ハンセン病の闘いの歴史に学びともに考えるBBS
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[1828] “虚構の溝” 投稿者:夕焼け 投稿日:2008/10/15(Wed) 06:15  

溝など不必要なところに敢えて作られてしまった・・・“虚構の溝“の存在を感じています!

北風さんの、
[1138] やはり書いておこう 投稿者:紙魚 投稿日:2008/01/09(Wed) 13:24   内・・・、

>しかし、これは自身を含めた責任を言うことによって、その返す刀で過去にハンセン病問題に尽力した弁護士にもその限界を指摘し責任を問う構造になっているのだが、このことはここではひとまず措く。

この「・・・尽力した弁護士の限界を指摘し責任を問う構造」というもの(構造)を、私たち 市民 は深めておかなくてはと強く思います。

私自身もここ2・3年…菊池において、限界を指摘した 責任論 を幾人の方々より耳にしていました。ハンセン病史に疎かった当時の私は、その事に対してはわずかな疑念を感じながらも、聞き流していた!に、留まっていたようです…。

しかし、昨年 入江信 さんを訪ね奥さんの章子さんに映画出演の経緯など (今、私は自分自身を恥じています!当時の園の中に於いてそのお立場も考えず・・・章子さんに問うような物言いになっていたのではないか?という点です、小さな 嶋(シマ) の中で生活する、していくという観点が、私には行き届いていませんでした) 細々としたお話をうかがっていた時・・・、処刑後の再審活動に触れたとたん「必死なまでの関原弁護士の問いかけに対し 活動から運動 への転換をできなかった原因は・・・私たちにあった、関原さんには本当に申し訳ない・・・!」と、冷静な章子さんが声を荒げた事には・・・驚かされました。

このようないきさつも有り、「限界を指摘し責任を問う構造」に対しては・・・、
当時のMさん処刑後、それ以後の歴史認識をどのような光景で我々が描けるのか!?その努力はそれぞれがそれぞれに求められていると思っています。

歴史認識の重要性は、複眼の眼を養うことや、一面からでなく立体的な背景を忘れてはならないことを・・・、肝に銘じておきたいです。


先月中旬(平日)、菊池の歴史資料館に、増 重文 さんを尋ねて訪問してきました。成果は資料の中身が見ることができず、全くのゼロでしたが・・・、今ある資料館の実態を知ることは、ある意味意義があったのかもしれません。

「F事件」コーナーは、映画の宣伝にあまりにも趣を起きすぎている点が気にかかり、資料館の職員(以前のまことちゃんは辞められ、若き女性職員でした)に、あれやこれやと尋ねてみました。その時空の中で・・・

職員、曰く
「私も映画が何を訴えているのかが、少しぼかされていると思いましたが、何でも、ご遺族の方々の反対がありあのような映画にせざるを得なかったと、聞き及んでいます」

このことを耳にしたとたん、これじゃ如何!と、
お互い、お昼休みの時間も忘れて、話し込んでしまいました。
どのように私の言葉が届いたのか?不安もありますが・・・その職員さんの真摯な態度(私に「F事件」について逆に尋ねて下さったその姿勢・視線)には、今も私の中に“嬉しさ”が、残っています。

ですが、事は重大だと心得ています。
「あのような映画にせざるを得なかった」という私には事実誤認と思える言葉です。

論じあわなければなりません・・・!
汗を掻かなくてはなりません・・・!

菊池を離れる前に、入江章子さんに会ってきました・・・。
章子さんとの対話の中に、
「“あっちも”“こっちも”私には不愉快な言葉です。なんとかできないものなのでしょうか?」

先月より、この言葉が脳裏から離れません!とらえ方の相違をそのままにしておくことが如何に 愚民化 という概念を産み出しているのか?という現実です!

“市民学会の組織強化“と、この学会が“未来への礎“という夢に対して、いち学会員でも汗を掻いてみようと思った所以です!!


北風さん、
>そういう、市民学会をのぞむのは無理ですかね。

私の中には、「間に合う」という概念は存在しています。

「市民学会」……図書資料部会主催の第三回セミナーにどのような方々が参加して下さるのかが、とても大事なことのように捉えています。




[1827] ハンセン病史から何を学ぼうとしているのか!? 投稿者:夕焼け 投稿日:2008/10/14(Tue) 19:04  

06年8月に書かれた、北風さんの文章(言霊)の貼り付けです!


後の祭りにならないために、小生も整理しておきます。 投稿者:北風 投稿日: 8月 6日(日)08時55分27秒   引用  編集済

もともと、小生には国賠裁判以前から何らかの形でハンセン病に関わってきた方と、弁護団はじめ裁判からこの問題に関わってきた方の間に感情的な溝、考え方の相違があると感じてきました。
このことは論じれば長くなりますが、それを放置することは決してよいことではないし、本来一緒に闘っていくべき仲間を、相手の側に押しやる結果にもなる〔それは末利光『ハンセン病報道は真実を伝え得たか』でも、稀少難病の会のESさんが末に「共感」を示すなど如実に現れています)そういう問題意識があります。

裁判から五年、予防法廃止から十年、そろそろこうした溝は埋めていかなければならないし、それには「ハンセン病市民学会」が両者の相互理解の橋渡し、接着剤の役割を果たすことを心から期待してきました。

今回の映画化で小生が違和感というより、これでは駄目だと思ったのは、実行委員会に藤本事件の最高裁の弁護人で再審請求にも尽力し遺族の世話まで献身的に見た関原勇弁護士の名前がないことでした。何があったのだろうかと感じていたところへ、山下さんの「書簡」があって自分の違和感は決して根拠のないものではないことがわかったわけです。

「藤本事件」に関するもう一つの違和感も関原さんに繋がります。
ハンセン病市民学会で、徳田弁護士は藤本事件に触れ、藤本さんの再審に弁護士の後半生をかけると熱弁された。
しかし、再審は遺族以外は請求できないし、遺族の信頼厚い関原さんは現役の弁護士である以上、関原さんを抜きに語れないものだろう。
徳田さんは、遺族と関原さん抜きにどうして再審請求するつもりなのだろうということです。あるいはどうして関原さんを無視した発言をするのだろうか。

市民学会で語られた「映画化」「再審請求」、どちらも遺族とかつて献身的に関わった弁護士、支援者が眼中にないように感じられた。
これでは市民学会そのものも、接着剤どころか両者の溝を拡大深化させるものになりかねない。

こうしたことが背景というか底流にある。

どうしても「藤本事件」を映画化したいのならスケジュールと募金目標のみが提示されるのではなく、まずどういう映画を作るのかの明確な説明がほしい。
また、とにかく「募金」と「スケジュール」が先行しすぎている、遺族や関原さんと十分な時間をかけて誠実な話し合いがもたれたのかという懸念もある。(遺族は映画化差し止めの仮処分を申請し三月に和解が成立したとの事)

権兵衛さんが言っていたように「藤本事件の映画化には誰も反対はしない」。それはほとんどの人が、アプリオリに「藤本事件の映画」といえば、藤本さんの冤を雪ぐ映画だと思っているからです。その人たちの「善意の誤解」がこの上映運動の基になっているというのは穿ちすぎでしょうか。

自主映画は「運動」です。運動が終わるまで(映画が完成するまで)、参加者は何に参加していたのかわからないのでは、うまくない。後の祭りという言葉もあります。だからこそ、事前の説明や、あるいは批判的な発言がおおらかに語られることが必要なのだとおもいます。

この時期、山下さんが懸念を表明し、関原弁護士が私費を投じて『藤本事件資料集』を作られたのは、そうした懸念を強く持ったがためだと思います。

結論。この映画が商業映画として作られるなら、内容をあれこれ言う立場にない〔遺族の意向は別として)、しかし募金や上映運動を基盤に作られる以上、この段階から意見表明はしておく必要があるし、制作側は全ての協力者(批判者も含めて)に対して内容に責任を負わなくてはならない。



続いて、08年1月の紙魚(北風)さんの文章(言霊)・・・貼り付けです。

[1138] やはり書いておこう 投稿者:紙魚 投稿日:2008/01/09(Wed) 13:24

『ハンセン病市民学会年報 2007』の巻頭言を徳田さんが書いている。

「『特別法廷』と最高裁判所の責任」言う物々しいタイトルである。

そこで「新あつい壁」を引いて「異様な」特別法廷について、裁判所法の「例外規定」に基づく「特別法廷」がハンセン病患者を対象に開かれたことの違法性を主張されている。

そして、この「違法」な特別法廷が、1947年から72年までに95件開かれたと指摘している。(これには、おいらも驚いたが)
この事実から最高裁判所が隔離政策に加担し、裁判所自身が憲法違反を続けてきたと指摘する。しかも判決を受けて政府も国会も「謝罪」したが、最高裁は「特別法廷」の違憲性を謝罪はおろか自ら検証もせず頬被りを決め込んでいる、というものである。

そして私たちは最高裁判所のありようを徹底的に批判して、隔離の加担した司法の責任(法曹の一員として徳田さん自身をも批判の安全地帯に置かない優れて良心的な態度の表明であろう)を明らかにしなければならない、という。

しかし、これは自身を含めた責任を言うことによって、その返す刀で過去にハンセン病問題に尽力した弁護士にもその限界を指摘し責任を問う構造になっているのだが、このことはここではひとまず措く。

最後に唐突に「その故に、菊池事件再審請求は、私たちに課せられた使命であり、私にとっての悲願である」と結んでいる。

おいらは、前段の良心的態度と鋭い問題意識にも関わらず、この一行に違和感を覚えざるを得ない。
冤罪事件の再審は、まず第一義的に真実を明らかにし被害者とその家族の名誉の回復にあるべきであると思うのだが、弁護士個人の「悲願」とはどういうことであろうか。前段には藤本さん個人や遺族への言及もなく、その思いは伝わってこない。
「最高裁判所の責任の追及」という大義の前に、再び藤本さんの死が翻弄されのでは、遺族も藤本さんも浮かばれない。

そのことは、「新あつい壁」が、初め藤本事件の冤罪を明らかにするとしながら、次第に監督の「死刑に追いやったのは市民の偏見差別」といった一億層懺悔めいた抽象的でなにやら高いところにたったご託宣を伴って「啓発映画」に化けていく中で、藤本さんの「冤罪」は一つのモチーフ、エピソードにされていったことと、どこか通底するような気がする。

何よりも、被害者に寄り添って事件の真実を求めて行くことに徹する中から、より高次な問題が明らかになりその解決が求められる。すなわち、本当の「啓発」も「最高裁判所の責任の追及」も、冤罪を徹底的に追求し真実を明らかにしていく過程で自ずからなされるもので、決してその逆ではないし手段であってはならないだろう。



[1826] ルリカケスさん!無断でお借りします。 投稿者:夕焼け 投稿日:2008/10/14(Tue) 18:31  

貼り付けが上手く開けない方のために・・・

2008年9月1日  全療協ニュース No.934  ハンセン病問題基本法について  九州大学法学研究院教授 内田博文 

http://takaamami2.web.fc2.com/zrknews-index935.html

文章を読み取る力が、私を含めた多くの 市民 に求められています・・・ね!





[1825] (無題2) 投稿者:夕焼け 投稿日:2008/10/14(Tue) 17:23  

内田さんの続きです・・・

http://takaamami2.web.fc2.com/zrknews/zrknews93404.jpg


[1824] (無題) 投稿者:夕焼け 投稿日:2008/10/14(Tue) 17:18  

内田さんの・・・


http://takaamami2.web.fc2.com/zrknews/zrknews93403.jpg


[1823] Re:[1822] とらえ方の違い・・・? 投稿者:北風 投稿日:2008/10/14(Tue) 17:11  

>
> >熊本地裁判決からハンセン病問題検証会議へ、そして検証会議から市民学会へとバトンが託された。

一番問題と思うのは、バトンの出発点を「熊本地裁判決」に置くということです。

本来、自らが受け取るべきバトンを軽視したか否定して受け取ろうとせず、勝手にスタートラインを設定して新しいバトンを持ち出してきた。
その結果、本来伝えなくてはならないバトンを、人々の目から見えなくしてしまったのではないか。

「市民学会」は、スタート時のいきさつ(市民学会に参加している人の多くは、何も知らないわけだし)から、自由になって、本来のバトンを回復しなければならない。
そのためには、裁判を支援しながら排除された人々、現状に批判的で引いている人々との信頼回復が、喫緊の課題ではないでしょうか。そして、行動は「市民学会」の方から起こさなければならない。

そういう、市民学会をのぞむのは無理ですかね。



[1822] とらえ方の違い・・・? 投稿者:夕焼け 投稿日:2008/10/14(Tue) 06:28  

内田さんの文章より・・・、

「市民」と「専門家」・・・果たしてこのとらえ方でよいのだろうか?という思いがしています。

>両者をいたずらに対立させ、「市民」から「市民性」を、そして「専門家」から「専門性」を剥奪しょうとする動きも強まっている。

ここで使われている市民性と専門性をよくよく考えてみる必要性を感じています。

>「市民性」と「専門性」を相互に高めあっていければと願う次第である。

歪んだ見方なのかわかりませんが、このことを相互に高めあうことは、体制側(統治する側)にとても有利に扱われる可能性が秘められているような気がしています。


バトンの託され方にしても・・・、

北風さんが、これまでネット上で何度となく提起して下さっています、

「裁判を境になにか断ち切られてしまったような気が・・・。」

私にはこの提起をとても蔑ろにはできない、と、思えるのです。

>熊本地裁判決からハンセン病問題検証会議へ、そして検証会議から市民学会へとバトンが託された。

本当にこのバトンの託され方(視座)でよいのでしょうか?


