなる。

しっかし、世の中「丸善」の代わりに何を入れても当てはまる今日この頃だ。
もちろん、おいらも他人から見れば、矮小なキメラなのであろう。






[2050] きついねえ Re:[2048] 『ハンセン病文学全集』の 投稿者:北風 投稿日:2009/12/23(Wed) 18:26  

> 2003年2月配本予定だった
> 2010年の春、花のころでしょうか?

5巻は校了してるからねえ。





[2049] 第6回 ハンセン病市民学会 投稿者:北風 投稿日:2009/12/23(Wed) 18:25  

なんか、かわりばえがせんねえ。



第6回 ハンセン病市民学会 総会・交流集会 in 瀬戸内
     2010年5月8日・9日
全体テーマ 『島は語る〜隔離の象徴としての“島”を再認識し、心の橋を架ける〜』

第1日目 於 岡山プラザホテル
開会(13時〜13時30分)
  主催者挨拶 牧野正直(ハンセン病市民学会共同代表・瀬戸内集会実行委員長)
  歓迎挨拶  自治会長
          石井正弘岡山県知事(予定)
          武久顕也瀬戸内市長
          江田五月(参議院議長)
 
総会(13時30分〜14時20分)
  活動報告
  決算報告
  新年度共同代表の紹介(共同代表は事前に組織委員会で案を出し信任投票を行う。)
  活動方針
  予算案

交流集会(14時30分〜18時15分)
テーマ 『島の当事者の声を聴く』
《コンセプト》長島愛生園元自治会長石田雅男氏の著作『「隔離』という器の中で』の中に「私たちは過去を想い出しては、それを心のよりどころにして語り合い、語り尽きればまた繰り返す、同じ話となってもそれを聴き合うようにして付き合うのが療友仲間です。」(121頁)という文章があります。隔離の中の時間を実感させてくれる含蓄のある言葉である。
島の当事者は立場を異にすることがあっても時間を共有し合ってきた。島の生活を知らない参加者もそんな時間を少しでも分かち合って、島の過酷な歴史を学び合う場としたい

基調対談1 「島の生活を語る」  
加賀田 一 vs 金 泰九    聴き手 田村朋久
《コンセプト》加賀田さんには長島事件を体験者として語って頂く。金さんには療養所の中で在日患者が受けた差別を語って頂く。さらにお二人共通に三園長国会秘密証言のあとに愛生園で起きた事件を通して、光田園長に対する評価についてもそれぞれの立場から話をして頂く。

基調対談2 「隔離の島から生まれた当事者運動」
神 美知宏 vs三宅 一志   聴き手 八尋光秀
《コンセプト》厳しかった島の生活の中から、患者運動が生まれざるを得なかった大島青松園の自治会運動の歴史と独自性から、「隔離の100年」は同時に闘いの100年でもあった入所者の歩んだ跡を確認する。

基調対談3 「邑久長島大橋の架橋運動から学ぶもの」
池内 謙次郎 vs 山本 英郎  聴き手 青木美憲    
《コンセプト》邑久長島大橋架橋の経験は邑久光明園、長島愛生園に入所されている方たちの口からたびたび語られる長島にある療養所にとって大きな出来事だった。今、我々がこの時点で橋の架橋の歴史を振り返るのは、それが全国の療養所の課題となっている「療養所の社会化」の前史であったという意義にもある。同時に、物理的な橋の架橋によって得られたものを再確認しながら、架橋できなかったものが何だったかを考えることは、療養所の将来構想に示唆となるはずである。

総括座談  「島の当事者の声を聴いて」
《コンセプト》瀬戸内三園の療養所が隔離の場所としての全国の療養所の本質をもっとも端的にもっているものであり、今日もなお解消しえていないものでもある。3つの基調対談によって語られた中からそれがなんなのかをどのように聴き取ることができるのかを総括する。

第2日目 長島愛生園会場
〔分科会 A〕 「『新良田教室』の残したものを考える」  
会場 旧新良田高校講堂(90人)土足可
コーディネーター 延 和聰 パネリストは延さんが当事者のご意見を参考にしながら、検討中。
《コンセプト》 療養所で生活する若者にとって、新良田高校は療養所から退所するために開かれていたわずかな扉であり希望だった。実際。卒業生の7割は社会で生活する道を選んだ。しかし、新良田高校を卒業しても病気の再発や社会での生活の困難さによって園に残った人、戻らざるを得なかった若者もいた。また、新良田高校の卒業証書は療養所で生活をしていたことの証書でもあっただけでなく、卒業後の社会での生活する手段はまったく与えられなかった。新良田高校にこよなく愛着を感じている卒業生がいる一方で、新良田高校を思い出したくもないと思っている卒業生がいる新良田高校は存在そのものがアンビバレンツであった。新良田高校とはどんな存在だったのかをこの2つのあい異なる視点を1つにフォーカスしてみたときに新良田高校の実像があるのではないか。