>木を見て森を見ない議論に陥らないことが不可欠である。
一方、多様性を許容することも必要である。この必要性は市民学会の場合には殊更のものがある。

確かに「不可欠」であり、「許容」することの大切さはわかります。

しかし、

多様性の許容を導き出す方法として「木を見て、森を見ることができる」市民性が、今は求められているように思っています。
市民性の中から専門性を導き出す活躍(活動)が、不可欠と言っても過言ではないでしょう!

意味合いは違うのかもしれませんが・・・、
※「間に合う」ということ!
この言葉で「市民学会」の将来展望に 期待 するというささやかな願いは愚かなことなのだろうか?と、考えてしまいます。


執行部との温度差(とらえ方)は、何とかできないものなのでしょうか・・・!?


[1821] 文章、二つ。 投稿者:夕焼け 投稿日:2008/10/13(Mon) 08:40  

◎ 05年6月17日付信濃毎日新聞より、
「今日の視角 空虚な検証」 関西学院大学教授 野田 正彰


 千五百ページにおよぶ「ハンセン病問題に関する検証会議」最終報告書。厚生労働省が日弁連法務研究財団に委託し、二年半の年月をかけ、療養所入所者、新聞社の論説委員、ハンセン病専門医、精神科医、福祉の研究者、宗教家ら三十人の委員による、歴史と現状の総括的分析である。医学・医療界の責任、法曹界の責任、福祉界の責任、教育界の責任、宗教界の責任とつらなる文章を読んでいくと、よくここまで書いたものと感心しながら、どうしようもない虚しさを感じる。
 何が最重要な問題だったのか、軽重を検討しておらず、各界の責任についてもそれぞれの相互関係の分析はできていない。医学・医療界の責任が最も重いと考えられるが、具体的な記述に欠ける。そのため最後の「再発防止のための提言」に至ると、「医系学部等における人権教育の充実」といった空虚な言葉でごまかしている。日本の近代医学がいかに国家のための医学であったか、戦争のための医学であったか、富国強兵のための医学であったか、それが医科大学の教育、研究、医局システムに貫かれていたか、その分析なしにハンセン病問題は捉えられない。だが報告書の検証はあまりに浅薄である。

 例えば報告書の「はじめに」には、阪神大震災で親を亡くした子どものメンタルケアのあり方について検討する、国の主催するシンポジウムに出席し、心の傷は癒やされるどころか逆に深まることを学んだとある。ここには、国と県、市行政が被災者をばらばらにし、遠くの仮設住宅に追いやり、絶望させ、自殺や孤独死を多くしていったことなど、知ろうともしていない。

 この程度の視点で検証している。ハンセン病に感染した人への差別、偏見を指摘するのなら、どうして今、傍らにある精神病者の収容政策や知的障害者への非人間的処遇について、何とかしようと思わないのか。断片化されたやさしさや反省は虚しさを伝える。




◎ 05年8月31日 『ハンセン病市民学会ニュース』 第1号より、
「検証会議から市民学会へ」  共同代表 内田 博文

 去る五月一四・一五日、熊本の菊池恵楓園内の会場において、ハンセン病市民学会の設立総会が開催された。多数の会員のご出席を得て、大いなる期待の下、無事に船出することができた。ご同慶に耐えない。ただ、「市民」と「専門家」には緊張の契機も秘められている。両者をいたずらに対立させ、「市民」から「市民性」を、そして「専門家」から「専門性」を剥奪しょうとする動きも強まっている。
「市民」と「専門家」がともに手を取り合って、「市民性」と「専門性」を相互に高めあっていければと願う次第である。
 熊本地裁判決からハンセン病問題検証会議へ、そして検証会議から市民学会へとバトンが託された。再発防止の提言も学会活動の柱の一つである。だが、言うは易く、行うは難しである。
 療養所入所者の方々に残された時間はそれ程多くない。提言の実施は一分一秒を争う。市民学会の役割は高く、深く、重い。荒海を乗り越えていくためには、木を見て森を見ない議論に陥らないことが不可欠である。
一方、多様性を許容することも必要である。この必要性は市民学会の場合には殊更のものがある。幸い、宗教部会の立ち上げなど、各地から朗報が寄せられている。会員各位の一層のご健闘をお祈りして、ニュース発行に当たってのご挨拶に代えさせて頂く事にする。




[1820] Re:[1819] 「間に合う」ということ。 投稿者:あさしお 投稿日:2008/10/12(Sun) 07:08  

>
> 森さんにしても、上田さんにしても、関原さんにしても、滝尾さんも、生身の人間同士として思いを後進に伝えて欲しいと思いますし、その橋渡しをしたいと思います。それは、きっと若い人たちの血肉になると信じます。活字では出来ない何かがあります。
>
>
北風さん、ありがとうございました。上田婦長さんには23日に全生園でお会いできるかも。嬉しいです。お茶でも飲みながら上田さんを囲んでお話できるというこの上なく贅沢な時間が持てるかもしれません。そのときはこのBBSでもお知らせしようと思います。

生身の人間同士として語られることには、活字にできないことやしにくいこともあるし、ことばにし難い魂の伝承みたいなものがありますね。人を動かすのは結局そういう部分なのかな・・・

夕焼けさんがよく「松夫さんを好きでたまらなかった人々」と表現するのは、松夫さんと生きていた人たちの息づかいを感じているのだと思う。でも松夫さんに会っていたはずの元教誨師からは生身の松夫さんを少しも感じられなかった。その人が実行委員長になってできあがった映画では生身の松夫さんを感じて苦悶することはなかった。そういうことが映画ばかりでなくそこかしこで起きている。そのたびにもどかしさに身もだえする人と、そうでない人とはどこで分かれるんだろう?

間に合った人は、感動と同時に重い荷を負うことにもなるのかな。島田さんに間に合った滝尾さんもそうなのかもしれない。


[1819] 「間に合う」ということ。 投稿者:北風 投稿日:2008/10/10(Fri) 16:52  

>私なんかは今ごろになって上田さんを知ったくせに、間に合ったんだなぁ、という思いです。

おいらも、強烈な思い出があります。
高校時代、筑摩叢書で『寒村自伝』を読んで感動していましたが、荒畑寒村は歴史上の人物だと思っていました。
だって、大逆事件を危うく縊り残され、関東大震災で友人の大杉は甘粕に殺され、という歴史上の大事件に関わって、危うく乗り越えてきた人ですから。

しかし、上京して二年目、大学闘争で街がにぎやかになったある日「荒畑寒村講演会」というポスターを見てビックリ仰天。それが出会いで荒畑さんはその後、二十年近くお元気に活動されました。隠棲していた荒畑さんは、「革命前夜」と思っていてもたってもいられなくなったのだそうですが。
荒畑さんが元気ならと、調べると山川菊栄さんも健在で藤沢のご自宅にあいに行きました。
なにを話したかはすっかり忘れましたが、日本の「革命」の伝統と生身でつながったという感動があって、今でも大事に思います。

森さんにしても、上田さんにしても、関原さんにしても、滝尾さんも、生身の人間同士として思いを後進に伝えて欲しいと思いますし、その橋渡しをしたいと思います。それは、きっと若い人たちの血肉になると信じます。活字では出来ない何かがあります。




[1818] Re:[1816] 朝汐さん。 投稿者:あさしお 投稿日:2008/10/09(Thu) 21:16  

> 上田婦長さん上京。
>
> 10月22日、23日あたり上京されるそうです。
> 時間があったら、「囲む会」でもしたらいかがでしょうか。
> あいにく、小生はその期間中、東京にいないのですが。
>
> まっちゃんに相談して見て下さい。
>
>

それは嬉しい! 講演かなにかでしょうか。お時間があるといいなぁ。まっちゃんに連絡してみます。

>上田さんのご本を編集中です。ご期待ください。

ということで、こちらも楽しみ。私なんかは今ごろになって上田さんを知ったくせに、間に合ったんだなぁ、という思いです。もちろんまだまだ矍鑠とされていますけど、いろいろな意味で。「編集中」ということはそう遠くないでしょう。ヨカッタ〜



[1817]  論楽社編集部編『病みすてられた人々― 長島愛生園・棄民収容所』(1996年6月発行)より; 「島田等さんの死とその思想」に関する三篇の紹介                                                                                                                                                                        投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/09(Thu) 20:37  


<論楽社編集部編『病みすてられた人々―― 長島愛生園・棄民収容所』(論楽社ブックレット:第7号:1996年6月発行)より、「島田等さんの死とその思想」に関する三篇の紹介>


 先日、京都の洛北・岩倉にある論楽社に電話した。同書の記述内容を滝尾らのホームページに掲載したいので、了承していただきたい、という内容の電話だった。電話口に出られたのは、論楽社の代表である虫賀宗博さんだった。滝尾のことをよくご存知で、島田さんのお別れの会に同席したこと、洛北の岩倉の論楽社に私が訪ねたことなども、忘れずに覚えていてくださった。もちろん、私のお願いも了承いただいた。

 さて、その三篇は次の内容である。

(1)「島田等の思想とその死」 (部分) 徳永進(54〜58ページ)
(2)「ふるさとの海へ ― 『窓』 論説委員室から」 (全文)  川名紀美(48〜49ページ)
(3)「長島は宝の島 ―― 私の旅日記(102〜127ページ)より「さようなら、島田等さん:一九九五年十月二十五日」(部分)  上島聖好(論楽社編集部)

 論楽社(代表:虫賀宗博)に感謝いたします。

             人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

              ‘08年10月9日(木曜日) 20:26

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(1)「島田等の思想とその死」 (部分) 徳永進<医師>(54〜58ページ)

 ‥‥‥評論集『病棄て』(ゆるみ出版)の中に、島田さんは「強いられた問い」という文章を書いている。個が名を名乗り、個の伸長を求め広げようとする流れを近代化とするなら、名を隠し、息をひそめて暮らすハンセン病者たちは「逆さにうちこまれた棒杭」である、と述べた。

 療養所で過ごす人たちに求められたのは、無名化に加え無意味さであった。意味を求めて生きることは許されなかった。求めればむなしさや苦しさが待っていた。無感動になり、無意味に時を過ごすことが重要な防衛であった。島田さんはそのことを静かに拒んだ。拒み続けた。ゲゲゲの鬼太郎に出てくる目玉だけの妖怪になって、島に沈潜し、日本のハンセン病者たちの扱われ方、暮らし方をじっと見続けた。

 死が来たとき、島田さんは友人に言った。「骨は残さないでいい。故郷の海に向けて流してくれたらそれでいい」。島田さんがが最後に見せたおは、強制によってでなく自ら選び取った、無化への願望」だった。

 長島愛生園の精神科医だった神谷美恵子さんが「なぜ私たちでなくあなたが? あなたは代って下さったのだ」という詩を書いたころ、島田さんは神谷さんの深い心に触れることができる一人の患者だった。振り返ってみると、詩人ではなく、評論家でもなく、患者として生き抜いたところに、島田さんの思想の本領があると思える。

        非転向

   (前略)
 愛する人から
 愛されても理解されることのないかなしみは
 私が選んだものだ

 一人なら
 孤独もない

 生きつくし
 生きつくしても
 私を許さない私である
 私を貧りつづける私である

 眠ろう
 月は惜しいが
 眠ってこそ夢を見る
                   (『次の冬』より)

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(2)「ふるさとの海へ ― 『窓』 論説委員室から」<新聞記者、朝日新聞・論説委員> (全文)  川名紀美(48〜49ページ)

 詩人の島田等さんが、先月亡くなった。六十九歳だった。

 瀬戸内海に浮かぶ小さな島に立つ国立ハンセン病療養所、長島愛生園に生き、国のらい政策を問いつづけた。その思想は、評論集『病棄て』や詩集『次の冬』に結実している。

 島田さんに会ったのは、二年前のことだ。心を耕しあう京都のちいさな塾、論楽社に学んだ若者たちに誘われて、初めてその島への橋を渡った。

 「園の事務所へ入ったのは、この五十年で二度目かな」「そのがけから海へ挑んだ者は、百人じゃきかないよ。」
 島を案内してくれた入園者の言葉に、いちいち胸を突かれた。島の外を『社会』と呼び、治っても本名を名乗れない人が少なくないことを知った。