〔分科会 B〕「啓発」     
会場 愛生会館(500人)    
コーディネーター 訓覇/牧野
《コンセプト》「啓発」というテーマは鹿屋集会で取り上げたが、その意義と役割は当初予想していた以上に奥深く、安直に答えが見いだせないものであった。そのため、市民学会の中に『啓発問題プロジェクト』を立ち上げることを今年の活動方針としたが、その活動と並行して今後の交流集会の中で継続的に取り上げたい。今回の「啓発」は、その第一歩となる企画としたい。

〔分科会 C〕 「ハンセン・ボランティアの現状と課題」   
会場 福祉会館(250名)土足可
コーディネーター 近藤 剛氏
《コンセプト》 見学者の受け容れ窓口や案内をするボランティアガイド、療養所の施設利用の受付け、さらには高齢化が進み活動することが困難になることが予想される自治会の仕事を補佐する市民ボランティア、敷地内の清掃をする市民ボランティア、入所者や退所者の日常の生活の相談に対応する福祉ボランティアなど、市民の活動もこれまでの支援活動から療養所の環境変化に合わせた活動が求められる。療養所を開かれた場所にしていくには、さまざまなボランティアの活動が不可欠となる。こうした業務を委託できるボランティアをコーディネートする専門のスタッフが必要になってくる。そのためにはNPO法人などスタッフを養成して業務委託を引き受ける仕組みも考えられる。今、ハンセン・ボランティアがどのような活動をしているのか、これからどのような活動を担えるのか、ボランティア活動をしている実践者に現状と課題を論じてもらう。

邑久光明園会場
〔分科会 D〕 「外島保養院から邑久光明園へ〜100年の歴史をたどる」  
会場 光明会館(200人)土足可
報告者  望月 拓郎 聞き手  宮前 千雅子
《コンセプト》 邑久光明園はその前史を大阪にあった外島保養院に遡る、全国の療養所でも特異な歴史をもつ。また、外島保養院が台風で全壊したあと、新しい療養所が長島に再建されるまで入所者は栗生楽泉園などに仮住まいを強いられた。そうした歴史を体験している入所者は邑久光明園にももうほとんどいない。邑久光明園の成り立ちを望月拓郎さんに語ってもらえるのは交流集会参加者だけでなく、入所者の方たちにも貴重な機会である。

〔分科会 E〕 「自治体に求められている課題を考える」
会場 恩賜会館(60人)土足不可 
コーディネーター 遠藤 隆久
《コンセプト》 2009年4月に「ハンセン病問題基本法」が施行されたが、基本法を活かした療養所所在地の自治体を除けば、新たな施策への取り組みは広がっていないのが現状である。基本法は、加害者たる国・地方自治体が被害回復に対して早急な対応を促す目的で制定されたはずだが、まだ基本法を生かし切れていない。基本法を活かしながら自治体の取り組みを促すには何が必要か、自治体関係者も含めたディスカッションをしたい。

大島青松園会場
〔分科会 F〕 「大島青松園とふるさとを結ぶ」〜(仮サブタイトル)私たちの手で!受けとめよう,故郷への思い。結ぼう,心の絆。〜    
会場 大島会館(150人)土足可   
コーディネーター 神谷誠人
《コンセプト》療養所の入所者とふるさとの関係は今後どうあるべきか、高齢になってもいまだに墓参りができなかったり、ふるさとの墓に埋葬されない入所者の問題は大きな壁である。四国四県から大島青松園に入所した入所者の思いを聴き取りながら,この壁の前で自治体はどのように積極的に取組む必要があるのかを考える。
9:40〜10:40  グループワークによる在園者との懇談           香川,徳島,愛媛,高知の4グループに分け,            
各グループで当該県出身の在園者(複数),自治体関係者を囲んだ聞き取り,懇談をする10:40〜メイン会場(大島会館)へ移動
11:00〜12:00 基調報告とグループワーク報告
※グループワーク報告では,各グループ参加者と各自治体関係者からグループワークで聞いた在園者の思いや自分の考えを報告してもらう
12:00〜13:30 昼食 名物・手打ちうどんに挑戦
13:30〜14:30 園内探訪(フィールドワーク)
14:30〜15:20 「大島を蘇らせよう総行動」(例:海岸の清掃,民家の修復等15:30〜16:15 まとめの会(参加者の感想会)
16:30 離園以上



[2048] 『ハンセン病文学全集』の 投稿者:ET 投稿日:2009/12/22(Tue) 19:57  

第五巻ていうと、2003年2月配本予定だった「評論」「評伝」などの巻ですね。
2010年の春、花のころでしょうか?