 夜、数人の入園者と食卓を囲んだ。テーブルには、心尽くしの海の幸が並んだ。若者たちは話に耳を傾け、やがてブルーハーツなどを熱唱した。私も少しビールに酔って、島田さんの詩を一編、朗読した。

 島田さんは、いちばん言葉少なくて、終始ほほえんでいるだけだった。

 この二年間に十回、延べ百二十人の若者たちが島を訪れた。自分たちの手で島に生きた人たちの記録を残したい、と考えたからだ。そのさなか島田さんは、すい臓がんに侵された。一切の延命治療を断った。若者たちが、島田さんの指のない手を左と右から握り、死に立ち会った。

 完治することがわかっているのに、患者を強制隔離しつづける『らい予防法』が、廃止されようとしている。

 「骨は、故郷の海へ」。島田さんはそう言い残した。
 一九四七年、三重県が行った集団検診の場から、そのまま島に連れてこられた。いま、ちょぽけな骨になって、やっとふるさとに帰れる。

             (『朝日新聞』 一九九五年十一月二十日、夕刊掲載)

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(3)「長島は宝の島 ―― 私の旅日記(102〜127ページ)より「さようなら、島田等さん:一九九五年十月二十五日」(部分)  上島聖好(論楽社編集部)

 「さようなら、島田等さん」     一九九五年十月二十五日(122〜125ページ)

 十月二十日の二時ごろ、愛生園へ島田等さんのお見舞いに出かている泉谷龍くんからでんわがあった。

 「島田さんが危ないんです。宇佐美さんはきのうからつき添っていて、きのう逝くかとおもったそうです。島田さんに何か伝えることはありませんか。もうろうとしているけど、話すとうなづかはるんです。伝えることはありませんか」と、か細い声で泉谷くんは必死で話す。

 「感謝してます。出会えて、感謝しています。それだけ。あなたが代表しているのよ、みんなを。がんばって。」

 私は受話器をおいた。いよいよか。それにしても泉谷くんと堀裕くんがお見舞いに行ったその日にこんなことになるなどと。いま、秋の野原から摘んできたばかりのとりどりの野の花をちらりとみやった。秋の野は賑やかしい。

 輿野康也くんに知らせなくては。十月十四日に、私たちはふたりで見舞った。「わざわざ東京から来んでええのに」と島田さんは言った。「クルマの免許、とれたんやてなあ」と島田さん。彼は免許を取りに山形に行ったこと、はじめて、山形の斉藤たきちさんところで稲刈りをしたことをしゃべった。「知ってますかか。島田さん。稲の束はくるくるっと巻くんですよ」と巻くしぐさをすると、「知っとるよ。百姓だもん」と島田さんは笑う。

 私たちは、右の手を輿野くんが、左の手を私がとり、島田さんと別れた。島田さんの強い手の力に、私とちは安堵の声をあげた。島田さんの手をほっぺたにあて、私は泣いた。「ありがとうございます。」「ございました」とは言えなかった。
 私は勇気がなかった。(中略=滝尾)


 道すがら、ふと西の空を見ると、みごとな桃いろのはぐれ雲。そのあたたかい色に、おもわず「島田さんのたましい」をおもったのだった。馬蹄のようなぽつんとひとつ漂う雲。島田さんが逝ったのは五時三十五分だった。

 西方浄土だねと虫賀君は言う。」
昼に摘んだ野の花の横に、ろうそくの花あかりを灯した。
「あす、“しのぶ会”。」次の日、出棺です。ぼくはこのままここにいようとおもいます」と泉谷くんがからでんわがあった。
       ◇
 島田さんのお棺の中に、なつめ、いちじく、ざくろ、『次の冬』を入れた。島田さんの小さなからだは、たくさんの花々でみっしりと埋もれた。島田さんは野の花が好きだったという。愛用の布の手さげ袋には、いつも野の花が二、三輪のぞいていたと「しのぶ会」で阿部はじめさんが語った。なつめ、いちじくは島田さんのお家の前にあるもんで島田さんは丹精していた。「肥料をやってくれ」と島田さんは宇佐美さんに言い残していた。

 秋にふさわしい賑やかなお棺になった。出棺にかけつけた徳永進さんが、てきぱきとからだを動かす。散らばった花をささっと放棄で寄せ集め、お棺の通る道をきよめる。「みんなでお棺のくぎを打とう」と徳永進さん。焼き場は、愛生園と光明園の間の山すそにあった。ごおっと大勢の上がる音がしたかとおもうと、青い空に白い煙がさあっとのぼった。浜風に吹かれた白い煙は空によろこんでのぼりながされてゆく。(中略=滝尾)

       ◇
 ひっそりと終らせてほしい。それが島田等さんの意思であった。万霊山納骨堂には骨つぼだけを、お骨は海に流してほしいとの遺言だった。私は島田さんの意志に反し、病の床をだいなしにしたこととおもっている。さみしいたましいの底の底の方でもとめあっていたとおもう一方、じゃましたことには変わりない。「ブナたちで島田さんを見届ける」と私は言い、けっきょく島田さんの寛容でそうなったとはいえ、私は自分を責める。「ありがとうございます」の前に、私は「ごめんなさい」と言うべきであった。

 島田さん、ごめんなさい。ごめんなさい。





[1816] 朝汐さん。 投稿者:北風 投稿日:2008/10/09(Thu) 15:35  

上田婦長さん上京。

10月22日、23日あたり上京されるそうです。
時間があったら、「囲む会」でもしたらいかがでしょうか。
あいにく、小生はその期間中、東京にいないのですが。

まっちゃんに相談して見て下さい。






[1814] 『らい』誌:第4号(1965年7月発行) に掲載された小泉まさし、しまだ ひとし 各氏の詩を掲載! (下) 投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/08(Wed) 15:02  

<『らい』誌:第4号(1965年7月発行)に掲載された谺 雄二、さかい としろう、小泉まさし、しまだ ひとし 各氏の詩を掲載してみる。>(下)

                    広島青丘文庫  滝尾英二

                ‘08年10月8日(水曜日)14:55

      ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(3)小泉まさとさんの「志保子抄」(10〜12ページ)

  (5)喜 劇

 ピュツーと風が吹いて 登山帽が飛ぶ 突然志保子の並びで 十五夜月のような坊頭が現われる キャラキャラ ケャアケャア 周囲がざわめきて しばらく 静まりはつかなかつた

 無菌になつても 完全治癒しても らいの禿頭は 縞西瓜であつたり 世界地図であつたり 海坊頭であつたりしている

 ――不毛なものはなになのか
   知っているかい 志保子――

十代から二十代を禿頭で道化し通しても
医者は
身体障害度の認定対象にはしない

笑われたとき
腹をかかえて一緒に笑うことが
せめてもの おのれの生存を認めること

飲み込み のみこむ 怒りを呑み込め!

くさいものにはふたをする
らいの歴史で
こころが逆十字に宙吊りされている

処刑されるものがそれで終るのはよいが

<?>

――志保子
  原爆記念館でみたものはなに ――

放射能で
とろけた鬼瓦の貌は
怒つているのか 泣いているのか

志保子よ
ぼくが嘲笑われなくなる
禿頭が不自然でなくななるまでには
まだまだ大分間がある

ノーモア・ヒロシマと
らいの畸型が演じる芝居と

――志保子
   凍てついたものを解かせ
   そして 喜劇の幕を降ろそう――

移りゆく景色の 窓の風が
冷や汗にここちよい
車輪ん通路を駆けて 志保子が帽子を追い
固い頬笑みで 深々と被らせる
志保子とぼくのパントマイム――。

      (6)

あなたがゆかいにわらえるのに
わたしのわらいはひきつっていました

どこの街ででも
ショウ・ウィンドーが
らい院になつていたのです

そのおびえの正体に勝てない
わたしは
あなたについてゆけない
でも ついてゆきたいのです
わたしの心はらいを病んでいます

      (7)

十二畳半のだだっぴろさの隅で、二十日以上も敷き流している
病床のぼくだつた
梅雨の苦しさに重ねて 急性結節の発熱が書棚も 机も畳も 汗とほこりで ぬらぬらとさせてしまい そのうえ らい菌の繁殖が眸孔までも犯して ぼくの視界は息苦しく 蒸し風呂の中に居るようだつた

夕暮れ近い空で層積雲が動かない
ぼくに
所内スピーカーが市外電話だと伝えたようにおもえたのだが‥‥‥ ぼくへの電話は志保子に限られているのだが‥‥‥額の吹き出る汗は寝床を頽廃にするばかりだつた

――らいの逃避は自殺しかない

障子の桟を確しかめようとして 幾度となく数えなおしてみる ぼくを 橙色や黄色の蝶がはばたいて もてあそぶのだ

『はやくよくならないと わたしの美しさかげんをみてもらえないので悲しいです』
『いまあなたの視力がよくなるように 千羽鶴を折つています 千羽になつたらきつとよくなります』

志保子の十七才の希いが
ぼくに呻めきを呑み込ませていた。

      (8)眼球結節焼切手術に (省略=滝尾)

      (9)電 話

受話器を握ると
わたしです 来ました!
まだ海のむこうに居るのに
身近な呼吸をしている
桟橋までむかえに行くよ!
下熱したばかりのぼくの声に
うれしつ!
志保子は
初夏の風に吹かれる青緑の樹々だ

喜びが中耳を転げ廻わっていた。


      ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(4)しまだ ひとしさんの「病人ちがい」(4ページ)

出たがらないつて?
治りたがないつて?
社会復帰を便秘したらい療養所で
思案顔な第三の医学。

患者たちの、あまりに
長く生きのびすぎた直腸には
所内結婚や、義足や
老令化や医師不足やがどつさり!
これでは日本のお尻ではないか。

便秘日本!
黄金の六十年代に、らい療養所なんか
一日でも早く排泄したかろうが
ものごとには順序と時間がある。
くるしまじれに
やくざな処方をうのみにしようものなら
こんどは
十一ケ所のお尻から下痢だ。

おれたちが便秘しているのは
「社会復帰」ではなくて日本。
指をもがれた者は指のない
てのひらを出して
昔の指で
かぞえてみな!
「絶対隔離」という偏食で
手も足も食いつぶさせてきた年月
いまさらそれは
官僚日本にとつても
たやすく解消したいというには
虫のよすぎる年月だが
おれたちの排泄はもつと楽じゃない。




[1813] Re:[1812] 上田政子さん 投稿者:北風 投稿日:2008/10/08(Wed) 08:55  


> このごろすごく上田政子さんのことを想います。昨年、資料館の企画で初めて上田さんのお話を聞けたけれども、企画側がきちんと上田さんを評価していなかったと思う。

上田さんのご本を編集中です。ご期待ください。




[1812] 上田政子さん 投稿者:あさしお 投稿日:2008/10/08(Wed) 00:37  

今度のセミナーのテーマとは離れてしまうかかもしれませんが。
このごろすごく上田政子さんのことを想います。昨年、資料館の企画で初めて上田さんのお話を聞けたけれども、企画側がきちんと上田さんを評価していなかったと思う。それに何よりご本人がご自分のことを評価できていないのかもしれない。
鳥取で事件を起こしてしまったTさんの身元引受人になったのも、上田さんにとってはごく当然のなりゆきだったのかも。「非入所者」とか、「遺族」「家族」とかまでも法律で定義された用語のようにしか使えなくなったわれわれのほうががおかしいのだろう。

元従軍看護師として南京大虐殺の証言を残されようとしているそうですね。


[1811] 『らい』誌:第4号(1965年7月発行 )に掲載された谺 雄二、さかい としろう、小泉まさし、しまだ ひとし各氏の詩を掲載! (上)                                                                                                                                                                                     投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/07(Tue) 22:34  


<『らい』誌:第4号(1965年7月発行)に掲載された谺 雄二、さかい としろう、小泉まさし、しまだ ひとし各氏の詩を掲載してみる。>(上)

              人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                ‘08年10月7日(火曜日)22:12


らい詩人集団の『らい』誌:第4号(1965年7月発行)に掲載された谺 雄二、さかいとしろう、小泉まさし、しまだ ひとし各氏の詩を、それぞれ『滝尾英二的こころ』、及び『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載する。これら四氏の詩の特徴が伺われて、興味深かった。「歴史研究者」であるので、詩の鑑賞力にとても弱い私には、その特徴は理解出来そうであるが、それ以上の批評は出来そうにもない。しかし、同じ「らい詩人集団」ではあるが、各人がそれぞれ個性を持った詩人であることは、私にも理解できる。

「詩でなければならないか〜『らい』創刊二〇号記念読者の集い(於 奈良・交流の家)から、4〜9ページ(『らい』21号:1973年9月発刊)を参照してください。滝尾のホームページには、部分的ながら、この座談会を収録してあります。

      ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 (1)谺 雄二さんの詩「祖国へ」(13ページ)

ボク達 ときにこらえきれず
いくたびか ガックリと崩れてなお
地べたを這い 泥なめて 見上げる空がある
たえまなく傷つき いまも
はげしく痛みつづける 青い広がり
そしてそこに 帰るべき 祖国の顔を見る
ボク達の心かきたて さらに
喘ぐほどの乾きがおそう 明日へ
おまえを恋する 日本の何処に
ライの峯に生きて ボク達の祖国を!

祖国にいて 祖国を!と叫ぶとき
逆立ちの そんな風景がかなしいから
ボク達 熱いなみだをこぼすことだつてある
こみあげる 黒い怒りが ある
ライゆえにではない 侵された日本に
ボク達はいくどでも起上がろう
この峯の熊笹が 険しく谷におちこむ辺り
二十年 五十年の ふかい断絶を
ライの氷壁を ついに克服しえたとしても
即ちそれが ボク達のふるさと
祖国日本の 美しい回復を意味するか?!

ボクは 療友金岳俊の肩を 抱く
幼かつた金とボク ライを病んで育ち
金は失明して いまも此処に
日本の峯に病みつぐ 君南鮮生まれ  (註:「南鮮」は不適切用語=滝尾)
いまさら 眼を!などと金は云わない
静かにとざされた 君のその瞼のうらに
燃えあがる 祖国朝鮮の顔がある
金はたかかいの中にいる 血を流している
韓日会議を粉砕せよ! 雲走る
この峯の空に 金の眼差しが突き刺る
祖国へ ボク達のいのちの始め!

      ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(2)さかい としろう 「つくられた断層(2)」 ―― ミチ子とその母に ――(6〜7ページ)

ミチ子よ
ミチ子は このおれを覚えてはいまい
わずかな出逢いでしかなかつたから、
しかし おれの記憶に生きる
ミチ子はひとりぼつちの幼なご
いまはもうひとりの妻であり 母親であろう
ミチ子よ、

おれはいま おまえに
あえてミチ子の出生の秘密をうちあけても
はや多感な少女でないから
つまずきはしないであろうね、
かつては自分の生立ちに いくどか
疑問をいだいたことだろう
ここにおれの知るかぎり 語りさかそう、

ミチ子よ
おまえのまことの父親は おまえはおぼえてはいまい
知つているのはおまえの母のみ
そのほかはだれも しるよしもない、

ミチ子よ おまえの母は
わたしの姉だよ
姉は 十人きょうだいの五番目に生れた
貧農のむすめだよ
生家は耕す土地いちまいもない農家
だからおまえの母は まだおさなくして
家族の口べらしのために
ふるさとを出て はたらいた、

カフエーの女給のとき
愛する男にだまされて姉は 私生子を生んだ
その私生子が
ミチ子 おまえなんだよ、
母となつた姉は たくましく働いた
だれもおまえたちを援助してくれなかつたから、

やがて縁あつておまえも、母とともに
親子ほどちがう子持のもとに 嫁いだ
とついで二人の子供をもうけたが
ふたりとも短かい人生であつた、
ミチ子 おまえにも妹がいたんだよ、
おまえの母は わが子のあとを追うように
胸をわずらつて死んだ
おそらく娘時代のはたらきが過ぎて、
病体の母から生れた妹ふたり
ともに感染して死んだ、

ミチ子よ おまえの母は
おれたち家族のために犠牲になつた
きょうだいの ひとり、
小作人の子に生れたばかりに
若くしていのちを失なつた
貧しさがまずしさをよんで ミチ子の母を
酷使させた、

女給、女中などいやしい職業といわれ
女として人間としてかろんぜられた 時代に
生きた母の遍歴を
胸ふかくうけとめてやつてくれ
ミチ子よ、

わたしの父は おまえを養なうだけの
たくわえがなかつたばかりに
見知らぬ人の養女にと 手離してしまつたが
ミチ子よ、

人間による人間の搾取がない社会を
たたかいとらぬかぎり
いまも歴史は くりかえされる
ミチ子の母は つくられるのだ、
ミチ子よ
おなじ性の母が受けた傷痕と いまこそ対決しよう
ミチ子よ。

                   (この項は未完;つづく=滝尾)

      ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥



[1810] いまや「湊屋」は高級旅館 投稿者:北風 投稿日:2008/10/07(Tue) 20:08  

湊屋、湊屋、湊屋。この土地じゃ、まああすこ一軒でござりますよ。古い家じゃが名代で。前には大きな女郎屋じゃったのが、旅籠屋になったがな、部屋々々も昔風そのままな家じゃに、奥座敷の欄干の外が、海と一所の、いかい揖斐の川口じゃ。白帆の船も通りますわ。スズキははねる、ボラは飛ぶ。とんと類のない趣のある家じゃ。ところが、時々崖裏の石垣から、獺がはい込んで、板廊下や厠に点いた燈を消して、悪戯をするげに言います。が、別におそろしい化方はしませぬで。こんな月の良い晩には、庭で鉢叩きをして見せる。‥‥時雨れた夜さりは、天保銭一つ使賃で、豆腐を買いに行くと言う。それも旅の衆の愛嬌じゃ言うて、えらい評判の好い旅籠屋ですがな、‥‥お前様、この土地はまだ何も知りなさらんかい。

泉鏡花



[1809] 永瀬清子さん。 投稿者:北風 投稿日:2008/10/07(Tue) 11:05  


セミナーで取り上げよというご提案がありました。
http://www.nd-seishin.ac.jp/introduction/nagase1.htm




[1808] よろしくお願いします。 投稿者:北風 投稿日:2008/10/07(Tue) 09:53  

昨日は早稲田の学生を中心とするグループの、中国でのボランティア活動の報告を聞いて少し感動しました。

ただ少し食い足りない点もあって、大江満雄や村松武司などの思想と活動を知ることは意義があると思いました。

また、一部から批判されているJLM にしても、韓国のハンセン病者(元)との関わり、在日(元)患者の故国訪問の実現など、我々に出来なかったことを実践しています。

そうした意味でも、過去の実践を正当に評価し学ぶことは、いままさに必要なことであると思います。




[1806] 北風さんへ 投稿者:あさしお 投稿日:2008/10/06(Mon) 23:51  

次の支援する会へは滝尾さんの書き込みも持っていけばいいですね。急にすみません。メール送信してからはたと思い出したので。水本静香さんの文章にも触れてありましたし。次回の話題にします。


[1805] Re:[1804] [1802] 「特別病室」と著しく人権を侵害されたことには変わりはありませんが、アウシュビッツで虐殺された人と同一視するのは疑問です! 投稿者:リベル 投稿日:2008/10/06(Mon) 18:27  

> > 北風さんのフォローは結構です。
>
> 人の口を簡単に封じるものではない。
> いいたいことがあれば、書く。
>
> ただし、この件に関しては以前申し上げたし、今もそう思っているから再論はしない。小生の考えは変わらないが、異論があるということで承っておきます。


そういう風にフォローをしないでくださいと言っているのです。北風さんの口を封じているのではありません。案の定議論をソッポへ逸らそうとなさる。それをなさらないで下さいと言っているのです。


滝尾さんに問いかけているのです。http://takio-kokoro-2.hp.infoseek.co.jp/pg08/pg08.htmlへどうぞというのが本道でしょうし、異常に長いコピペが他の人に不自由をもたらしていることについて、滝尾さんご自身からの返事を聞かせて頂きたいだけです。

以上で、私の投稿は終わります。北風さん一流の、押し問答の議論に参加することだけは、キッパリお断りしたいからです。

以上、以後当分、こちらへお伺いしません。ではでは、敵に後ろを見せて、退散、退散・・・(^_^)/~


[1804] Re:[1802] 「特別病室」と著しく人権を侵害されたことには変わりはありませんが、アウシュビッツで虐殺された人と同一視するのは疑問です! 投稿者:北風 投稿日:2008/10/06(Mon) 18:09  

>
> 北風さんのフォローは結構です。

人の口を簡単に封じるものではない。
いいたいことがあれば、書く。

ただし、この件に関しては以前申し上げたし、今もそう思っているから再論はしない。小生の考えは変わらないが、異論があるということで承っておきます。



[1803] 私も同じように思います 投稿者:リベル 投稿日:2008/10/06(Mon) 17:54  

>滝尾さんへ。
すみませぬ。これを書いているのは「あずき」です。
できれば、↑このような形で書いていただけませんか?

>これからしばらくは、北風さんからの「2008年度セミナー予告」が何度かアップされることと思います。それがスクロールしなくては、すぐにみつからない状態になるのは困ります。出すぎたこととは思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。

>北風さんのフォローは結構です。
滝尾さんご自身のお考えをお聞きしたいと思います。


私も「[1782] 藤本事件 投稿者:リベル 投稿日:2008/09/16(Tue) 18:47 」にこう書きました。

「ここは本来「ハンセン病の闘いの歴史に学びともに考える」場所であったはずです。今は90%が滝尾さんの「第二サイト」と化しています。滝尾さんも「闘いの歴史」をお書きになっています。しかし、滝尾さんはそのURLをお教えくだされば十分だと思うのです。私などは先ずここhttp://takio-kokoro-2.hp.infoseek.co.jp/pg08/pg0803.htmlを読んでから、こちらへ来ますから、何か新しいことが追加されていないかと、結局同じ文章を二度読むことになってしまいます。

これは滝尾さん、異常な状態だと思います。ご自分のサイトがありながら、(これは私はこちらhttp://www.eonet.ne.jp/~libell/13keijiban.htmでキチントご紹介申し上げているれっきとした独立した堂々たるBBSではないですか)もう一度同文を他のBBSへコピペなさる、これは他の人が真似をし始めると、まさに奇妙な事態を招きかねません。

先輩に対して生意気なことを申し上げました。またこれは運営者である北風さんに対するお願いとも取れます。いろいろな反論もお有りになろうかと存じますが、しかし、疑問を感じながら沈黙を保っているのも、潔くないと思って、この機会に思い切って書きました。」


それに対して、滝尾さんからは直接、どんなご返答も頂いておりません。私は沈黙を守ってはいますが、先輩を尊重しての所為であることは、お分り頂けていると思います。

明らかに、あずきさんの「尻馬に乗った」投稿だとは思いますが、しかし機を失すると、思いが通じなくなると、そう考えて投稿しました。心ある対応をお待ちしております。

北風さんからの「2008年度セミナー予告」がスクロールしなくては、すぐにみつからない状態になるのは困るのは実感なのですが、それ以前に、同一内容のコピペが「ハンセン病」関係のBBSにダブッテ投稿されることの異常を黙視しているのは、自らの怠慢とも思えますので、失礼を顧みず、申し上げました。現状では「滝尾の掲示板」を訪問することが、殆ど「無駄」になっているのですから・・・(^^)


私も申し上げますが、北風さんのフォローは、結構です。「ここに滝尾さんが書いているのは、一人で行くのではなくこの掲示板の仲間とその旅を計画しているからです。」なのであれば、単純な長いコピペではなく方法は別にもあると思います。善処を、滝尾さん、北風さんにお願いしたいと思います。

失礼の段は重々お詫び申し上げます・・・m(_ _)m


[1802] 「特別病室」と著しく人権を侵害されたことには変わりはありませんが、アウシュビッツで虐殺された人と同一視するのは疑問です! 投稿者:滝尾英二 投稿日:2008/10/06(Mon) 14:04  

http://takio-kokoro-2.hp.infoseek.co.jp/pg08/pg08.html

滝尾さんへ。
すみませぬ。これを書いているのは「あずき」です。
できれば、↑このような形で書いていただけませんか?