[2045] 今日は 投稿者:ET 投稿日:2009/12/22(Tue) 10:25  

「滝尾文庫」創設セレモニーの日なのですね。



[2043] 滝尾さんの近況。 投稿者:北風 投稿日:2009/12/17(Thu) 10:43  


元気で近く訪韓されるとのこと。

http://takio-kokoro-2.hp.infoseek.co.jp/pg08/pg08.html




[2042] 師走 投稿者:北風 投稿日:2009/12/12(Sat) 17:55  

> それまで、みんな先送りで顰蹙をかっています。

相変わらずである。
全集5巻は編集が終わったものの、問題が1つある。
といっても、今更特別な問題ではない。相変わらずの問題である。
年が明ければ若干改善される。残り2冊を一気に出して肩の荷を降ろして、ハンセン病問題について関わり方をじっくり考えてみたい。

年末に来て、DB関係では国立の某機関から「将来の提携」に向けて話し合いの要請があった。
採用は爆発的とは行かないが着実に増えている。
NDL、LC、ドイツ国立図書館の国立3図書館、アメリカの大学は32校、日本もボチボチでんな。NDLは、議員会館からも接続できるので国会議員のセンセイ方も使うようになるようだ。

相変わらず変な書き込みは週末に多い。谷内君の執念には恐れ入る。



[2041] 栄子さん 投稿者:北風 投稿日:2009/12/03(Thu) 16:13  


村松武司の夫人の栄子さんが、昨夜なくなった。
1993年に村松がなくなってから、書斎のタバコの吸殻までそのままに、市川のうちを守っていたが、晩年体調が悪く沖縄の一人息子の元に引き取られていた。

食事に起きてこないので様子を見に行くと息が無かったという。まさに、眠るがごとき大往生だね。
栄子さんの父は山本飼山の親友で、栄子の栄は大杉栄から取ったそうだ。





[2040] ディズニー 投稿者:北風 投稿日:2009/11/30(Mon) 10:53  


ディズニー・プロはただのアニメ屋ではなくて、アメリカ政府にくしゃみをさせて、鳩山に風邪を引かせるくらいの存在になっているということだね。

ああいう、キャラクター商売と個人の営為である文学作品などを同じ「著作権」という概念や法律で律しようとすることに無理があるんじゃないかね。



[2039] 米国の提言なら、 投稿者:ET 投稿日:2009/11/28(Sat) 13:03  

コンセンサスが得られなくとも、実施しようとしてるとしか思えない。

著作権保護期間50年でも、長すぎると思う。
著作権保護期間70年への延長というのは、すべてが加速化している時代に逆行し、知的財産の“一般化”に反するものだ。権利の保護の一方で、実際には、利(使)用者にさらに制限を加えることになる。



[2038] 青空文庫のアピール 投稿者:北風 投稿日:2009/11/26(Thu) 12:33  

読売新聞西部本社谷内修三君との「論争」を思い出すねえ。



著作権保護期間の延長について

去る11月18日、鳩山由紀夫首相は、日本音楽著作権協会(JASRAC)の70周年記念祝賀会において、これまで作者の死後50年までとされてきた著作権保護期間を、死後70年に延長するよう、最大限の努力をすると発言されました。
続いて川端達夫文部科学相も、70年はある種の世界標準であり、延長を目指して課題に取り組んで行きたいとのべられました。

報道でこの発言に触れて、その真意を推し量りかねて当惑し、次第に暗澹たる気持ちがわき上がってくるのをおさえられませんでした。

私は、青空文庫と名付けた電子図書館を育てる試みに、1997年から加わってきました。
その中で、ある時期までは作者の権利を守り、それが過ぎた後は、誰もが作品にふれやすくし、新しい創作の土台としても利用しやすくしようという著作権制度にこめられた期待が、インターネットを得て、大きな成果をあげ始めたことを、繰り返し実感してきました。

保護と利用の促進は、著作権制度の両輪です。
そのバランスをどう取るかについて、国際的な著作物保護の枠組であり、日本も参加しているベルヌ条約は、作者の存命中に加えて、死後50年までの保護を原則としています。

これを死後70年までとすることで、果たしてなにが得られるでしょう?
しばしば主張される、創作の意欲を高めることにつがなるのでしょうか?
表現は、今生きてあることの証です。みずからのいのちが絶えて50年が過ぎた後、さらに20年分の保護を約束されたとしても、それがつくることの意欲を高めるとは到底思えません。

一方、作者の死後50年を過ぎた作品は、広くみなで利用できるようにしようという制度にこめられたもう一方の期待は、インターネットを得て、大きく花開き始めました。
例えば、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)では、延べ約740名のボランティアによって入力、校正された著作権の切れた作品が、2009年11月現在で、8500以上、公開されています。