これからしばらくは、北風さんからの「2008年度セミナー予告」が何度かアップされることと思います。それがスクロールしなくては、すぐにみつからない状態になるのは困ります。出すぎたこととは思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。

北風さんのフォローは結構です。
滝尾さんご自身のお考えをお聞きしたいと思います。


[1801]   「特別病室」と著しく人権を侵害されたことには変わりはありませんが、アウシュビッツで虐殺された人と同一視するのは疑問です!                                                                                                                                                        投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/05(Sun) 23:47  


 2008年 9月18日(木)に「エリカ」さんは、「アウシュビッツ」と題して、病者からのメッセージのホームページに、下記のような文を投稿されている。さらに、9月22日にも「‥‥‥一方は戦争犯罪であり、国によるハンセン病患者の隔離・撲滅政策とナチスによるユダヤ人虐殺ホロコーストは全く性格も形態も目的も異なるもので、比較することもできないし、また同一視することもはできないというのが、わたしの見解です。」という一文も投稿されている。

「エリカ」さんは、一面識もない方であるが、私も同じく「病者」であり、また『滝尾英二的こころ』というホームページをつくっていることもあり、「病者からのメッセージ」は、たびたび「訪問」している。


「‥‥‥谺雄二さんはハンセン病療養所を日本のアウシュビッツだとおっしゃっています。が、これにはちょっと疑問を覚えるのです。

 ハンセン病療養所は当時は療養所というより、医療刑務所で、患者は過酷な生活を強いられました。
 大正5年には「癩予防ニ関スル件」を改正して強化し、療養所長に「懲戒検束権」が与えられ、療養所内に「監房」特別病室が設置されました。多くの患者が命をおとしました。
 アウシュビッツに収容されたユダヤ人は貨車で連行された。ハンセン病に罹った人も貨車(お召し列車)で連れてこられた。
そして、強制労働させられた。

 確かに、類似点はあります。
 しかし、アウシュビッツ収容所は殺人工場で、虐殺を目的として建設されたものです。アウシュビッツに収容された人は、選別され労働できない人(幼い子供、妊娠している女性、老人、障害者)は即ガス室に送られたのです。

 どちらも著しく人権を侵害されたことには変わりはありませんが、アウシュビッツで虐殺された人と同一視するのはちょっと疑問を覚えるのです。」


 今日、私のホームページに掲載する投稿文を書こうと、資料をあれこれと探していたら、高田 孝著『日本のアウシュヴィッツ』ハンセン病国賠訴訟原告団<草津>、同支援する会<草津>発行(発行者・谺雄二)という冊子があった。A5判で32ページ、1999年6月20日発行である。その巻頭でらい予防法人権侵害謝罪・国家賠償請求訴訟・草津原告団長・谺雄二として「『日本のアウシュヴィッツ』刊行にあたって」という巻頭文が、4〜12ページにわたって書かれていた。


 その谺雄二さんの書かれた一節には、つぎのように書かれていた。

「‥‥‥その重大な国家犯罪の一つが『特別病室』です。すでに書証とそては文中で紹介済みの沢田五郎著『とがなくてしす ―私が見た特別病室』がありますが、このたび同じく栗生楽泉園の療友高田孝より「特別病室」に関するきわめて貴重な証言が得られましたので、ここに『日本のアウシュヴィッツ』と題し、法廷と国民のみなさまにお届けしたいと存じます。アウシュヴィッツは、ご存知のとおりポーランド南部の一都市のドイツ語なで、第二次大戦中ナチス・ドイツの強制収容所が置かれ、ユダヤ人など多数が虐殺されたことで有名です。証言者は、「特別病室」がそのアウシュヴィッツの強制収容所と同じだというのです。」(11〜12ページ)と書かれてあった。

私は、9月18日(木)に「エリカ」さんの投稿文に同感する。「確かに、類似点はあります。しかし、アウシュビッツ収容所は殺人工場で、虐殺を目的として建設されたものです。アウシュビッツに収容された人は、選別され労働できない人(幼い子供、妊娠している女性、老人、障害者)は即ガス室に送られたのです。どちらも著しく人権を侵害されたことには変わりはありませんが、アウシュビッツで虐殺された人と同一視するのはちょっと疑問を覚える」のである。

 「エリカ」さんの貴重なご意見を引用させていただいたことに感謝したい。


              人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                ‘08年10月5日(日曜日) 23:45

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥



[1800]  故・島田 等さんから今日的課題を学ぶ   (滝尾英二)                                                                                投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/05(Sun) 05:57  

 <故・島田 等さんから今日的課題を学ぶ>

              人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                ‘08年10月5日(日曜日)5:26


 今回、島田 等さんの書かれたものをホームページに書き写してみて、これが13年以前に書かれたものだと、思い、びっくりするほど今日性であり、新鮮な内容の文です。(滝尾のメールから)

三十六年前に書かれた、この「“知識人のらい参加”―永丘智郎」を書き写して、今更のように、今日においてハンセン病問題で論じられている諸問題=たとえば「社会復帰」「〜将来構想」「近現代の医療制度」などが、すでに「“知識人のらい参加”―永丘智郎さん、神谷美恵子さん、杉村春三さん」などによって、適切に指摘され助言されていることです。実に新鮮で読むことができました。その提起は、ハンセン病問題のみならず、今日の「医療制度」「医療行政」「医療教育」「高齢者や心身障害者の医療問題」などにも、実に適切な指摘、助言がなされていることです。(‘08年10月1日の滝尾のホームページより)

 こうした私の意見について、親しくしている「メル友」から、下記のようなメールが送られてきました。ご本人の了承をいただいて、紹介します。


「島田等さんの評論は、らいの特殊性を掘り下げることによって客観化し普遍化しうるような“人間体験の根源”に、今日の読者をして触れさせるものがあると思います。
 これは、島田さんの作品に最初に触れたときに受けた印象で、今も変わらぬ思いです。

 人間体験の根っこに触れさせるような作物は、古びることがない。それは島田等さんが、「らい」の特殊性に凭れないところで深くものを思い、書かれているからでしょう。

 療養所文芸をやられた多くの人たちの作物、特に伝統的形式の〈短歌〉や〈俳句〉などの定型短詩をやられた人たちの多くの作物が、そして詩作品を見ても、一部の人たちを除いて、「らい」に依って書く、らいの特殊性に寄りかかっているところから書くというところからさほど遠くには出ていないことを考えれば、このことは稀有なことであることがわかります。」



[1799] 2008年度セミナー予告 投稿者:北風 投稿日:2008/10/04(Sat) 19:42  


    ハンセン病市民学会 図書資料部会
2008年度セミナー予告

島田等「知識人の〈らい〉参加」をめぐって

図書資料部会はこれまで2回、多磨全生園でセミナーを開催しましたが、第3回目は会場を京都に移して下記の要領で行います。

テーマ 島田等「知識人の〈らい〉参加」をめぐって
日 時 2009年3月21日12時〜22日12時まで
場 所 京都・京大会館(075‐751‐8311)
基調講演 鶴見俊輔
講 師 森幹郎(交渉中)その他。

今回は、島田さんの連続エッセイ「知識人の〈らい〉参加」にテーマを借りて、森幹郎、永丘智郎、神谷美恵子、杉村春三らとのハンセン病との関わり、「らいはアジアを結ぶ」といった大江満雄、「らいと朝鮮という二つの中心を持つ楕円が、ようやく自分の中でひとつになった」といった村松武司。あるいは良心的兵役拒否を貫いたのち星塚の職員になったイシガオサム、東大総長矢内原忠雄と井藤道子といった人々の実践からなにを学ぶか、一緒に考えてみようではありませんか。
テーマと基調講演が決まっただけで準備はこれから。企画段階からの参加を呼びかけます。
…………………………………………………………………………
ちかく、第1回目の準備会を開きたいと思います。
準備会にご参加いただける方、セミナーにご関心をお持ちの方、今後ご案内を差し上げますので下記に連絡先をご記入の上、メールでご連絡ください。

【お名前】

【ご住所】

【お電話・Eメール】

【ご意見】



[1798] 森幹郎さん。 投稿者:北風 投稿日:2008/10/04(Sat) 17:24  


昨日、編集上の打ち合わせのため、榛名に森さんをお訪ねしました。
話はすぐに終わったのですが、訪問のもうひとつの目的は、セミナーの講師を依頼するため。

かれこれ4時間あまりもお話して、私事ながら父の「師」の夫人も近くにいらっしゃることを知ってビックリ。その養子にあたる人は、「おばあちゃん」の母教会のU先生の弟であった。
U先生は蚤の夫婦であるが、養子になられた弟さんは長身である。

さらに、森さんは学生時代、無教会の政池仁先生に従って、甲府の結核療養所にも伝道に見えられたということで、療養所のSさんというおばさんの話が出たとき、にわかに明眸皓歯なおいらをかわいがってくれた、きれいなおかっぱ頭のおばさんと重なったのであった。



[1797]  「らい療養所の文学運動について」、しまだ ひとし論の、『らい』誌・21号(’79年9月発行)より                                                                                                                                                                 投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/03(Fri) 12:28  

 <「らい療養所の文学運動について」、谺雄二の詩について、さかいとしろう論、しまだ ひとし論の『らい』創刊二〇号記念読者の集いから> 『らい』誌・21号(1973年9月発行)、「詩でなければならないか」4〜9ページより (承継)

               人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

‘                08年10月3日(金曜日) 11:47


 「らい療養所の文学運動について」(『らい』誌・21号(1973年9月発行)4〜6ページ(於 奈良・交流の家)から (承継)

 <しまだひとし論>

 徳永 ぼくがらい詩人集団になんかあるという感じをもったのは「宣言」を読んだときです。

 ぼくがらい療養所をはじめて訪ねて多くの人々にあい、何を感じたかというと、「もう私たちはいいんです。家の者に迷惑をかけたくないし‥‥‥というのがほとんどだった。そのとき社会復帰運動とか、らいでないぼくらが、らいの人が外に出ることが大事だとかいうことをかなりノボセ調子にいいえたときに、患者さんじしんの多くは「放っていてくれ」といっていた。

 そういうとき「宣言」を読んでドキッとした。らいであることを名のりながらこれだけのことをいいうるのは印象にのこるし、ある感動はいまもあります。

 その中で「存続する運動体にとっていつも出発点だけがたしかなのである。私たちも詩を書くなかでそのたしかさには閉口する」― つまりなぜ詩を書くかといえば、詩を書くことでらいを強いたものにむかいたい。このままらいを強いたものの中で生きたくないという気持がつよくあるという感じがします。


 しまださんは評論も書かれていて、ぼくにとってはしまださんの詩というよりも評論の多くの中で、しまださんの姿勢というものに感動するわけです。それでしまださんがらいでないほど醒めていて、自分をみつめておられるという感じをうけます。

 ほかの集団のメンバーが、らいであることの怒りとか、ふるさとを郷愁的に書く部分があるとすれば、あるいは自分の過去を想い出として書くとすれば、しまださんはそういう点ほとんど書かない。軸はらいを強いたものとの競争として自分は生きているという姿勢が印象づよい。

 ぼくがらい詩人集団の詩を読んで感じるのは、らいであることはぼくらにとってものすごいある印象だし、詩のある部分というのはつきださんの詩にあるように「らいは比喩のいらない生きもの」として、かなしさであるとか、絶望であるとか、わかれであるとかが非常に印象的なものとしてある。

 そういうものを書いた作品は沢山あって、それがらいの詩だという感じがあります。たとえば小島さんのなかには情念的でどろどろとしたいらだちだとか、かなしさのまじったものを感じます。北河内さんは自分の母とかふるさととかを望郷という感じでしか書かれていないけど、そういうふうにしかうたえなくなっている自分というものを逆にそこに読むことができると思いました。

 で、らいの人というのはいろんなところでわかれ、離別を強いられてきたわけで、ぼくはセンチメンタルなところがあるからか、やはりそういうものがある感動をどうしても強いる。

       (42行を中略します)

 しまださんの書かれた中にもあるんですけれど、らいの人間というのは、近代は一人々々の人間に自己を主張し個性とか自己をひろげる方向にあるとするなら、らいというのは全く反対に自己をかかくす、偽名を使うとか偽りの葬式をするとか「無名化」の方向であったのがらいではないかといっていられるのですけど、ぼくもまさにそうだと思うんです。

 無名化の中に黙々と生きていくというそのことじしんがXに対するものすごいアンチとしてありうると思うわけです。だのに詩を書かれる多くの人は、無名化を強いたものにうちかとうということで簡単に普遍的になってしまうんじゃないか。

       ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥



[1796]  「らい療養所の文学運動について」、谺雄二の詩について、さかいとしろう論、しまだ ひとし論の、『らい』誌・21号(’79年9月)より                                                                                                                                投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/02(Thu) 21:57  


<「らい療養所の文学運動について」、谺雄二の詩について、さかいとしろう論、しまだ ひとし論の『らい』創刊二〇号記念読者の集いから> 『らい』誌・21号(1973年9月発行)、「詩でなければならないか」4〜9ページより

               人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

‘                08年10月2日(水曜日)


 「らい療養所の文学運動について」(『らい』誌・21号(1973年9月発行)4〜6ページ(於 奈良・交流の家)から


 <谺雄二の詩について>

木下 谺さんの詩、ぼくは率直にいってあんまりいいなあと感じない。その中で「ふるさと」というのは比較的気にいっています。

 谺さんとは一度楽泉園で会ったことがありますが、なんかすべての詩がこぶしをふりあげているようなところがあるので、「宣言」にあるらいを根拠にしてという感じをうけずして、らいをスローガンにしてというような感じがする。谺さんじしんに会ったときもらい者という感じがあまりしなくて、らい園にいるたたかう人という感じだった。

    ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 <さかいとしろう論>

松村 にことわっておくと、この詩の中でええこと書いてあるなあというところは全部省いて、それからことばの使い方、技巧の問題も、素材についてのさかいさん特有のあつかい方――そういう関心も全部のぞいて、おもにぼくの考えていることと、さかいさんのいわれることとちがうんじゃないかというところをのべさせてもらいます。

 さかいさんにとって重たい、痛みみたいなものが詩の中にものすごくあって、貧乏とか、非人間的な、いわれなき差別、抑圧があつかわれていて、ああすごく大変なんだなあという感じがあるわけです。安定した生活を送っている人間にはみえないものが、かれにはすごくみえてるだろうなあという感じがする。

 ところがそういう貧困や差別をうけたのが、どうしう形でそのエネルギーに転化できるかと考えた場合に、いろんなパターンがあると思う。普通の人間は黙々と耐えて、その日ぐらしを送っていくと思うし、もう一つは放従というか、それもそれなりに意味があるんでしょうけれど、外からみたかぎりではそういう生活を営む人間のように思う。

 第三目は差別する者をみつめることにによって対決に生きる人間で、さかいさんの詩から読みとれる生き方です。

 さかいさんがうけているものすごい差別はぼくなんかにはわからない痛みがあると思うんですけれど、その痛みをバネにして自分にとっての敵を糾弾していくときに、さかいさんにとって敵とは地主であり、アメリカ帝国主義であり、絶対的天皇制ですが、さかいさんの痛みみたいなものと敵の認識とのあいだには、おそらくいろんなステップ、段階があり、いろんな屈曲があると思うんですけれど、さかいさんの詩からなかなかそれが読みとれない。おれはこんなに苦しかったとか、こんなに差別をうけたとか書いてあって、最後にだから地主はけしからん‥‥‥とパッと出てくる。さかいさんが人生を歩まれる中でその認識にいたった過程というのがほとんどわかりにくくて、詩の中でそれが描かれていたらぼくらにもよくわかるんやけど。

 次に敵の認識についてですが、ぼくはらい者ではありませんし、ぼくが生きていく上で敵の認識は少し異なるのですけど、ぼくにとってはさかいさんのいう差別がなくて人間の活動が全面的に自由であるような社会はそう簡単に考えにくい。

 ぼくの感じる差別の構造というのは、いまの社会の権力の構造というのと、その社会に住んでいる個人々々の心理構造というようなものの接点に成立する問題で、さかいさんの詩を読んでいるかぎり、後者の意識構造というか、心理構造がみえてこない。

 ですからなんぼ痛みがあったとしても、その痛みがどういった種類、どういった質の痛みであるのか、個人々々をおさえるのでなければ未解放部落にしろ、在日朝鮮人にしろ、ともにいためられているのだから手をつないで‥‥‥というのは、理念的にもそうだし、また政治的な実践行為としてもそううまくいかないだろうと感じる。

 それがなぜかれらの苦しみはわれわれの苦しみというように、すうーっと同一化出来るのか。さかいさんじしんが実際にそれができたのかどうか。いくら苦しんでも、苦しんだ人間の連帯はそうなかなかいかない感じがする。

 三番目には、らい差別の特殊性というものがこの詩の中から読みとりにくい。小泉雅二だと、この人はやはり未解放部落の人でも、在日朝鮮人でも、底辺の人でもなく、らいの人なんだなあということがわかるんだけど。さかいさんの場合はらいという言葉は出てくるが重みは出てこない。

 それはさかいさんの中にらい差別の特殊性がないのか、たまたま詩の中にあらわれていないのかよくわからないが、もっとらい者の現実というのは、らい者にとっての差別というのは特殊というのか、もっと個別性があるんじゃないかというふうに感じるんです。


  註:(未完;徳永 進氏の「しまだひとし論」は、明日書く予定です。=滝尾)




[1795]  「労働の回復― 知識人のらい参加 その一 永丘智郎」 しまだ ひとし らい詩人集団発行『らい』20号(’72年9月)より                                                                                                                                       投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/01(Wed) 13:30  

「らい詩人集団発行『らい』20号(1972年9月発刊)の「あとがき」(S=編集者・島田等さん書く;部分)と、らい詩人集団発行『らい』の「“知識人のらい参加”―永丘智郎」文末の記述(前文=はしがきにかえて=滝尾)

 「‥‥▽患者数の減少というなりゆきのままに、らいの問題をゆだねることは、問題の解決にならないし、患者のそれこそ長く苦しいたたかいを、ムヤムヤのうちに葬むることになることをおそれる。“知識人のらい参加”は、そうした懸念が、あらためて私たちの助言者に私たちの目をむけさせるものとしてとりあげた。杉村春三、神谷美恵子氏など、ぜひつづけたいと考えている。」

 「『らいの障害をもったまま、身障者として世の中にとけこむ』ことに、私たちの余命をもってして成功できるかどうか。みずからの概念を曖昧にしたまま、らい療養所は消滅することができるが、“長く病み傷つく”人間は私たちの他にも後をたつとは思えない。療養についてしんに人間的な理念と施策の確立は、いまを病む者であるかどうかにかかわりない人間の課題であるはずのものである。
 私たちが永丘智郎の学問と生からうることができる励しも、らいという具体を介して人間の課題にとりくむときである。」(28p−ジ)


 私ごとになりますが、10月1日(水曜日)正午前に、広島市立安佐市民病院を退院しました。9月18日(木曜日)に入院したのですから、ちょうど2週間の入院生活を送った訳です。検査、検査という毎日の生活でしたが、その間で自由時間を利用しまして、島田 等さんが『らい』(らい詩人集団発行)の20号=1972年9月発刊に掲載された、しまだ ひとし著「“知識人のらい参加”―永丘智郎」を病院に持参したノートパソコンを使って、書き写しをしました。

 三十六年前に書かれた、この「“知識人のらい参加”―永丘智郎」を書き写して、今更のように、今日においてハンセン病問題で論じられている諸問題=たとえば「社会復帰」「〜将来構想」「近現代の医療制度」などが、すでに「“知識人のらい参加”―永丘智郎さん、神谷美恵子さん、杉村春三さん」などによって、適切に指摘され助言されていることです。実に新鮮で読むことができました。その提起は、ハンセン病問題のみならず、今日の「医療制度」「医療行政」「医療教育」「高齢者や心身障害者の医療問題」などにも、実に適切な指摘、助言がなされていることです。


 この「“知識人のらい参加”― 永丘智郎」は、『滝尾英二的こころ』、および『滝尾英二的こころPart2』の掲示板に掲載します。お蔭さまで私の症状もよい方向で推移しています。皆さまには、たいへんご心配をおかけしました。申し訳なく思うとともに、再度、活動を再開します。よろしくお願いいたします。ありがとうございました。


 【追伸】10月1日(水曜日)正午、安佐市民病院を退院し、帰宅早々、「北風さんのホームページ」を拝見しました。

<‥‥‥3月21日、22日京都の京大会館を会場に行う見込みとなりました。

 テーマは、島田等さんの「知識人のらい参加」をめぐってですが、基調講演は鶴見俊輔さんです。現在、鶴見さんは来年の予定は一切入れていないということで、特別に入れてもらいました。

 細部はまだ決まっていませんが、この時期、鶴見さんにお話をしていただく意義は大きいと思っています。>
という嬉しい投稿記事がありました。

 下記の入院中に検査に合間・合間に、持参したノート・パソコンで書いた投稿原稿が、お役にたちそうで、“よかった!”と思いました。また、皆さまとの戦列復帰です。がんばりますので、よろしくお願いいたします。(滝尾英二より)

         2008年10月1日(水曜日)12:35     滝尾英二

      ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥


<「労働の回復― 知識人のらい参加 その一 永丘智郎」 しまだ ひとし> (らい詩人集団発行『らい』20号1972年9月、21〜30ペー収録>


                     人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                       ‘08年10 月1 日 11:30

 長い歴史をもつらいの救済運動、らいの社会事業には、多くの宗教家や社会事業家、医療関係者やその他の人々が参加してきた。

 とりわけ参加の機軸に、人格と人権をもつ患者の人間性をもとめた知識人を見出すことができるのは、戦後の特色であろう。杉村春三、永丘智郎、神谷美恵子、大江満雄、鶴見俊輔、中野菊夫、宮城謙一といった人々が私には思い浮べられる。(註一)

 これらの人々の活動のらいにかかわる部分は、それほど目立たないかもしれないが、それは戦後民主々義をのぞいては考えられないひとつの社会的結実であり、らい問題解決の過程において忘れてはならない寄与である。

 ただ、それらの寄与もあずかって、日本のらいの問題が解決にむかって着実に歩んできたかというと、必ずしもそうはいえない。

 私の入所している長島愛生園では、昨年来死亡者が多く、入所者の心情を動揺させているが、年令構成が六十才以上三六パーセントというように、異常に高令化している(註二)。らい療養所にあっては、それは避けられないなりゆきでもあり、患者の絶対数が半減し、さらに半減するという事態は、そう遠くないと思われる。

 そしてそのことは、患者数を事業対象としてきた日本のらい政策に、“終り”をむかえさせることになるかも知れないが、しかし、その対象を人格として生きてきた私たち患者の生にとって、それは、そのままでは消滅であっても解決とはいえない。

 私たちののぞみは、消滅ではなくて解決である。

 固体としての余命はあといくらもないにしても、それによって消す余命はあといくらもないにしてもそれによって消すことはできない私たちのねがいは、また知識人のらい参加がテーマとしたものでもあるはざうである。

 註一 これらの人々は長島愛生園入所患者としての私の見聞に限られたものであり、じっさいにはにはさらに多いはずである。
 註 長島愛生園入所者自治会「昭和四七年三月一日現在、入園者年代別人員数及び平均年令」


 <“病める労働者”>

 参加は選択である。
 ある人が他をおいてそうしたことの意味を、私たちは軽重さまざまに受けとめることができるが、ここではそれが私たち自身の生への誠実さをしめすように思う。

 永丘智郎の名を私たちが耳にしたのは、生活記録集『深い淵から』(註三)の編集にはじまるが、それ以前に氏は労働科学研究所の所員として、看護婦の労働調査のため多摩全生園を訪れている。

 しかし、『深い淵から』の出版以後、らい園の刊行物でしばしば発言されるようになった氏と、産業心理学者としての氏とのつながりは、なかなか私たちの中でなじめなかった。根堀り葉堀りなぜらいに関心をもつようになったかと、患者に穿鑿され辟易したということを書いていられたことがある(註四)が、私なども同類で、氏は最初から自分のらいへの関心は、自分の学問の一部なんだということを淡々と語っていられたのだが、私たちの方でそれを淡々と聞く耳をもたなかったのである。

 自己の学問――産業心理学の役割と方法にたいする、人間的な反省と検討のなかに、氏のらい参加はあった。方法論的な確認に裏うちされて、患者はあくまでも労働者の一員であるという視点を面ぬかれている。その学問的立場が、抽象的、一般的な労働者でなく、貧困とか疾病とか災害とかで苦しんでいる具体的な存在を選ばせるのである。

 経営者的な視点からでなく、ヒューマニズムに立つとき、産業心理学的事実は経営の中にとどまらず、職場の外の労働者の生活と心理をひろく追及させた。その中に病める労働者としての、らい患者もあったのである。

 しかしこの“病める労働者”は、労働者としての自意識を持たなかった。そればかりか患者意識まで遠ざけようとする存在であった。そしてそのことは、そのまま日本の医療行政=らい政策の意図に沿った事実でもあったのである。「誤ってわが国医療行政の伝統となってしまった労働者意識の廃絶政策」(註五)を指摘する氏は、日本の近代化に根を下ろした歪みである。“療養”概念のありようを問おうとする。

 註三 堀田善衛と共編、新評論社、昭和三一年
 註四 『深い淵から』の社会的反響について、『愛生』昭和三五年六月
 註五 「医療サービスに関する考察」、朝倉書店『消費心理学』所収


 <“療養”と産業心理学>

 「医療サービスに関する考察」(註六)によると、もともと日本の医療体系(医療教育を含む)は、“医療”という概念そのものを脱落させやすい素地をもつものであった。

 医師はもっぱら病院勤務者ないしは開業医としての適性を付与されてきたし、なによりも富国強兵という歴史的偏向が、国家が国民生活に責任を完全に負わないという基本的な生格をうえつけた。

 結核患者は、国民病としてながいあいだ個人の家庭にその療養生活を委ねられたし、(精神病患者も同じような状態におかれてきた)、らい療養所は設立された後も、実質は収容所という期間をながくつづけた。