来年の元日、2010年1月1日現在で、著作権保護期間が死後70年に延長され、すでにいったん著作権切れとなったものにもさかのぼって適用されたとすれば、青空文庫は公開作品のおよそ半分を失います。
広く利用されている、太宰治も坂口安吾も、中島敦、島崎藤村、菊池寛、新美南吉、海野十三、堀辰雄、横光利一、折口信夫、林芙美子、中里介山、北原白秋、斎藤茂吉、織田作之助、原民喜、与謝野晶子、宮本百合子、三木清等も皆、読めなくなります。

過去にさかのぼっての適用がなかったとすれば、これらの作家は生き残ります。
ただし、その後20年をかけて、青空文庫は確実に、やせ衰えて行きます。
保護期間死後50年であれば、今後20年間に公開作品リストに加えられたはずの小川未明、柳田国男、吉川英治、正宗白鳥、野村胡堂、尾崎士郎、三好達治、佐藤春夫、中勘助、梅崎春生、江戸川乱歩、谷崎潤一郎、高見順、米川正夫、山中峯太郎、小宮豊隆、鈴木大拙、亀井勝一郎、山本周五郎、壺井栄、時枝誠記、笠信太郎、子母沢寛、広津和郎、村岡花子、木々高太郎、長谷川如是閑、伊藤整、獅子文六、西條八十、大宅壮一、三島由紀夫、深田久弥、内田百間、高橋和巳、志賀直哉、平林たい子、広瀬正、川端康成、椎名麟三、大佛次郎、サトウハチロー、浜田広介、花田清輝、江口渙、梶山季之、金子光晴、きだみのる、林房雄、香山滋、檀一雄、舟橋聖一、福島正実、武者小路実篤、武田泰淳、竹内好、今東光、稲垣足穂、海音寺潮五郎、野尻抱影、平野謙、柴田錬三郎、山岡荘八、花森安治、福永武彦、中野重治、植草甚一等を、青空文庫は迎え入れられなくなります。

鳩山首相、川端文科相が最大限の努力を傾けて進められるという保護期間の死後70年への延長には、社会の誰もが容易に利用できる20年後の電子の書棚から、谷崎潤一郎を、山本周五郎を、三島由紀夫を、川端康成を、奪ってしまうという側面があることに、どうか目を向けてください。

国民の広範な支持を得て政権交替を果たし、日本の再構築をになう民主党政権が、インターネットに育ち始めた万民が共用できる文化の宝箱を、率先してやせ衰えさえる選択を行うとすれば、この社会の再生に期待し、自らもその育成に力をふるおうとする者が味わう失望は、いかばかりのものとなるでしょう?

民主党の皆さんに、心よりお願いいたします。
「保護」とならぶ著作権制度のもう一方の柱である「利用の促進」にも目を向け、死後70年への保護期間延長問題について、党内で広く論議していただけないでしょうか?
その上でどうか、インターネットを活用した文化共有を促進し、この社会に生きる人々の心の足腰を強める側に政策の舵を切ってくださるよう、お願い申し上げます。


[2037] 鳥取のTさん 投稿者:北風 投稿日:2009/11/24(Tue) 12:15  


20日、鳥取のTさんが、来訪。
ハンセン病の被害の中で、もっとも苦労された人の一人だろう。
そして、国賠裁判を通してもなんら「救済」されていない。

彼の状況は、国賠裁判の論理の正反対のところにある。
裁判は、多くの人を「救済」した。
しかし、そこから漏れてしまった「少数の人」をどうするのか。放置するのは差別の中の差別を容認することになろう。しかし、彼の状況と論理を多くの人に理解してもらうのは、相当困難だろうこともまた、客観的事実だろう。

しかし、国賠裁判だってそういうところから出発したはずだ。







[2036] まだ届かない! 投稿者:ルリカケス 投稿日:2009/11/14(Sat) 23:30  

尾崎元昭先生のエッセ未だ届かない!

尾崎先生より早めにメール頂いたのに何故かなー

そろそろ届く予定ですが?明日届かない時は、先生にメール
入れてみよう!