 “療養”という概念が、医療の一分野としていかに成立をみがたい基盤にのせられていたが、今日それについてはさまざまに振りかえることができるが、大事なことは、それらを過去のものとして――なによりも国家が完全に国民生活に責任を負うという体制の転換に、私たちがなお成功していないことである。戦後の四分の一世紀をこえる患者運動の努力をかたむけて、解消できないでいる曖昧で不合理な私たちの状態からも、そのことは痛感される。

 医療施設としての療養所とはなにか。そこで行われるべき医療はどういう理念と機能をもつべきなのかが、しんに問われたことがあったであろうか。不幸なことは、それを誰よりも問わねばならないところの当事者――らいの医療関係者や患者が、渦中のゆがみを全身に浴びて、それを問うにふさわしいものを喪失し、あるいは獲得できなかったらしいということである。永丘氏の問題提議(の適切さ)をたどりながら、そのことを感じないわけにはゆかない。

 教育における医師の適応についてはすでにのでたが、その他に、医療における技術主義(疾病をみて人間をみず)、いわゆる“病院化”論への懸念(むしろしんの意味の“療養所化”こそもとめられねばならない)、管理機構の封鎖性、看護労働の位置づけの不明確さ、患者集団の質の無視とスチグマの不当な強調、家族や職業との“離し方”の無理と誤り(からだの病気がなおっても、こころの病気と労働技能を失なわせれて退所できない)、労働意欲の保持と社会復帰という目的を見失なわない患者作業のとらえなおし(所運営業務との厳密な分離)、所内結婚制度への批判、(人間性の回復は、セックスよりも労働によって計られるべきものである)などにみられる、「わが国の療養所行政、療養所管理をなかなか前進させない原因」っとしての「療養所の概念をきわめて曖昧なものとしてとらえている(註七)らい療養所の現実は、いまも数多く持続されている。


 らい療養所がしんに生まれかわるために、永丘氏が産業心理学の有用性を信じられるのは、「療養社会がしばしば社会心理学の対象として考えられたが、労働の問題をぬきにしてそのような考察をすることは無意味に近い。多くの患者が結局は身体障害労働者であるとき、身障者更生、同職業訓練を、療養所と切離したところで考えることも、あまりにも発展性がない。」(註八)からである。

 註 朝倉書店 『消費心理学』所収
 註 右同
 註 右同



[1794] 「労働の回復 知識人のらい参加 その一 永丘智郎   つづき                                                                                                                                                  投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/01(Wed) 13:21  


<生活記録―― 労働の回復、その一>

 それをぬきにして考察することは無意味に近いという。“労働の問題”を、らいの療養社会において永丘氏はどのように考察されたか。

 らい園の出版物に発表された氏の論考は少なくないが(文末目録参照)、それらを大別すると、『深い淵から』にはじまるらい園の生活記録に関するもの(評論や書評をふくめる)、らい政策と療養所論(訪問記、リハビリティション論をふくむ)、患者運動、藤本裁判などであるが、なかでも生活記録に関係のものの多いのが目につく。

 らい園とのかかわりに、生活記録の介在があることについては、氏の学問上の方法とともに、療養生活は直接的な生産労働にないという背景があり、また専攻領域からすれば研究素材である生活記録を、社会教育、患者教育の一つの手がかりとも氏はされているが、それについては、「心理学をしんの意味で労働者教育に参加させたい」(註九)という抱負と、「広い意味での人間変革現象」にたいする「最大の関心」(註」一〇)にあった。

 生活記録集の編集を企画させた直接の動機は『らい白書』(註一一)の中の被害事例であったが(註一二)、「わが国医療行政の伝統となってしまった労働者意識の廃絶政策」(前出)の一つの典型であったらい療養所において、“労働の問題”は患者の労働者、勤労者としての意識のありようと、その問題性が手がかりであり、重要であったことは肯ずける。そして氏の抱負と関心が、記録集編さんを介して、氏のらい参加に社会教育的実践の色彩をも色濃くさせた。

 “労働お疾病と人間形成”の副題をもって発刊させた『社会教育の心理学』(註一三)は、その実践の学問的な報告でもある。その書の“あとがき”において、「本書はあたかもハンセン氏病問題に重点をおいた書のおいた書の如き観を呈しているが」「おそらく“社会教育”というような人間存在の根本命題にすらかかわりのある学問分野では、このような特異な発想形式も問題の具体化のためには必要であったのかと思われる」と振りかえられているのである。

 社会教育的実践としての生活記録(運動)の核に氏が置いたのは、“人間的価値”の課題である。「生活を通じての、その人のもつ人間としての価値を伝達するもの」(註一四)としての生活記録は、患者の生(「患者はどんなに入院期間が永びいても入園前の労働者意識<乃至は職業意識>を凍結状態において保持しているものである。」註一五)に自覚をうながすことをつうじて、人間同志としての関心を回復させようというものであった。『深い淵から』の社会的反響の中に、その「生活記録によって人々を励まし、また大勢の価値ある人間を創り出すことに役立つ」(註一六)ものがあったといわれるとき、たしかにそれは、そのままでも“労働の復活”をいいえたであろう。

 だが『深い淵から』をこえて、らい園の生活記録運動は進展しなかった(註一七)。そしてその底には、変ることに神経質な、らいの療養社会の根づよい体質があった。療養ということを長いけれど通じるパイプとたとえるとき、らいの療養社会ではそのパイプの出口は、ずっとつまらせたままであった。

 註九 「労働者教育の方向」『社会教育の心理学』所収
 註一〇 「静かに考えをめぐらし ――西部五園印象記――」
 註一一 全日本国立医療労働組合編集発行 昭和二八年七月
 註一二 座談会「療養所の生活記録運動」『多磨』 昭和三一年
 註一三 明玄書房 昭和三四年
 註一四 「『深い淵から』の社会的反響について」 前出
 註一五 「意識について」 『全患協ニュース』 一〇九号 昭和三三年五月
 註一六 「『深い淵から』の社会的反響について」 前出
 註一七 現在らい園の定期的刊行物において生活記録をずっととりあげているのは『点字愛生』(季刊、愛生園盲人会編集発行)くらいである。ただ単行本として最近「復権文庫」(奈良市、交流の家)から、藤本とし、高杉美智子集が発行され、つづいて盛岡律子集が出される予定である。


 <リハビリテイションの集団的把握 ――労働の回復、その二―― >

 らいにおいては社会復帰(治ることの社会的承認)がはかばかしくないことについて、多くの人は偏見の問題をあげるが、永丘氏は身体障害者としての問題もたえず言及されてきた(むろん偏見の問題を軽視されているわけでない)。

 抹消神経を全身的におかされることが多いことによるらいの身体障害は、障害の重層、多様性により、一度障害をひき起すと病源菌との関係なしにも、障害が障害を起させてそれを加重させていたために、早期治療による回復を逸した者は、ほとんど二重三重の障害をもっており、それらの者が現在の療養所で圧倒的多数を占めている。

 らいにおけるリハビリティションの困難性を偏見の問題に解消することは、一見説得力にみえるが、たとえ偏見からの解放が仮定されても、ただちにスムーズな社会復帰の実現を予定できる者は数少ないであろう。患者(および回復者)のリハビリティションを考えるとき、身体障害者としての対応は欠くことのできないものであるが、これだけ回復者(少なくとも菌陰性=非伝染性者)が増えていながら、身障者更生、その対策が、療養所行政としても、患者運動においても、正面からとりあげることを避けさせているところに、偏見論傾斜の問題性がある。

 永丘氏がらい園を訪れる以前に、国立身体障害者職業補導所などの施設に関係されていたことは、私たちの対応の問題性にたいする助言者としてねがわしかったといわなければならない。とりわけ重度の身障者を集団としてかかえているらいのリハビリティションへの考察として、「リハビリティションと療養生活」(註一八)は、氏の年来の考察の一つの集約として受けとることができると思う。そこでは従来のリハビリティションの一般的な考え方をしりぞけ(それでは重度障害者はとりのこされ、また復帰できた者も社会的に分の悪い状態におかれることが多い)、集団的な概念を導入されている。


 “何にもできない人間はいないし、人間のもっている能力はあくまでも活用することができなければならない”という考え方に基づいて、回復者が個々に“ぬけがけ的”にうまくやるのではなく、障害者一人ごとの要求を集めて組織していくという集団的要求化である。そして障害者の能力については、過去をとり戻すという発想をやめ、現在の生活の中で獲得したものに目をむけ、さらに新しいその芽生えをうながすことをつうじて、その発揮の場所(働らき場所)獲得運動(仕事よこせ運動)へと発展させよというのである。

 たしかに「リハビリティションを個人の問題として考える時代は過ぎ去りつつある」(註一九)という氏の指摘は、私たちの現実からも肯ずける。らい回復者の退所は、昭和三五年の二一六名をピークにいて下降をつづけ、昭和四五には七五名(註二〇)という状態であるが、それは患者の老令化のこともあるが、身体障害者としての課題が困難性の前に追及されてこなかったことも大きいはずである。そうしたことからも、らいのリハビリティションへの考え方の質的転換は、現実的な要請といえよう。

 そしてそれはまた、政治的社会的責任への認識を欠いては前進をみないものであり、「国だとか企業体だとかの個人以外のポリシーが、身障者をつくっているという意識をもたないと、災害問題の解決というものは前進しない」(註二一)という、産業心理学のここ三、四十年来の解明による到着点をふまえて、氏の強調があるゆえんである。

 災害を起しているものへの責任の認識を介して、たんに国費で療養所に入れているだけで責任をまぬからせるのではなく、「らいの障害をもったまま身障者として世の中にとけこむことについて、偏見の解消ということについて、国に完全に責任を持たせ(註二二)ることが要請されなければならないのである。そしてそれはまた私たちののぞむらい問題の“解決”でもある。

註 一八 『高原』 昭和四二年一一〜一二月
註 一九 同右
註 二〇 厚生省結核予防課調べ、『全患協ニュース』三九八号 昭和四七年三月
註 二一 『楓』 昭和四十年八〜九月
註 二二 同右


 <幸 福 論>

 ところでらいの療養社会は、永丘氏の実践的な意図にとって、必ずしも理解と受容の場でなかったことについて書き落すわけにはいかない。

 「きわめて不遇なる文化的沿落者(の集団)」(杉村春三)を対象にし、関心の相互性が成立しにくいなかで、氏のらいとのかかわりをささえてきたのは、学問的情熱とヒューマニズムであろう。これらの基礎であり、またあらわれとしての人間観は、氏の記述の随所にうかがうことができるが、それについてもふれておかなくてはならない。

 “現代生活と日本人の形成”が、氏の生涯をかけた学問的テーマであるという(註二三)。
 「人間はどうなるんだ」(註二四)という気がかりのすべてが、しかしその視線を“困苦に耐える人々”へまっすぐにそそがせるわけではない。そこには「たえず人間の屑をつくり出している現代社会」(註二五)への認識が一方にあり、一方に「人間に屑はない」(同上)という知見のささえがある。そしてそれをかりそめのものとしない生き方であった。

「人間の幸福を「運」「不運」できめ」させてはならない。(註二六)
「精薄児と呼ばれている子供たちでも、どこか見どころがある。人間というものはあまり屑はないんだ、そういう人間についての考え方は今後もぜひ必要だと思う」(註二七)

「私には不幸な人々の悲しみがよくわかる。かえっていつも幸福である人々の喜びは」よくわからない。だから私はメーデーに行って皆の顔を見るだけで涙が出てしかたがなかったことがある。たった一年に一回だけ、あのように労働者が無条件に喜び合っているのだという感慨は、私の心をゆすぶる。いまの世の中で幸福になれている人々を私はうらやましく思わない。もちろん病苦とか貧困とかの不幸がそのまま存在を許しされてはならない。しかし私たちはみんなが幸福になれるような社会を築くため、いろいろな不幸を正面からみつめることが更に必要のように思う」(註二八)。

「病気と貧困ほど、この世の中でいやなものはないと思った。遺された私たちは、この二つのものをなくさなければならない。」(註二九)
「人間の特性」は「自らの環境を作り出す能力をもっていること」であり「それは楽天的な人生観」の基盤である。」(註三〇)

「労働は、その原始形態において考えるときには、絶えることのない研究心と創造の喜びを含んでいたものであると考えることができる。」「労働はその結果としての収穫に対して、素直な喜びが表現されなければならない。労働についての楽天主義こそは、人間のもっとも基本的労働観である。」(註三一)
「むしろ人間はとくに、歓喜への希望と欲求をもっているように考えるほうが正しいと思う。今日まで人間の文化が進歩してきたのも、喜びの感情がその基本をなしていたようだ。」(同上)

「文化を裏打ちするものは「文化」である。生活の中から私たちの感覚を通して生れてきたものこそ、本来の文化と呼ばれるものがある。文化はすでに築かれているもののみではなく、私たちの悲しみと喜びによって築かれるものも、また文化である。」(註三二)