[2035] 尾崎先生 投稿者:北風 投稿日:2009/11/12(Thu) 17:40  


元・愛生園の尾崎先生のエッセイ集『隔ての海の岸辺で』が届いた。
芭蕉布の装丁がいい。
内容は、これからだが、挟み込みに、ご家族が小文を書かれていて、ほほえましい。
最後に、原田禹雄先生が、言いたい放題を書いている。気持ちはわからないでもないが、困った爺さんである。

楽しみに読もう。



[2034] 図書館総合展で鎌倉の大先生からの電話にびびる。 投稿者:北風 投稿日:2009/11/11(Wed) 20:02  


横浜の図書館総合展に行く。
渋谷から横浜以遠は、みなとみらい線というのだそうで、料金が急に上がる。
NIIのフォーラムは面白く参考になった。

途中で、会社から電話が入る。鎌倉の大先生からだという。
先生は碩学で弊社に対して親切だけれども、口うるさい。
先生の仕事が、少し遅れ気味である。恐る恐る電話を入れる。

開口一番「おお、生きていたかね」とおっしゃる。なんでも、弊社がつぶれて傷心のおいらが、街をさまよっている夢を見たという。
先生は「よかったよかった」とおっしゃる。「何がいいもんですか」といえないおいら。気にかけていていただいているのであるが、複雑な気持ちである。
それでもお気持ちはありがたく、お礼を申し上げて電話を切った。




[2033] Re:[2032] 今頃見つけたので無断転載。 投稿者:北風 投稿日:2009/11/05(Thu) 18:41  


>  「らい予防法」の運用時代の療養所のすべてが暗黒であったわけではない。さまざまな抵抗も、表現も、交流も、つまりいのちの輝きがあったのだ。それらを否定する歴史観が国賠訴訟の後は主流となっている。裁判は白黒をはっきりさせないと成立しないゲームである。それはそれでしかたないのに、善玉と悪玉の二元論の原理主義で歴史のすべてを把握してよいものか。私はそう思っている。

まったくそのとおりだと思っています。
「予防法時代」をそのような「歴史観」でとらえることは、偏見差別と闘い、抵抗し、表現し、生き抜いた人たちや、孤立無援で社会復帰し信念を貫いた人たちを貶めることになる。また、誰もが忌避していた時代、進んで島や高原を訪れ交流した人々の存在を無視し、そこで働くことを職業として選んで黙々と勤め上げた無名の人々を一絡げに「鬼」と表現する(T弁護士・本BBS【1962】参照)ことに対し、あまりに「杜撰」な「歴史観」といわなければならないし、そうでないというならばその意図はどこにあるのかと問いたい。





[2032] 今頃見つけたけれど無断転載。 投稿者:北風 投稿日:2009/11/05(Thu) 13:50  

論楽社 虫賀さんのブログから

2009.03.26 Thursday
連載コラム「いまここを紡ぐ」(第195回)ひらがなの思想――岡部伊都子さんとハンセン病

 そもそもの始まりは、昨年10月の島田等さん(1926〜95)の命日。島田さんの遺骨のほんの一部を、その日、故郷の三重県の海に私と滝尾英二さんは流した。

 そのとき皓星社の藤巻修一さんに初めて会った。「ハンセン病文学全集」を出している皓星社の社長である。藤巻さんもいっしょに島田さんの骨を流した。

 藤巻さんは言った。「島田さんの『知識人のらい参加』をテーマに京都でシンポジウムをしたい。鶴見俊輔さんに基調講演をすでに頼んだ。共催してくれないか。」

 島田さんの連作評論「知識人のらい参加」(『病棄て』ゆみる出版)はその死によって未完に終わっている。その精神のバトンを受け継ぎ、深めるためにも、よいチャンスである。もちろん、快諾した。

 そして、このたび2009年3月21日と22日の2日間、京大会館でセミナーを開くことができた。

 「らい予防法」の運用時代の療養所のすべてが暗黒であったわけではない。さまざまな抵抗も、表現も、交流も、つまりいのちの輝きがあったのだ。それらを否定する歴史観が国賠訴訟の後は主流となっている。裁判は白黒をはっきりさせないと成立しないゲームである。それはそれでしかたないのに、善玉と悪玉の二元論の原理主義で歴史のすべてを把握してよいものか。私はそう思っている。【僕もそう思っている】

 鶴見俊輔さんは1946年から、大江満雄さんは1949年から、岡部伊都子さんは1956年から療養所に入っている。それらは、当時のハンセン病に対する社会一般常識から言えば、「信じられない異常な行為」である。でも、敢行していった。よほどの内的欲求がないと、できっこないことだ。

 しかも、岡部伊都子さんは大島青松園の吉田美枝子さんと親友になっている。「綺麗ごとは必要なく、『思うこと』『考えていること』を、そのままわかってもらえる幸福感は貴重だった」(『ハンセン病とともに』藤原書店)という思いにまで至っている。

 いまなお、たとえば「私の父や姉がらいでした」と言うことができるひとはほとんどいない。表明すれば、就職や結婚で差別をいまも受けるからである。ハンセン病差別は過去の問題でなく、現在進行形の問題である。

 いまですら、こうである。50年前、60年前はどれほど厳しかったか。その当時において、吉田美枝子さんと親友になっていった岡部ちゃんって、スゴイ。そのことを、もういちど強調しておきたいと思う。

 岡部ちゃんが知識人だったかどうかはわからない。もし知識人のひとりだったとしても、それは「ひらがなの思想」の、日常語で考える知識人だった。

 ハンセン病の問題も、医学用語や歴史用語で岡部ちゃんは考えなかった。同じいのちとして、そのあまりもの不公平さ、不平等さに泣いていたからだ。unfairnessへの怒りがあったからだ。

 ひとを動かすのは、「ひらがなの思想」だ。

 自殺防止において、「危機に際して専門家はお呼びでない」というリットマンの法則というのを最近知った(斎藤友紀雄『自殺危機とそのケア』キリスト新聞社、2009年)。

自殺といういのちの危機に対して、物々しい「治療的対応」や「専門家のよろい」がかえって障害になり、さりげない素人の介入のほうが有効であるという認識である。

 岡部ちゃんも鶴見さんもハンセン病について、素人である。

 ただともに結核を病む体験をもっていた。だからこそ、体の痛み、魂の痛みの響きを感じることができた。内奥のいのちの働きがなくして、「らい参加」はありえなかった。
たとえ知識人であろうとも、なかろうとも。
(3月26日)


[2031] 村松の書斎 投稿者:北風 投稿日:2009/11/01(Sun) 09:42  


書籍を棚から出して分類し、目録を取っている。
書籍を抜き出すたびに、その場から魂が抜けていくような気がする。解体して更地にしなければならないのだから、やむをえないこととはいえ、後ろめたいような気分は残る。
村松のいわば「知の現場」を解体したものの責任のようなものを感じるのだが、それを具体的に宣言するには、時間と能力の点でためらいがある。

書籍であるが、いずれ引き取り手のないものは「古書店」に出さなければならない。
目録ができたら、一定期間、ネット上で公開して引き取り手がいたら無償でお渡しして、期間を過ぎたら古書店で引き取ってもらおうかと思っている。



[2030] 奥村さん 投稿者:おせっかい 投稿日:2009/10/19(Mon) 18:17  

http://page.freett.com/oku/

↑が全文のようです。
「過去の遺物」をクリックしてください。
彼のHP がそのまま残っているのは辛いものがあります。


[2029] 奥村が9月になくなったそうだ。おいらよりちょっと若い。 投稿者:北風 投稿日:2009/10/19(Mon) 16:37  

誇り高き生(内村剛介さん追悼)  奥村眞

 一月三十日に内村剛介さんが亡くなり、六日が告別式だった。三十年前に初めてお会いし、以降随分お世話になったものだから末席に参列した。喪主を勤められたご令嬢は内村さんそっくりの風貌で、簡潔にして明快なご挨拶もまた、故人を彷彿とさせた。

 初めて内村さんにお会いしたとき、現在の私とほぼ同い歳だった。クロンシュタット叛乱の年、大正九年生まれの故人は、私の亡き母と同い歳である それを思えば慄然とする。あの時の内村さんと、今の私で同じものといえば、髪の白さだけだ。畏怖すべき存在だったにもかかわらず、多くの後進たちに対すると同様、不逞にして且つ不肖の弟子たる私にさえも、数多の資料をプレゼントしてくださり、不逞にして且つ不肖の弟子はそのほとんどを反古にした。

 学のない私にとって学恩に報いることなどできず、思い出すことといえば、時折り付き合ってくださった酒場での話ばかりだ。エリートは学校でいい目を見たんだから、社会へ出たら安い報酬で働けばいいんだ、というようなことを言えば、私なんぞが身を乗り出して欣喜雀躍するだろうことも、先刻ご承知だった。

 酒席は楽しかったが辛かった。何故ならば早口の栃木弁に、栃木訛りのロシヤ語が頻繁に混じるからだ。師のロシヤ語を栃木訛りと感じたのは、われわれ不肖の弟子だけかと思ったら、哈爾濱学院の後輩で、恵雅堂出版社長・麻田平草氏も、追悼文で同じ表現をなさっていたので安堵した。

 その追悼文のなかで麻田氏は、発疹チフスで動けなくなった先輩・梶浦智吉氏に付き添ったため、以降のシベリア抑留を余儀なくされた内村さんの、「見て見ぬふりができない生き方」に触れているが、同様の思い出がある。

 夏の合宿と称して熱海で数泊したあと小田急で新宿へ帰る折、ビールを飲みすぎた不肖の弟子は、最初微かな自然の呼び声がしたと思ったら、次第次第に自然からしきりに呼ばれ、雪隠のない車中で脂汗を流し始めたが、自然からの呼び声が耳を覆うようになると、止むを得ず独りで途中下車するむね告白した。不肖の弟子仲間たちの見解は我慢しろというものだったが、そのとき師はきっぱりと、「我慢するのは苦しいものだ。みんなで降りよう」と主張してくださり、私は独り取り残されることなく、小田急途中駅のベンチで皆と一緒に和やかに爽やかに、次の列車を待ったのでした。