 貧困や疾病や災害などの不幸へさかれた永丘氏の視線が多いのとうらはらに、人間への信頼と展望はたしかで明るい。それは困苦に圧しひしがれがちな私たちへこの上ない励ましである。そこに氏の学問と生をささえる真実をみるのである。


 いまの世は(あるいは世も)不幸を語ることによってしか幸福(真実)を語れないのが事実のようであり、また語らなければならない不幸は多いが、真実にそれを問うことは多くないことも事実のようである。それはまた“不幸な人たち”にかぞえられる私たちのあいだにおいても例外ではないようなだ。

「らいの障害をもったまま、身障者として世の中にとけこむ」ことに、私たちの余命をもってして成功できるかどうか。みずからの概念を曖昧にしたまま、らい療養所は消滅することができるが、“長く病み傷つく”人間は私たちの他にも後をたつとは思えない。療養についてしんに人間的な理念と施策の確立は、いまを病む者であるかどうかにかかわりない人間の課題であるはずのものである。
 私たちが永丘智郎の学問と生からうることができる励しも、らいという具体を介して人間の課題にとりくむときである。

註二三 「あとがき」 『消費心理学』 朝倉書店
註二四 「『深き淵から』の社会的反響について」前出
註二五 「精神障害と人間形成」『人間の社会的形成』(新訂版) 邦光書店
註二六 「身体障害と人間形成」 同右
註二七 「精神障害と人間形成」 同右
註二八 「生活記録の編纂にあたって」 『全患協ニュース』五九号 昭和三一年三月
註二九 「身体障害と人間形成」 同右
註三〇 「人間の形成について」 同右
註三一 「労働者教育の方向」 『社会教育の心理学』所収
註三二 「あとがき」 同右

    ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

   訂 正(『らい』21号、1973年9月発行より)

 「らい」二〇号掲載の「知識人のらい参加・永丘智郎」のなかに、事実の誤認として、永丘智郎氏よりご指摘をうけましたので訂正いたします。

  (訂正箇所)

『らい』二〇号二二頁
「それ以後」を「それ以前」(本文は訂正しました。=滝尾)

同上二二頁
 「氏は労働科学研究所の所員として、看護婦の労働調査のため多磨全生園を訪れている。」は、氏が看護労働の視察のため全生園を訪れたのは、「全医労本部の研究嘱託」としてあって、「労働科学研究所の所員」としてではなかったこと。なお当時、永丘氏による調査と、労研所員による調査はほとんど時期的に平行しておこなわれ、また永丘氏はのちに、「労研客員所員」となられて現在にいたっているということですのでご紹介し、ご教示を謝します。



[1793]  <永丘智郎 らい療養所刊行物執筆一覧> )(『らい』20号、島田 等編集28〜30ページから 所収。)                                                                                                                             投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/01(Wed) 13:12  


<永丘智郎 らい療養所刊行物執筆一覧> )(『らい』20号、島田 等編集28〜30ページから 所収。)

『全患協ニュース』(全国ハンセン氏病患者協議会)
*「生活記録の編纂にあたって」 五九号 三一・三・一
 「深い淵からについて」 六一号 三一・四・一
 「死んでいる裁判」 六二号 三一・五・一
 「書評 秩父明水 雲遊ぶ山」 六九号 三一・八・一五
*「静かに考えをめぐらして――西部五園印象記――」 七二号 三一・一〇・一
 「新しい年への期待」(アンケートへの回答) 七七号 三二・一・一
 「近況」 八一号 三二・三・一
*「ハンセン病裁判傍聴記」 八一号 三二・五・一
 「復帰すべき社会はどこに」 九三号 三二・九・一
 「判決をきいて――藤本事件の教えるもの――」 九六号 三二・一〇・一五

「ニュース百号を祝って」 一〇二号 三三・二・一
*「啓蒙について」 一〇五号 三三・三・一
*「同情について」 一〇七号 三三・四・一
*「意識について」 一〇九号 三三・五・一
 「文芸について」 一一一号 三三・六・一
*「共感について」 一一三号 三三・七・一
 「やまびこ」(短信) 一一四号 三三・七・一五
*「伝達について」 一一六号 三三・八・一五
*「偏見について」 一一八号 三三・九・一五
 「人生案内 社会復帰の足がかり」 一二四号 三四・一・一五
 「美しい人生の記録―― 『愛情の壁』について――」一三二号 三四・六・一

 「私的体験は共通テーマである――『黒い災の影』評―」 一五九号 三五・一〇・一
  五 (『高原』三五・一二月に転載)
 「在日朝鮮人の援護問題」 一六二号 三五・一二・一
 「偏見なき精神を」 百六十四号 三六・一・一五
 「死と生と人間性」 一九四(藤本事件特集)号 三七・六・一五
 「会員に夢をもたせよ」(全患協事務局取材記事) 一九九号 三七・六・一五
 「二百号記念に」 二〇〇号 三七・一〇・一
 「は氏病障害者の職業訓練と療養所の再編成」― 第三回療研全国集会での講演趣旨 二五四号 四〇・五・一

『甲田の裾』(松丘保養園)
*「ハンセン氏病療養所の今後と患者のあり方」 三五・九〜一〇月
 「医療関係育英事業の意義と役割について」 三五・九月
 「評論の主役」(選評) 三五・一二月
 「最近のハンセン氏病療養所について――啓蒙は職員から――」 三九・六月
 「<今後のらい対策について>批判」 四〇・五月

『高原』(栗生楽泉園)
 「療養体系の変革問題について」 三五・九〜一〇月
 「リハビリティションと療養生活」 四二・一一〜一二

『多磨』(多摩全生園)
 座談会「療養所の生活記録運動――『深い淵からの編纂を終って――』 三一・七月
 「大衆の中の保守主義について ――ハ氏病患者運動の前進のために――」 三四・八月

『芙蓉』(駿河療養所)
 「選評」 (随筆) 三五・一月

『愛生』(長島愛生園)
 「私の人生観」 三四・三月(邑久高校新良田教室第一期生卒業記念集)
 「認識を改めよ」 三五・三月
 「『深い淵から』の社会的反響について」 三五・六月
 「永丘学寮の近況について」 三六・八月

『点字愛生』(長島愛生園盲人会)
 「選評」(生活記録) 二六号 三七・九月
 「選評」(生活記録) 三〇号 三八・九月
 「選評」(生活記録) 三五号 三九・一二月
 「選評」(生活記録) 三八号 四〇・九月
 「選評」(生活記録) 四三号 四一・九月
 「選評」(生活記録) 四七号 四二・九月
 「選評」(生活記録) 五一号 四三・九月
 「選評」(生活記録) 五五号 四四・九月
 「選評」(生活記録) 六〇号 四五・一二月
 「選評」(生活記録) 六三号 四六・一〇月

『楓』(邑久光明園)
*「心理学からみた部落問題とハンセン氏病問題」 三四・三月(『部落』三三・八月より
  転載)
 「選評」(評論) 三八・一〇月
 「世相と療養所について」 三九・九〜一〇月
 「選評」(評論) 三九・一一月
 「ハ氏病障害者の職員訓練と療養所再編成について」 四〇・八〜九月
 「選評」(評論) 四〇・一二月
 「選評」(評論) 四一・一一月
 「選評」(評論) 四二・一一月
 「選評」(評論) 四三・一一月
 「選評」(評論) 四五・一月
 「選評」(評論) 四五・一一月
 「選評」(評論) 四六・一一月

『菊池野』(菊池恵楓園)
*「ます・コミ小論 ――惰眠論をめぐって――」 三二・四月
*「『深い淵から』以後 ――患者のための患者教育について――」 三三・六月
 「第三の歌への出発 ――歌集『白き檜の山』評――」 三五・一二月
 「選者とはなにか」 三七・二月

『姶良野』(星塚敬愛園)
「『生きてあらば』短評」 三三・五月
「偏見と社会復帰について ――療養社会の向上のために――」 三四・三月

『星光』(星塚敬愛園)
「鈴蘭協会について」 一九八号 三二・一一月

 執筆目録について
※ *印は『社会教育の心理学』に所収。
※ 昭和四六年(1971年=滝尾)十二月末現在による。
※ 文献探索は主に『愛生』編集部所蔵によるが、少数であるがバックナンバーを欠くものもあり、全てを網らしていないかも知れない。



[1792]  「らい療養所の文学運動について」しまだ ひとしさんの『らい』創刊二〇号記念読者の集いから 『らい』・ne21号('73年9月発行)より                                                                                                                                           投稿者:滝尾 英二 投稿日:2008/10/01(Wed) 13:06  


<「らい療養所の文学運動について」しまだ ひとしさんの『らい』創刊二〇号記念読者の集いから> 『らい』誌・21号(1973年9月発行)、「詩でなければならないか」4〜9ページより

                      人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二

                           ‘08年10月1日(水曜日)


 「らい療養所の文学運動について」しまだ ひとし (『らい』誌・21号(1973年9月発行)7〜9ページより

 らい療養所の文学運動を考えるとき読み手が育たなかったということがあると思います。私は文学活動を書くことから読むことまでをふくめたひろがりとして考えたいわけですが、らい療養所の中ではよい読み手が育たなかった。自分のまわりにいる仲間たちの作品をあまり読まないし、そうかといって一般の活字になったものをよく読んでいるということでもない。

 それにもかかわらず書くということは、最近はずっと減ってきているものの、ずっとつづいている。私たちを書くことにかりたてるものがあるというわけです。
 読まずに書くということは、人間の知的活動の生育過程からいえば正常ではないと思うのですが、それが私たちの文学活動の特徴の一つとしてあると思います。

 それから書かれたものの側からみると書きっぱなしということがあります。表出衝動のままに即自的なものとしてであって、主題意識とか方法意識とかはない。非常に自足的、閉鎖的なサイクルとしてあるわけです。蓄積とか深化とかいう観点をもともと欠いたところで行なわれてきたので、このような態度からは本来文学活動はうまれてこないと思うのです。

 私たちの書くものがたまたま詩だとか、文学のある型式をとっているからといって、それをただ文学としてだけで受けとめるべきかということがあると思います。

 私がらい療養所の文学活動といわれるものについていちばん実感としてあるのは、書かれたものの貧しさと、書こうとした衝動、意欲の膨大さとのあいだにあるギャップ、アンバランスの強烈さです。詩の場合とくに私はそういえると思うのですが、私たちの文学活動の動機を考えるとき、やはりらいの発病ということは切り離せない。

 それは書き手たちの多くが入院以前にはそうしたことはやっていなかったし、また作品の内容としてもそういえると思います。
 発病にともなうどの部分が、文学的活動にかかわるのかというと、体の苦痛もさることながら、人間としての社会的な存在にかかわる部分です。

 人間の生存は生理的な面と社会的な面にわけられると思いますが、らいの診断を“宣告”というような表現がされてきたように、患者にとってそれは人間の生存の反面である社会的な部分の死として負わされてきました。家族とか、村とか、職場とかでの人間関係は破壊されました。しかも病気が慢性的な経過をとるために、この社会的な死と肉体の死とのあいだには、長い時間のズレがあります。

 このズレはらいのばあい人によっては数年から数十年までさまざまですが、このズレがあるばかりに絶望感とか断末感とかにくりかえしおそわれてきたわけで、人間としての自己の存在へ価値判断が停止できないばかりに――それが人間としての存在でもあるわけですが――そこからくるこころの葛藤が、私たちを書くことにかりたてたと私は思います。

 芸術を、「人類がその生存のストレスにたいしてしめした精神病理的な反応である」というようにとらえた人がいて、その人はまた芸術が「人間経験において治癒的な機能をもつ」ことを指摘しているそうですが(ホワイトヘッド、神谷美恵子『生きがいについて』所収)、らい療養所の文学活動をみるばあい肯定できる部分が多いと思うのです。


 この生存のストレスへの反応と、美の治癒的機能として私たちの文学的活動もとらえることができると思うし、そしてそれがすでに獲得された文化的水準においてなされたというのが、いままでの状況ではないかと思うのです。本来一つのものであることがのぞましい死の二つの側面が、強制力で切り離されたことへの補てんとして、それはより多く治癒的な機能として私たちの文学的活動はとらえられるように思うのです。読むということの必要のなかった、つまり獲得された文化的水準を拡大させる必要そして余裕もなかった書くことの多量性というものを、私はそのように解するのです。

 らい患者のおかれた文化的水準は豊かでも自由でもなかった。その水準にあまんじている限り私たちの文化運動の成立ということはないという気持は、らい詩人集団の出発点でもあるわけですが、その思いはしかしなかなか作品として結晶できないでいるというのが私たちの現実であり、課題でもあるわけです。



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