 想い出すことは多い。破顔哄笑する師の顔が浮かぶ。

 (2009.2.21)


[2028] 近代思想 投稿者:北風 投稿日:2009/10/15(Thu) 18:55  

蔵書のなかに、大杉の『近代思想』の合本と『飼山遺稿』が大切に保存されていた。『近代思想』合本はいたんでいるが元は相当に立派な製本だったようだ。飼山の親友だったという夫人の父から譲られたものだろう。

村松にとっては象徴的な意味を持つ書籍だったはずだ。



[2027] 村松の書斎 投稿者:北風 投稿日:2009/10/13(Tue) 10:21  

村松の書斎の整理をしている。
昭和20年、日本に引き上げて以来の資料が几帳面に保存されている。戦後の青春のひとつのありようが生々しく想起されて、胸に来るものがある。
村松の「伝記」を書きたくなったが、その日記を精読して彼の意図的な、あるいは意図せざるままに、他人の知ることの無かった領域に踏み込むことにためらいがある。

一方、彼の職業であった『数理科学』という雑誌は、その編集後記が評判で、専門外の人たちにもファンが多く、書店で編集後記だけを立ち読みする人もすくなくなかった。
没後、それをその名も『編集後記』として出版しようと思ったが、諸般の事情で果たせなかった。この際、こちらだけは「来春」形にしよう。
頼むぜ、丸善。




[2026] 主催者・滝尾英二にかわりスタッフが、ご報告いたします 投稿者:主催者・滝尾英二にかわりスタッフが、ご報告いたします 投稿日:2009/09/28(Mon) 11:58  

主催者・滝尾英二にかわりスタッフが、ご報告いたします
投稿者:スタッフ 投稿日:2009年 9月27日(日)19時10分41秒

7月初め以降、現在まで3ヶ月近く、メッセージを投稿出来ずにおり、ご心配をおかけしています。

滝尾は、現在、家族の協力のもと、主治医・井口医師(あすなろ生協診療所)ならびに、山下看護師(高陽第1診療所)の治療と、福谷ケアマネージャーのほか介護スタッフの介護を受けながら、機能回復につとめています。

4月末に「うっ血性心不全」で緊急入院したあと、それまで「要支援1」だった介護の認定が「要介護4」になったことは、この掲示板で、お知らせしました。

一時は、食も細り、ベッドから上体を起こすことさえままならず、自身で歩行出来ない状態が続き、周囲が気をもむこともありました。

現在は、ヘルパーの介助を受けて、車イスを利用しながら、近所のスーパーへ買い物に行くなど、外出することも出来るようになってきました。

そして、人権問題などについて、かつてのような積極的な発言が聞けるようになってきました。

今月の17日には、主治医・井口医師をはじめ、あすなろ生協診療所のスタッフの皆様のご好意で、大好きなカラオケの会を開いて頂きました。

家族も、滝尾とともに参加させて頂き、感激し、感謝の気持ちをあらたにした次第です。

本人が投稿出来るまでには、なお、しばらく時間がかかるとは思いますが、今後とも「滝尾英二ウェブ Part2」を、よろしくお願いします。

2009年09月27日
「滝尾英二ウェブ Part2」スタッフ


[2025] Re:[2024] 村松武司さん 投稿者:北風 投稿日:2009/09/27(Sun) 19:57  

>
> それにハンセン病関係の本がいただけますと、ハンセン病文庫に幅がでます。
>

あまり特別な本はありません。
関東、特に栗生の入所者の作品集です。
こちらでは、ありきたりで「資料館」には当然にある本ですが、そちらでは珍しいかもしれません。

〉現在も多忙ですが?
あと数日はめちゃめちゃですが、もしかしたら来月から時間が出来るかもしれません。
それまで、みんな先送りで顰蹙をかっています。





[2024] 村松武司さん 投稿者:ルリカケス 投稿日:2009/09/27(Sun) 09:56  

北風さんご無沙汰!

沖縄に行かれたのですか?
所で、村松武司さんですが、ネットで調べたら、凄い働きを
しているのですね!

それにハンセン病関係の本がいただけますと、ハンセン病文庫に幅がでます。

ひとつ宜しくお願いします。今年は無理かも、でも来年は沖縄に行きます。

和光園と琉球時代の米軍との関係調査に行く予定です。
過日は多磨・草津・熊本と、半月出でいました。

現在も多忙ですが?


[2023] 連休に 投稿者:北風 投稿日:2009/09/26(Sat) 15:53  

市川の村松武司の家を訪ねた。夫人も一人息子のSのいる沖縄に行ってしまったので、無住である。
いよいよ処分するというので、蔵書の処理を相談されたが、いまどき「村松文庫」などとして一括保存してくれるところもない。
生前、親友だった古書業界の名物男山さんの娘のゆりちゃんに処分を頼むことになるだろう。
しかし、その前に「目録」だけは作りたい。その下見であった。書斎は、机の上の灰皿のタバコまで、生前のままに保存されている。蔵書は、「列島」など戦後詩の系統、朝鮮問題、ハンセン病関係、職業だった「数理科学」関係に大別できる。ハンセン病関係は、ルリカケスさんの「ハンセン病文庫」におくろう。

隣の奥さんが「村松のおじさん」としきりに言うので、姪御さんがいたっけと思っていたら、ただの隣人であった。村松は、近所の人たちにも大変慕われていたらしい。
「数理科学」の編集長、草津の詩話会の選者、朝鮮人作家たちとの深い交友、酒場でのもてもて小父さんのほかにも、こんな顔があったのか。
右の手のしたことを左の手に教えない小父さんであった。







[2022] もう15年以上たってしまった。 投稿者:北風 投稿日:2009/09/20(Sun) 14:46  

村松武司は祖父の代からの朝鮮入植者で、1924年に「京城」で生まれ京城中学を卒業後。応召、仁川の士官学校入学直後に敗戦。ポツダム少尉。日本敗戦と同時に引き上げ、46年から詩誌「純粋詩」や「列島」の創刊に参加した。結核療養中に知り合った栄子と結婚。栄子の父は山本飼山の親友で栄子の「栄」は大杉栄から取ったものという。「この結婚で日本の革命の伝統とつながった」と述懐したことがある。コロンであったことの贖罪意識を払拭せず、「朝鮮海峡」「コロンの碑」など朝鮮問題を詩材とする作品を多く書いた。また、草津のは栗生楽泉園の詩話会の選者を大江満雄、井出則雄のあとを受けて死の直前まで続けた。村松は「自分の中の、朝鮮とライという二つの中心を持つ楕円は、やがて重なり楕円は円となっていった」と語ったことがある。1993年8月没。夏の終わりを告げる激しい雷雨の夜であった。千日谷会堂での葬儀には大勢の朝鮮人、草津から駆けつけた元患者であふれた。鶴見俊輔は弔辞で「指導者意識の無い知識人であった」と述べた。
遺稿集『海のタリョン 村松武司著作集』(1994年)。




[2021] もう6年になる 投稿者:北風 投稿日:2009/09/08(Tue) 13:22  


時々、われわれの屯する酒場に現れた。
握力の異常に強い爺さんであった。津久井湖にルアー釣りに行った帰途、教会によったこともあった(すでに、バスは津久井湖でも繁殖していた)。満州医科大学出身で、戦後、僻地・農村の医療と伝道を目指して住み着いたのに、都市化の波はここにも押し寄せていた。
1975から80年ころだったかな。


 小川 武満氏(おがわ・たけみつ=平和遺族会全国連絡会代表、医師、牧師)14日午前2時18分、急性腎不全のため神奈川県津久井町の病院で死去、90歳。旧満州(現中国東北部)生まれ。自宅は神奈川県城山町葉山島705。葬儀・告別式は17日午前11時から同県愛川町棚沢941−1、愛川聖苑で。喪主は妻幸子(さちこ)さん。  戦時中は中国・北京で軍医、戦後も戦犯拘留所で医師を務めた。85年の中曽根康弘首相(当時)の靖国神社公式参拝をきっかけに平和遺族会全国連絡会を結成。公式参拝に反対し続けた。
2003/12/15 00:06 【共同通信】




[2020] 結局。 投稿者:北風 投稿日:2009/08/03(Mon) 10:20  

誰も問題と感じなかったようだ。
気配はあったが間接的なので、よくはわからぬ。



[2019] 首都圏市民の会。 投稿者:北風 投稿日:2009/07/27(Mon) 12:05  


下記の問題について、メーリングリストに投稿して問題提起しておいた。
直後にきた事務局長からのメールは、事務連絡のみで、この問題には触れていない。

さて、どうするのか。



[2017] Re:[2015] [2014] [2013] 出張。 投稿者:北風 投稿日:2009/07/10(Fri) 18:06  

> > > 大阪に出張します。
> > > 谷内君あまり派手にやってはだめですよ。
> > >
> > 今度は京都。来週は名古屋。
> >
> 来週は神戸。
>
>
> 谷内君@読売新聞西部本社、本当にいい加減にしなくっちゃだめだよ。
>
来週は広島。



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